2022/01/21

『福沢諭吉の哲学 他六篇』 丸山眞男/松沢弘陽編 岩波文庫

「福沢が「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先ず物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ」(文明論之概略、巻之一)と断じたとき、それが思想史的に如何に画期的な意味を持っていたかということは、以上の簡単な叙述からもりかいされるであろう。彼は社会秩序の先天性を払拭し去ることによって「物理」の客観的独立性を確保したのであった。」(53)
社会の規範や階層から離れて存在することはできない、だから個人が社会的環境を離れて直接自然と向かい合うという意識は成熟しない。この規範からの乖離を自覚した時はじめて無媒介に客観的自然と対決ている自分を見いだす。「社会から個人の独立は同時に社会からの自然の独立であり、客観的自然、一切の主観的価値移入を除去した純粋に外的な自然の成立を意味する。環境に対する主体性を自覚した精神がはじめて、「法則」を「規範」から分離し、「物理」を「道理」の支配から解放する。」(53)となる。
まず福沢にとっての「実学」とは、巷に溢れる実学とは異なる。通常言われる実学は、生活態度の単なる習得でしかない。環境に順応していくこと、商人であれば自然と商人になるべきと、自己に与えられた環境からの乖離を求められていない。
福沢の実学は異なる。「「実学」とは畢竟こうした生活態度の習得以外の者ではない。そこでいわれる学問の日用性とは、つきつめて行けば、客観的環境としての日常生活への学問の隷属へ帰着するのである。ところが福沢においてはどうか。ここでは生活の客観的環境ではない。……逆にそうした状況に絶えず自らを適合させていこうとする。」(57)
福沢の場合、絶対的な真理や価値判断というものをみとめておらず、善悪、美醜、真偽などは関係のなかで見いだされるものであること。より重要だるとか、より悪いといったように、選択の問題として具体的な環境に実践的に確定されていくものとしているという。
「是に反して主体性に乏しい精神は特殊的状況に根ざしたパースペクティブに囚われ、「場」に制約せられた価値基準を抽象的に絶対化してしまい、当初の状況が変化し、或はその基準の実践的前提が意味を失った後にも、是を金科玉条として墨守する。」(84) 
「この様に、固定的価値基準への依存が「惑溺」の深さに、之に対して、価値判断を不断に流動化する心構えが主体性の強さ(福沢はそれを「独立の気象)と呼んだ)に夫々比例するとしてもそうした人間精神の在り方は福沢において決して単に個人的な素質や、国民性の問題ではなくして、時代時代における社会的雰囲気(福沢の言葉でいえば「気風」)に帰せられるべき問題であった。換言すれば、固定した閉鎖的な社会関係に置かれた意識は自ら「惑溺」に陥り、動態的な、また解放的な社会関係にはぐくまれた精神は自ら捉われざる闊達さを帯びる。また逆に精神が社会的価値基準や自己のパースペクティブを相対化する余裕と能力を持てはつ程、社会関係はダイナミックになり、精神の惑溺の程度が甚だしい程、社会関係は停滞的となる。……福沢は単に価値判断の絶対かという問題にとどまらず凡そ一定の実践的目的に仕えるべき事物や制度が漸次伝統によって、本来の目的から離れて絶対化せられるところ、つまり手段の自己目的化傾向のうちに広く惑溺減少を見いだした。」(86) 
「『既に世界に生まれ出でたる上は、蛆虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。即ち其覚悟とは何ぞや。人生本来戯と知りながら、此一場の戯とせずして恰も真面目に勤め……るこそ蛆虫の本分なれ。否な蛆虫の事に非ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり』(福翁百話)。人間をを一方で蛆虫と見ながら他方で万物の霊として行動せよ――これは明白にパラドックスである。」(110)

 政治を語る上でよく使われる「悪さ加減」の選択。そして重要なのが「統治形態は広義の社会的条件と相関的であり、それを人為的に維持・変革・移植しうる程度には限界があるという」(133)こと。

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