『兜率天の巡礼』
法学博士閼伽道竜は、昭和二十二年に公職追放にあう。妻の波那は病弱だった。道竜はいたって平凡で、特段の実績もなく、ただ研究室のなかで独身であったという理由で教授の娘波那と結婚をして、教授職を得る。そして順調に出世していった。
波那は慢性化した糖尿病が重体に陥り、意識を失ってしまう。道竜はそこにま妻ではなく毛物が横たわっていると思った。悪液が脳に達してしまった波那は、突然すっくと起き上がり、裂けるばかりの口をひらき、叫んでいた。声はでていなかった。さいごにひぃと笛のような音が喉から突き上げるようにでた。「怖いィ。お前の、お前の顔……。ああッ」と言って道竜の髪を引きむしってそのまま死んでいった。
妻の発狂で道竜は、波那の家系に原因を探っていく。だれか精神病者はいなかったかどうか、取り憑かれるように。それは理性を失った学問的情熱というべきものだった。
行き着いたのが、兵庫県赤穂郡比奈、大避神社だった。
道竜は宮司、波多春満に話を聞く。だれか精神病者はいない、しかし、それに似た者がいる、秦の始皇帝です、と。
曰く、秦の始皇帝の裔功満王の子弓月ノ君が、日本に上陸して井戸を掘った、それがここの井戸です、と。しかし、田村卓政やゴルドン女史は、別の説をたてた。それはユダヤ人だったと。
曰く、大和ノ国泊瀬川で洪水があった。赤い壺にのった童子が川上から流れてきた。童子は異相で、雅やかであること玉の如くだったといい、帝から秦性を賜る。そのご朝廷に仕えるが、配流となり、赦されてて大和に還ってきてから、土地の者が祠堂を立てる、それが大避神社だという。
祀っている神は、天照大神、春日大神で、三番目が大避大神だった。大闢、それはダビデの漢訳である。大避神社は延喜式以降は「避」を使っていたが、「大闢」とも書くという。
京都太秦にある大酒神社、そこにあるやすらい井戸、これはイスラエルと語呂が似ている、というよりも転訛したという。
景教、それはコンスタンティノープルの教父ネストリウスの派閥の教派で、異端視されて天山北路を越え、シナを越え、播州比奈の浦、山城太秦へとたどり着く。
閼伽道竜の意識は、五世紀の東ローマ帝国コンスタンティノープルへと至る。閼伽はネストリウスと化し、市民から石を投げられている。
ネストリウスは、マリアの神性を認めず、キリル僧正に異端とされた。
道竜は、若くして死んだ北畠顕家を偉大な哲学者の如くあつかう新説を、頼まれるごとに講演し、速記が出版された。それが原因で道竜は戦後に大学を追われることになった。
道竜は、ネストリウスと自分を重ね合わせた。
唐の時代、長安大秦寺、屋根に緑碧の瓦をふき白亜の塔を天に突き上げた異風の景教の寺があった。そこに胡女がひとりで住んでいた。知恵は浅く、従順であった。碧い目はふかぶかと澄んでいた。この女が武宗の後宮にあがったのが十七歳のとき、同族の者たちが小さな祝宴をひらく。少女をみた長老は、ネストリウスがマリアの神性を否定したのは間違いではないかと思うほど美しかった。
長老は少女の処女を、わが民族においていくように言う。同族から若者をひとり選び、室をともにさせた。
その後間もなく大秦寺へ、少女の屍が届く。そして、大秦寺は廃止されてしまう。
後年、石灰岩の碑が西安の農夫によって発見され、ヨーロッパに報告されるが、偽作と疑われる。日本の高楠順次郎氏が、真作であることを証明した。碑にはシリア文と漢文が刻まれていた。
その碑の近くに、一体の人骨が出土していた。道竜がこの胡女ではないか、考えてしまう。
そして道竜の意識は日本へともどり、弓月ノ君の末裔普洞王こそ、波那の遠祖であり、普洞王は一族を率いて赤穂比奈に上陸する。当時はまだ大和の勢力がそこまで広がっておらず、比奈ノ浦を都と定めた。そこはボスポラス海峡を忍ばせる瀬戸内の海が広がっている。
普洞王は旅に出、津のくに、河内のくにを経て、大和へでる。大地がむき出しになり岩と沙の故郷とは異なる、柔らかい風、光が肌にまつわる、天国のような安住の地を得る。それは彼らが自らの神を捨てた瞬間であった。
普洞王は、みすぼらしい小屋のような宮殿と変哲もない貧相な老人であるおおきみをみて、この国の文化の貧しさをおもって、親しみを覚える。普洞王はみずからをシナでローマを指す大秦をもちいて、ずっと西からきたことを伝える。そこから秦性を賜り、同時におおきみから媛をもらう。子をなし、さらにその子が子を生み、秦勝川が生まれる。秦一族は播磨をおさめたのち、秦一族の都を山城、太秦に定める。
勝川は厩戸ノ皇子に山城へ招待するが、皇子は行こうとしない、というのも秦の都に行けば、そこは異教の廟があり、仏教に帰依する皇子にとって外道の都だった。
皇子はそのころ蘇我氏との政争で政治資金を必要としてた。そこで秦氏の織物から得られる膨大な資金を得ることにする。ようやく皇子は太秦を訪れる。そこには大廈高楼が翠巒の中に丹青を誇る社があった。天御中主命を祀っていた、この神は延喜神名帳にものっていない、大酒神社にのみ伝わる神、それはエホバかダビデのことだったのか。そして勝川から皇子へ献上された太秦広隆寺には浄土思想をあらわす弥勒菩薩ががあった。
道竜は大酒神社に行き、そこで三本足の鳥居をみ、天辺は二等辺三角形をなしていた。そして終着地、嵯峨の上品蓮台院を訪れる。そこには兜率天曼荼羅の壁画があり、仏の顔は日本人とはことなる異相していて、そのなかに道竜は波那がいるのではないか考えた。
仔細に曼荼羅を見ていると、それはキリスト教の天国を描いているようで、そして景観はまるでコンスタンティノープルごとく、また長安のごとくにも見えた。道竜は曼荼羅に紫金摩尼をみつけ、それを背景に動く人をみつける。波那。ローソクが落ち、弥勒堂は焼け、閼伽道竜の焼死体がみつかる。
この小説、ちょっとした飛躍がある。波那の先祖はユダヤ人かもしれないというにもかかわらず、ネストリウス派の話になっている。ネストリウスやその派閥がユダヤ系だというわけではない。にもかかわらず、景教の話になって、その末裔が日本にやってきて、波那につながっているように書いている。日ユ同祖論については詳しく知らないので、このあたりの論理がわからないが、司馬さんは強引に閼伽道竜の情念のみで、つなげてしまっている。
なんとも壮大な話ではないですか。始皇帝からネストリウス、秦氏の歴史と全部つながっている。やはり陰謀論とかっておもしろい。
しかし司馬さんはその上を行き、最後の最後で、兜率天曼荼羅にこれまでの話が凝縮されていく。ここが司馬さんの力だろう。
活字なのに、目の前に曼荼羅があらわれ、仏どもが動いている。
法学博士閼伽道竜は、昭和二十二年に公職追放にあう。妻の波那は病弱だった。道竜はいたって平凡で、特段の実績もなく、ただ研究室のなかで独身であったという理由で教授の娘波那と結婚をして、教授職を得る。そして順調に出世していった。
波那は慢性化した糖尿病が重体に陥り、意識を失ってしまう。道竜はそこにま妻ではなく毛物が横たわっていると思った。悪液が脳に達してしまった波那は、突然すっくと起き上がり、裂けるばかりの口をひらき、叫んでいた。声はでていなかった。さいごにひぃと笛のような音が喉から突き上げるようにでた。「怖いィ。お前の、お前の顔……。ああッ」と言って道竜の髪を引きむしってそのまま死んでいった。
妻の発狂で道竜は、波那の家系に原因を探っていく。だれか精神病者はいなかったかどうか、取り憑かれるように。それは理性を失った学問的情熱というべきものだった。
行き着いたのが、兵庫県赤穂郡比奈、大避神社だった。
道竜は宮司、波多春満に話を聞く。だれか精神病者はいない、しかし、それに似た者がいる、秦の始皇帝です、と。
曰く、秦の始皇帝の裔功満王の子弓月ノ君が、日本に上陸して井戸を掘った、それがここの井戸です、と。しかし、田村卓政やゴルドン女史は、別の説をたてた。それはユダヤ人だったと。
曰く、大和ノ国泊瀬川で洪水があった。赤い壺にのった童子が川上から流れてきた。童子は異相で、雅やかであること玉の如くだったといい、帝から秦性を賜る。そのご朝廷に仕えるが、配流となり、赦されてて大和に還ってきてから、土地の者が祠堂を立てる、それが大避神社だという。
祀っている神は、天照大神、春日大神で、三番目が大避大神だった。大闢、それはダビデの漢訳である。大避神社は延喜式以降は「避」を使っていたが、「大闢」とも書くという。
京都太秦にある大酒神社、そこにあるやすらい井戸、これはイスラエルと語呂が似ている、というよりも転訛したという。
景教、それはコンスタンティノープルの教父ネストリウスの派閥の教派で、異端視されて天山北路を越え、シナを越え、播州比奈の浦、山城太秦へとたどり着く。
閼伽道竜の意識は、五世紀の東ローマ帝国コンスタンティノープルへと至る。閼伽はネストリウスと化し、市民から石を投げられている。
ネストリウスは、マリアの神性を認めず、キリル僧正に異端とされた。
道竜は、若くして死んだ北畠顕家を偉大な哲学者の如くあつかう新説を、頼まれるごとに講演し、速記が出版された。それが原因で道竜は戦後に大学を追われることになった。
道竜は、ネストリウスと自分を重ね合わせた。
唐の時代、長安大秦寺、屋根に緑碧の瓦をふき白亜の塔を天に突き上げた異風の景教の寺があった。そこに胡女がひとりで住んでいた。知恵は浅く、従順であった。碧い目はふかぶかと澄んでいた。この女が武宗の後宮にあがったのが十七歳のとき、同族の者たちが小さな祝宴をひらく。少女をみた長老は、ネストリウスがマリアの神性を否定したのは間違いではないかと思うほど美しかった。
長老は少女の処女を、わが民族においていくように言う。同族から若者をひとり選び、室をともにさせた。
その後間もなく大秦寺へ、少女の屍が届く。そして、大秦寺は廃止されてしまう。
後年、石灰岩の碑が西安の農夫によって発見され、ヨーロッパに報告されるが、偽作と疑われる。日本の高楠順次郎氏が、真作であることを証明した。碑にはシリア文と漢文が刻まれていた。
その碑の近くに、一体の人骨が出土していた。道竜がこの胡女ではないか、考えてしまう。
そして道竜の意識は日本へともどり、弓月ノ君の末裔普洞王こそ、波那の遠祖であり、普洞王は一族を率いて赤穂比奈に上陸する。当時はまだ大和の勢力がそこまで広がっておらず、比奈ノ浦を都と定めた。そこはボスポラス海峡を忍ばせる瀬戸内の海が広がっている。
普洞王は旅に出、津のくに、河内のくにを経て、大和へでる。大地がむき出しになり岩と沙の故郷とは異なる、柔らかい風、光が肌にまつわる、天国のような安住の地を得る。それは彼らが自らの神を捨てた瞬間であった。
普洞王は、みすぼらしい小屋のような宮殿と変哲もない貧相な老人であるおおきみをみて、この国の文化の貧しさをおもって、親しみを覚える。普洞王はみずからをシナでローマを指す大秦をもちいて、ずっと西からきたことを伝える。そこから秦性を賜り、同時におおきみから媛をもらう。子をなし、さらにその子が子を生み、秦勝川が生まれる。秦一族は播磨をおさめたのち、秦一族の都を山城、太秦に定める。
勝川は厩戸ノ皇子に山城へ招待するが、皇子は行こうとしない、というのも秦の都に行けば、そこは異教の廟があり、仏教に帰依する皇子にとって外道の都だった。
皇子はそのころ蘇我氏との政争で政治資金を必要としてた。そこで秦氏の織物から得られる膨大な資金を得ることにする。ようやく皇子は太秦を訪れる。そこには大廈高楼が翠巒の中に丹青を誇る社があった。天御中主命を祀っていた、この神は延喜神名帳にものっていない、大酒神社にのみ伝わる神、それはエホバかダビデのことだったのか。そして勝川から皇子へ献上された太秦広隆寺には浄土思想をあらわす弥勒菩薩ががあった。
道竜は大酒神社に行き、そこで三本足の鳥居をみ、天辺は二等辺三角形をなしていた。そして終着地、嵯峨の上品蓮台院を訪れる。そこには兜率天曼荼羅の壁画があり、仏の顔は日本人とはことなる異相していて、そのなかに道竜は波那がいるのではないか考えた。
仔細に曼荼羅を見ていると、それはキリスト教の天国を描いているようで、そして景観はまるでコンスタンティノープルごとく、また長安のごとくにも見えた。道竜は曼荼羅に紫金摩尼をみつけ、それを背景に動く人をみつける。波那。ローソクが落ち、弥勒堂は焼け、閼伽道竜の焼死体がみつかる。
この小説、ちょっとした飛躍がある。波那の先祖はユダヤ人かもしれないというにもかかわらず、ネストリウス派の話になっている。ネストリウスやその派閥がユダヤ系だというわけではない。にもかかわらず、景教の話になって、その末裔が日本にやってきて、波那につながっているように書いている。日ユ同祖論については詳しく知らないので、このあたりの論理がわからないが、司馬さんは強引に閼伽道竜の情念のみで、つなげてしまっている。
なんとも壮大な話ではないですか。始皇帝からネストリウス、秦氏の歴史と全部つながっている。やはり陰謀論とかっておもしろい。
しかし司馬さんはその上を行き、最後の最後で、兜率天曼荼羅にこれまでの話が凝縮されていく。ここが司馬さんの力だろう。
活字なのに、目の前に曼荼羅があらわれ、仏どもが動いている。
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