2019/07/03

思索の源泉としての音楽  森有正



思索の源泉としての音楽
森有正(話・パイプオルガン)
PHILPS, PH-8519

たまたまレコード店で見つける。こんなものが発売されていたとは。森有正の肉声が録音されていて、バッハについて、思索について語っている。
音楽は社会的なものだ、と森さんは言う。個人的にやることでは意味がないとまでいう。それは文章を書くことでも一緒で、それは社会性を帯び、だから書いたりしたら世に出さなければならないし、楽器を練習したらコンクールや人前で演奏もしなければならない、という。
人間の経験が、音符一音一音に反映せれていて、バッハの音楽にはその一音一音からバッハの人生、経験、思索が見えてくるという。
ちょっと感傷的すぎるところもあるが、音楽が社会性を常に帯びているのは確かだろう。バッハは常にルター派のための音楽を書いてきたし、そしてそれはドイツ語の歌詞で歌われるために音楽が書かれていた。
バッハにとっても音楽は社会性を帯びていて、それは世界と人類とか大きい枠組みではなくて、街単位での小さな社会、共同体を意味している。

収録曲は、
「人よ、汝の大いなる罪を嘆け」
「天にましますわれらの父よ」
「われらみな唯一の神を信ず」
「来たれ、異教徒の救い主よ」
「キリストは死の縄目につながれたり」
「主イエス・キリストよ、われらをかえりみたまえ」
「われ汝らに別れを告げん、汝悪しき偽りの世よ」
「汚れなき神の小羊よ」

森有正が書く文章は、正直すぎで、それは告白というか告解のようなもので、読む者を慰めてくれる。人間の弱さや醜さを見つめたもので、彼がよくいう「経験」が、後悔というか懺悔のように文章にあらわれている。
レコードには『遙かなるノートル・ダム」からの抜粋が掲載されている。久しぶりに読んでみると名文だこと。
森さん、震災前、角筈に住んでいたことが書かれていて、角筈といえば今の歌舞伎町あたりで、なんと野鳥が飛んでいて、森閑としていたという。いまと比較して恐ろしい変わりようだこと。
森さんの音楽の本質とは「人間感情についての伝統的な言葉を、すなわち、歓喜、悲哀、恐怖、憤怒、その他の言葉を、集団あるいは個人において究極的に定義するものでありそれはまさに、かくの如きものとして在るものであり、それがおのずから伝統的なものを定義していることが意識されるのであって、それはもう説明されることのできないもの」だという。
そしてそれは、書くことを生業にする作家や詩人がたどり着きたくてもたどり着けない経験の純化がなされているという。
「音楽は人間経験の最尖端、あるいは深奥部に位いするものである。……本当にミュージカルなものは、詩によって、造型によって、さらには形而上学的思索によってさえも表現されうる、またされなければならない深い生命の自己規律である。」
んーこの感覚、この文章、かつての思想家、批評家、作家たちの言葉への深い信頼が伺える。いまでは森さんのような文章はほとんど目にしなくなっている。(最近では歴史仮名遣いを使い、小林秀雄に影響された、気高くて何言っているか不明な下手くそな文章はたまにみかけるが。)
不思議と森有正さんが、こういう文章を書いても全然嫌味ではなく、引き込まれていき、知らない間に僕ら自身も後悔や懺悔をしたりするのだ。

彼の演奏は、実直なものだが、とくに言及するほどでもないとは思う。とても上手だし。でも、それだけかな。
ただし、森さんがレコードでも言っているように、音楽は発表されるべきものであり、それが音楽なんだ。森さんは、それを堂々と行う。レコードまでだしてしまう。自分の腕前がどうであろうと。
この自らをさらけ出すことは、彼の書く文章と同じだ。さらけ出して、そして批評される。無視されるかもしれない。しかし社会で生きていくとはそういうことなんだと、森さんは言っているのだろう。それが社会で生きていく人間の姿である、と。

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