2022/01/19

『虐げられた人びと』 ドストエフスキー/小笠原豊樹訳 新潮文庫

 この小説は、登場人物が比較的単純な構成になっている。その分、ドストエフスキーとしては読みやすい。

でも、おもしろいのは『カラマーゾフの兄弟』と同じように家族がテーマであることだ。『虐げられた人びと』なんか読んでも、ドストエフスキーって結構保守的な人物だったのかなーと思う。というか、そもそも家族とは何か、というテーマ自体が非常に古いものであって、それを真面目に論じるとやはり保守的に見えてしまうのかもしれない。
この小説では夢見がちな青年アリョーシャと、清廉潔白なナターシャとの恋愛が結婚へと成就できず、アリョーシャは他の女と結婚、しかも恋愛結婚というよりも父親の意向が強い。
家を棄ててアリョーシャをとったナターシャは、全てを懺悔して家に戻る。
小津安二郎の映画なんかもそうだが、結婚を感情的なものとしてよりも、もっと理性的というか、理知的で経験的なものとして捉えている。
娘、父の気持ち知らず、しかし父も娘の気持ち知らず、という感じ。

ワルコフスキーが、もっともドストエフスキー風の登場人物で、あとがきで小笠原先生がスヴィドリガイロフの先駆と言っているように、かなり強烈な個性をもった人物となっている。
ドストエフスキーは基本的には少女趣味的な、メルヘンチックなものにもかなり興味があったはずで、
「哀れな少女の可愛い姿は、まるで幻影か絵姿のように夢現の中に見え隠れするのだった。少女は私に飲みものをすすめたり、寝床を直してくれたり、あるいはおびえた悲しそうな顔つきで私の前にすわり、小さな指で私の髪を撫でてくれたりした。一度、私の顔にそっと接吻してくれのを覚えている。」(254)
かなり微笑ましい場面ではある。これなんか、現代の妹系アニメにも通じる。
ネリーの小説の中での役割としては、それほど大きなものではないが、やはり身寄りのない少女を預り、でも病気になって、しかもその子が父娘を和解させて、そして死んでいくというのは、まあなんというか狙いすぎな感じだが。
この小説の肝は、結局は結婚は破断になること、そして家族でシベリアへ移住せざるを得なくなること、ネルーが死なざるを得ないこと、主人公のワーニャとナターシャは結ばれないこと、あらゆることで運命は変えられない、でもその中で何か光を見出せるかもしれない、といった感じかな。
ネルーの最後に死の情景は、絵画的に終わる。多くの花に飾られるネリー。ネリーは母親との約束を守らずに公爵を訪ねなかった。

「ワーニャ」とナターシャは言った。「ワーニャ、夢だったのね!」「何が夢だったの」と私は訪ねた。「何もかもよ、何もかも」ナターシャは答えた。「この一年間のすべてのことよ。ワーニャ、なぜ私、あなたの仕合せをこわしたのかしら」ナターシャのまなざしは語っていた。『私たちが一緒になったら、永遠の仕合せが訪れるかもしれない!』
感動的なラストではありませんか!
しかし、どうも結局はワーニャとナターシャは一緒にはならなかったようで、冒頭のワーニャの語りか察するに、病気のため断念したのではないかと。

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