んー、リスクという考え方がもっと広まればなー。コロナのバカ騒ぎも終わるような。中西さんが言うように「ファクト」を重視すれば、とも思うが、ファクトを関数に導入して自動的に解が導出されるわけではなく、人間のフィルターをかけざるを得ないので、まあファクトではどうしようもないとは思うが。
種類の異なるもののリスクをどうやって評価するのか、中西さんの研究。確率で許容範囲を考えていく。
そして重要な指摘が、
「私は費用と言ってきましたが、これは必ずしもお金だけを意味しているのではなくて、不便さとか資源の利用などの要素も含めてお金で評価されたものです。つまり、費用とは「リスク削減のためにわれわれが強いられる犠牲の総額」と考えてください。」(45)
そうだよなー。資源が無限だと考えている奴らがいるのがむかつく。
中西さんはさらに市民団体もリスク計算をしてみるといいと言っている。そうすれば、どこで線引きをすべきかという現実的な解を考えざるを得ないからだ。このあたりが中西さんなんかは市民団体から非難される原因かな。
市民感覚という単語によって、過大に安全側に寄ってしまっているのが現在で、これは由々しき事態ではあります。
中西さんは学生たちがQOLに取り組むことを認めなかった言っている。なぜならQOLが低い人、低くなった人が回復されない間は、質の低い人生とみなされてるという問題があるからだという。(125)
これも正当な見方かと思う。数値で表すことの利点もあるが、それに伴う不利益もでてきてしまう。当然でしょう。
QOL発想は、損失余命だけでリスクを評価できないから。中西さんの考えでは、精神的苦痛でも、弱い苦痛でも、それが長引けば寿命に影響を及ぼすと考えて損失余命を選んでいる。しかし、日本においては微小な影響が多くなっていて、それは裏返せば大きな影響がある事故が少ないということだが、しかし、この弱い影響を評価する上ででてきたのが、QOLだったという。
QOLは完全な健康なら1、死を0として、生活の質をその間のどこかに置くことになる。
QOLの低下はつぎのとおり、1-QOL。
QOLに年数をかけた値が質調整生存年(QOLYs)
ここからあるべき生存年から引いた値をリスクと定義する。
QOLによって、健康被害における金銭保障がある一定の客観的評価によって行えるのは確か。
しかし生まれつきの場合、その人の人生は低い価値なのか、となる。QOLは人の人生を数値によって測るために使い方が難しい。
当事者たちは、質の低い人生だと言われれば反発するし、当然そのとおりだろう。だいいちに完璧な人生という設定自体に無理がある。当事者たちは自らの障害を過大に喧伝されるのを恐れる。それは差別を生むからだし、自分たちの生を否定されることにも繋がるからだ。
さて、ここで中西さんの重要なことが書かれている。
「若い人が人生で、楽しいことを経験せず死ぬ。年を取った人なら、これまでの社会の役割を果たしてきたし、人間にも寿命があるのだから、いいではないか。いいではないかと言うと不穏当かもしれませんが、私ももう歳なので、私の気持ちとして聞いてください。ここには、死という不連続なものを恐れるだけではないものが、人間にはあるということです。つまり、ある種平均寿命的なものを生きる覚悟と、そしてやがて死ぬ覚悟です。だから、損失余命は一つの尺度になるかと思います。そこまで考えて使うことにしました。最初に信いs津余命を認めるかどうかというときにさんざん考えて、これはいいだろうと。もちろん、損失余命でも差別問題が噴出することはあるのです。大気汚染によって主として老人の命を失う場合と、事故などで若者も含めて命を失うふたつの場合を考えます。大気汚染だと、若者の被害者は少ないが、老人の被害者は多いのです。そこで大気汚染の対策と、事故の対策を比べる必要があるとします。死の数では一緒だとしても、損失余命で考えたら、若者のは三十何年から五十年の生命を失うから、年寄り一人より若者一人を救う政策のほうがいいということになります。つまり損失余命で年寄りは六年だが、若者は四十年から五十年ありますので、若者一人死ぬことは、年寄りが六~七人死ぬと同じ価値ですよ、ということになります。だから、損失余命だけを使うと、若者を救うべきというこちょになるのです。……米国で年寄り差別だといおう抗議運動があって、一部で損失余命を使うのをやめたこともあります。これは、決して差別ではないのですが、ある種の政治運動にされてしまうこともあるのです。こうした差別問題のプロパガンダに十分対処すること、その裏側では評価の高い人と低い人がいるので、使い方によっては差別的になること、また、限られた資源のもとでは、誰かが救済され、誰かが救済されないという現実があり、それが、評価への批判になりやすいという事実をよくふまえないといけないのです。ここが、リスク評価を有効に仕えるかどうかの大きな分岐点になるでしょう」(133)
中西さんはさらに、評価が恣意的であるのは当然であるとしている。別に完全な客観的なものではない。ただし、そのリスク評価の手法を示せば、どう評価したかがわかる、ダムと原子力発電のリスク評価は同列にはならない。その裏には利害関係者が関わっている。ただその評価方法は示せる。
「安全だから許容値だというのではない。この程度のリスクを、当面の許容値にしようと決めるのが、リスク論である。寿命が短くなると言うと騒がれるから、許容値という概念をだすのがリスク論であるというのとは制反対である。そもそもリスク論などないときから許容値という概念はあった。」(212)
んーーいろいろと現在繰り広げられているコロナのバカ騒ぎをみるにつけ、日本リスク論を受け付けない気質があるのか、それともマスコミが騒いでいるだけなのか。
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