おっもしろーい。下記、かなり大雑把なまとめ。古代ギリシアの文献を読む際に前提知識を教えてくれる。
哲学者とソフィストの区別
プラトンによって、哲学者とソフィストが明確に区別されていたという。ソクラテスの弟子たちは、自らをソフィストであることを自認していたものもいたし、批判的な態度を示しているわけでもないという。「ソフィスト」問いう言葉自体、紀元前4世紀頃では、まだ否定的なニュアンスが含まれていなかった。
『ソクラテスの弁明』を初めて読んだとき、なんじゃこりゃ、ただの言い訳の本じゃないか、と思ったが、ある意味これは正しくて、ソフィストは詭弁を弄する人をいい、哲学者は真理の探究者となる。僕が「弁明」を読んだ際の感想はあながち間違っておらず、ソクラテスが詭弁をつかっていたのは、裁判という場やソフィストを念頭において、裁判という形式そのものを劇場化してのことだったのだ。
ソフィストの著作は、ほとんど現代まで残っていない。その理由として、ソフィスト、たとえばプロタゴラスなどは物理的な迫害などにあっていた可能性もあるという。まあソクラテス自体が、死刑になっちゃうぐらいだから、多くのソフィストも危険分子とみられてもおかしくはない。
ただし、それだけではなく、ソフィストにとって書くことは二次的なもので、語ることが、弁ずることを売り物に商売していた人たちだからでもある。書くこと、それ自体が微妙な行為だった。それはやはりソクラテスも書物を著さなかったことからみてもそうだろう。
ソクラテスはプラトンによって哲学者として扱われるようになったが、当時、一般的にはソクラテスはソフィストと見られていた。だからこそソクラテスは裁判にかけられた。
ソフィストは「弱論強弁」の能力を誇っていた。
プラトンは『ソフィスト』で哲学者とソフィストの分類が行われる。哲学者はポリスに忠誠を誓い、徳の教育可能性を問う、そして不知を自覚し、絶対的な真理を探求する。
ソフィストは、諸国を歴遊し、金銭をとって教育をする。徳の教育を標榜し、懐疑主義や相対主義の立場をとる。ソフィストは、授業料をとっていた。若者はソフィストに知的刺激などをうけて、政治家へと出世していく。それに従ってソフィストの地位も上がっていく。
プラトンはソフィストと哲学者を区別しようとするが、周りから見れば、同じ種類に考えられていた。ソフィストとが誰か。
「シュコファンテス」という人たちがいて、彼らは告訴常習者でアテナイのみ酒的裁判制度を悪用して、人々から嫌悪されていたという。そして、お互いがお互いを「シュコファンテス」として批判しあっていた。この言葉はレッテルとして機能したところがあって、特定の集団や活動をさして述べているわけではない。同様に「ソフィスト」も同じでレッテルとして機能している場合もあれば、たんに「思想家」一般を意味することにもなる。
プロタゴラスは、自らを「ソフィスト」と自称することはせず、他のソフィストを一線を画している自負があったと考えられる。
そして彼らは特定の教義を持っていなかった。ソフィストは相対主義の立場をとっていたわけではない。プロタゴラスはたしかに相対主義を標榜していたが。
ソフィストは誰かという問いは、かなり難しいよう。ゴルギアスは自らを弁論家と名乗っていて、法廷弁論を大きなテーマにしていた。ただしそれはプロタゴラスらのソフィストたちも同様だった。
『ヘレネ頌』
この本の素晴らしいところは、前半部もさることながら、後半部のゴルギアスとアルキダマスのテキストの詳細な読解だ。
ゴルギアスが弁論の演示として提示した『ヘレネ頌』について
悪女と言われていたヘレネをロゴスでもって弁護していく。まさに弱論強弁というやつだ。逆説的な言論を行うことで、罵られていた神話上の女性を擁護することは、ある種聞くも者に愉楽を与える。これは面白いところ。ロゴスで説得されることに人は快感を覚える。
ヘレネが行為の「ありそうな」原因をあげる。「神の必然、暴力、言論による説得、愛」。これらの原因によればヘレナに責任はないと主張する。これらありそうな原因には、一定の説得力がある。しかしそれは真理でもなんでもない。あくまでもヘレネを弁護するための手段となっている。ゴルギアスは、偽りで魂を説得し、「ありそうな」議論で、読者を幻惑する。彼の「整いし様」というのは、たんなる見せかけの装飾なのだが、じつはそれこそが真理なのだと開き直っている。偽りが真理となる。これはゴルギアスの弁論が時間の制限がある法廷を想定していることにもわけがあり、短時間で絶対的な真理なんて答えがでるわけではないし、正しいのか正しくないのかの答えだってあやしい。そんななかで「ありそうな」議論のすることが重要となる。しかしゴルギアスにとって、その「ありそうな」議論で世界がなりたっているのだから、たしかに「真理」に違いない。
『ヘレネ頌』を読んで、心底説得されることはない。というのも大前提としてヘレネが悪をなしたということを、読者は知っているからだ。そして論理の進め方に違和感を覚える。
『パルメニデス』
『パルメニデスの弁明』、これは『ヘレネ頌』とは異なり、無実のパルメニデスの法廷での自らの無実を弁明する内容となっている。そしてこれがおもしろいのが、読者はパルメニデスが無実であることを知っているが、弁明を読むといかがわしを感じてしまうところだ。それは徹頭徹尾、論理で論証しており、そこに僕らは何かしらの信じられなさというか、憎しみに近いものも生まれる。
ゴルギアスの「重層論法」と「枚挙論法」
重層論法とは、一つの議論を退けた後に、そのいったん否定された可能性を仮に認めた上で、さらにそこからの帰結を検討し退けていく論法。
つまりは、仮に、仮にこういうことが可能で、これらのことをなしたと仮定したとして、それは最終的には不可能であることがわかる、といったところ。
枚挙論法とは、一つの命題を否定するために、その命題を含意する複数の可能性を選択肢として枚挙し、それらを一つずつ退けて、最終的に当の命題を退ける論法。ただし、ゴルギアスの場合は、それらの選択肢はそれぞれ独立しているのではなく、少しづつ重なっていて、論が進んでいくにしたがって、その不可能生を強化していくやり方。
ゴルギアス『ないについて、あるいは、自然について』
「まず一つ、最初に、何もない、ということ、第二に、もしあるとしても、人間には把握できない、ということ、第三に、もし把握できたとしても、隣の人に語ることができず伝えられない、ということである。」
ここでも重層論法が使われている。『ないについては』は哲学的な論考で、そこでこのいったん退けたものを、再度仮定でおいて論ずるというは、哲学がもとめる真理とは異なるやり方となる。ゴルギアスは、このような重層論法を用いることで、哲学的な議論も法廷での弁論も同等のものにすぎないと考えている。つまり、哲学が解明しようとする真理自体、なんだかわからない状況で、そんな哲学への懐疑となっているかのかもしれない。
そもそも「何もない」というのは何なのか。「ない」について何かを語り、思考することは自己矛盾に陥っているとも言える。そして把握不可能なものを把握できるのか、それはメタレベルでの話としてしているわけではない。ある、ないについて私たちは何も考えていないのかもしれない。にもかかわらず、ロゴスによってゴルギアスは把握不可能なことを伝えようとしてる。
さらに枚挙論法が使われているが、ここでは論理の穴が散見される。「生成」か「永遠」か、それとも両方か。といった議論で、これらをすべて否定しても、生成したあとは永遠というのもありうる。しかしこれは、ゴルギアスは意識的に論理の穴を作り上げていると考えることができる。
パルメニデスなどのエレア派はあるは、ある、ないは、ない、という絶対的真理から不変で一なる「ある」の存在論を説く。ゴルギアスは、これに反論するかたちとなっていて、「ある」の主語がなんであっても成立するのかどうか、成立しないなら、「何もない」となる。
哲学のパロディ
『ないについて』は哲学のパロディとなっている。エレア派の議論を念頭において、哲学を揶揄している。ゼノンの多があるなら一もある、という議論に対しては一がないなら多もないといったように、全否定へと向かう。そしてエレア派の欠陥をあえて使い、暗にエレアの論を退けていく。
エレア派はゼノンの逆説のように常識を破壊し、「ある」の真理を真面目に積極的に哲学している。しかしゴルギアスはそれらをいかがわしいものとして批判する。『ないものについて』の議論は、ナンセンスで、把握できないものを把握できるように読者に伝えてくいくという自己矛盾を含む。
ゴルギアスはパロディを使い、哲学を笑う。笑いは弁論において、敵対する人の真面目さを笑い、言論の魅力と力を見せつける。そして、哲学が真面目であればあるほど、真理を説く哲学者は不誠実なる。思い込み(ドクサ)に陥り、言説をひねりだす。やっていることとは法廷弁論と同じことに過ぎない。
アルキダマス『ソフィストについて』
紀元前五世紀、小アジアのエライアに埋めれたアルキダマスは、現代では忘れらたソフィストだが、当時は最も著名なソフィストだったという。彼はゴルギアスの即興演説を受け継ぎ、語り言葉を重視していた。語ることと書くことは能力が異なり、書くことは精確さを求めて推敲に推敲を重ねるが、語ることは即興を真髄とする。書くことに卓越した者はソフィストではなく作家とよばれるべきだという。
書くことは、瞬時のアドリブがきかないため、時期を逸してしまうことになる。即興を重んじる人は、その場の雰囲気を直接感じ、その場にふさわしい論をたてていく。
そして書くことはゆっくりした知的作業で、語ることに対して遅れをとり、行き詰まってします。さらに書くことは、忘却をともなう。即興的な語りは「アイデア」を重視している。
プラトンは『パイドロス』で、このアルキダマスを念頭において、プラトンも語りの優位を説いている。しかしプラトンの場合、何も残さなかったソクラテスに語らせて、対話篇を書いたが、それは繰り返し読むという作業が、その時その時の即興とは異なり、物事を距離をもって理解していくのに必要だったと考えたからかもしれない。
当時、古代ギリシャでは語りの優位が語られることがよくあったようだが、アテナイなどでは、医学や天文学などの著作が巷で売られ読まれていた。そういったなかで民主制を敷いていたという点で、語りに優位があると考えられていた。
ちょっとした感想
納富さんはソフィストと現代の共通点をあげる。人それぞれといった相対主義、富や権力への信奉などなど。でも、それはおそらくどの時代においても通じることだと思われる。
自由主義社会である現代日本だけで、相対主義が蔓延するわけではない。どの時代でも、人はそれほど傲慢ではないからだ。相対主義はたしかに哲学的にはよろしくないかもしれないが、現実社会では一定の役割りがあって、それはある種の他者への配慮をともなっている。ただし、相対主義が常にいいというわけでもない。
かなりおもしろい内容だった。もっと早くに読んだほうがよかった。プラトンを読む上での前提知識を仕入れることができるし、プラトンの立ち位置がよくわかる。
哲学者とソフィストの区別
プラトンによって、哲学者とソフィストが明確に区別されていたという。ソクラテスの弟子たちは、自らをソフィストであることを自認していたものもいたし、批判的な態度を示しているわけでもないという。「ソフィスト」問いう言葉自体、紀元前4世紀頃では、まだ否定的なニュアンスが含まれていなかった。
『ソクラテスの弁明』を初めて読んだとき、なんじゃこりゃ、ただの言い訳の本じゃないか、と思ったが、ある意味これは正しくて、ソフィストは詭弁を弄する人をいい、哲学者は真理の探究者となる。僕が「弁明」を読んだ際の感想はあながち間違っておらず、ソクラテスが詭弁をつかっていたのは、裁判という場やソフィストを念頭において、裁判という形式そのものを劇場化してのことだったのだ。
ソフィストの著作は、ほとんど現代まで残っていない。その理由として、ソフィスト、たとえばプロタゴラスなどは物理的な迫害などにあっていた可能性もあるという。まあソクラテス自体が、死刑になっちゃうぐらいだから、多くのソフィストも危険分子とみられてもおかしくはない。
ただし、それだけではなく、ソフィストにとって書くことは二次的なもので、語ることが、弁ずることを売り物に商売していた人たちだからでもある。書くこと、それ自体が微妙な行為だった。それはやはりソクラテスも書物を著さなかったことからみてもそうだろう。
ソクラテスはプラトンによって哲学者として扱われるようになったが、当時、一般的にはソクラテスはソフィストと見られていた。だからこそソクラテスは裁判にかけられた。
ソフィストは「弱論強弁」の能力を誇っていた。
プラトンは『ソフィスト』で哲学者とソフィストの分類が行われる。哲学者はポリスに忠誠を誓い、徳の教育可能性を問う、そして不知を自覚し、絶対的な真理を探求する。
ソフィストは、諸国を歴遊し、金銭をとって教育をする。徳の教育を標榜し、懐疑主義や相対主義の立場をとる。ソフィストは、授業料をとっていた。若者はソフィストに知的刺激などをうけて、政治家へと出世していく。それに従ってソフィストの地位も上がっていく。
プラトンはソフィストと哲学者を区別しようとするが、周りから見れば、同じ種類に考えられていた。ソフィストとが誰か。
「シュコファンテス」という人たちがいて、彼らは告訴常習者でアテナイのみ酒的裁判制度を悪用して、人々から嫌悪されていたという。そして、お互いがお互いを「シュコファンテス」として批判しあっていた。この言葉はレッテルとして機能したところがあって、特定の集団や活動をさして述べているわけではない。同様に「ソフィスト」も同じでレッテルとして機能している場合もあれば、たんに「思想家」一般を意味することにもなる。
プロタゴラスは、自らを「ソフィスト」と自称することはせず、他のソフィストを一線を画している自負があったと考えられる。
そして彼らは特定の教義を持っていなかった。ソフィストは相対主義の立場をとっていたわけではない。プロタゴラスはたしかに相対主義を標榜していたが。
ソフィストは誰かという問いは、かなり難しいよう。ゴルギアスは自らを弁論家と名乗っていて、法廷弁論を大きなテーマにしていた。ただしそれはプロタゴラスらのソフィストたちも同様だった。
『ヘレネ頌』
この本の素晴らしいところは、前半部もさることながら、後半部のゴルギアスとアルキダマスのテキストの詳細な読解だ。
ゴルギアスが弁論の演示として提示した『ヘレネ頌』について
悪女と言われていたヘレネをロゴスでもって弁護していく。まさに弱論強弁というやつだ。逆説的な言論を行うことで、罵られていた神話上の女性を擁護することは、ある種聞くも者に愉楽を与える。これは面白いところ。ロゴスで説得されることに人は快感を覚える。
ヘレネが行為の「ありそうな」原因をあげる。「神の必然、暴力、言論による説得、愛」。これらの原因によればヘレナに責任はないと主張する。これらありそうな原因には、一定の説得力がある。しかしそれは真理でもなんでもない。あくまでもヘレネを弁護するための手段となっている。ゴルギアスは、偽りで魂を説得し、「ありそうな」議論で、読者を幻惑する。彼の「整いし様」というのは、たんなる見せかけの装飾なのだが、じつはそれこそが真理なのだと開き直っている。偽りが真理となる。これはゴルギアスの弁論が時間の制限がある法廷を想定していることにもわけがあり、短時間で絶対的な真理なんて答えがでるわけではないし、正しいのか正しくないのかの答えだってあやしい。そんななかで「ありそうな」議論のすることが重要となる。しかしゴルギアスにとって、その「ありそうな」議論で世界がなりたっているのだから、たしかに「真理」に違いない。
『ヘレネ頌』を読んで、心底説得されることはない。というのも大前提としてヘレネが悪をなしたということを、読者は知っているからだ。そして論理の進め方に違和感を覚える。
『パルメニデス』
『パルメニデスの弁明』、これは『ヘレネ頌』とは異なり、無実のパルメニデスの法廷での自らの無実を弁明する内容となっている。そしてこれがおもしろいのが、読者はパルメニデスが無実であることを知っているが、弁明を読むといかがわしを感じてしまうところだ。それは徹頭徹尾、論理で論証しており、そこに僕らは何かしらの信じられなさというか、憎しみに近いものも生まれる。
ゴルギアスの「重層論法」と「枚挙論法」
重層論法とは、一つの議論を退けた後に、そのいったん否定された可能性を仮に認めた上で、さらにそこからの帰結を検討し退けていく論法。
つまりは、仮に、仮にこういうことが可能で、これらのことをなしたと仮定したとして、それは最終的には不可能であることがわかる、といったところ。
枚挙論法とは、一つの命題を否定するために、その命題を含意する複数の可能性を選択肢として枚挙し、それらを一つずつ退けて、最終的に当の命題を退ける論法。ただし、ゴルギアスの場合は、それらの選択肢はそれぞれ独立しているのではなく、少しづつ重なっていて、論が進んでいくにしたがって、その不可能生を強化していくやり方。
ゴルギアス『ないについて、あるいは、自然について』
「まず一つ、最初に、何もない、ということ、第二に、もしあるとしても、人間には把握できない、ということ、第三に、もし把握できたとしても、隣の人に語ることができず伝えられない、ということである。」
ここでも重層論法が使われている。『ないについては』は哲学的な論考で、そこでこのいったん退けたものを、再度仮定でおいて論ずるというは、哲学がもとめる真理とは異なるやり方となる。ゴルギアスは、このような重層論法を用いることで、哲学的な議論も法廷での弁論も同等のものにすぎないと考えている。つまり、哲学が解明しようとする真理自体、なんだかわからない状況で、そんな哲学への懐疑となっているかのかもしれない。
そもそも「何もない」というのは何なのか。「ない」について何かを語り、思考することは自己矛盾に陥っているとも言える。そして把握不可能なものを把握できるのか、それはメタレベルでの話としてしているわけではない。ある、ないについて私たちは何も考えていないのかもしれない。にもかかわらず、ロゴスによってゴルギアスは把握不可能なことを伝えようとしてる。
さらに枚挙論法が使われているが、ここでは論理の穴が散見される。「生成」か「永遠」か、それとも両方か。といった議論で、これらをすべて否定しても、生成したあとは永遠というのもありうる。しかしこれは、ゴルギアスは意識的に論理の穴を作り上げていると考えることができる。
パルメニデスなどのエレア派はあるは、ある、ないは、ない、という絶対的真理から不変で一なる「ある」の存在論を説く。ゴルギアスは、これに反論するかたちとなっていて、「ある」の主語がなんであっても成立するのかどうか、成立しないなら、「何もない」となる。
哲学のパロディ
『ないについて』は哲学のパロディとなっている。エレア派の議論を念頭において、哲学を揶揄している。ゼノンの多があるなら一もある、という議論に対しては一がないなら多もないといったように、全否定へと向かう。そしてエレア派の欠陥をあえて使い、暗にエレアの論を退けていく。
エレア派はゼノンの逆説のように常識を破壊し、「ある」の真理を真面目に積極的に哲学している。しかしゴルギアスはそれらをいかがわしいものとして批判する。『ないものについて』の議論は、ナンセンスで、把握できないものを把握できるように読者に伝えてくいくという自己矛盾を含む。
ゴルギアスはパロディを使い、哲学を笑う。笑いは弁論において、敵対する人の真面目さを笑い、言論の魅力と力を見せつける。そして、哲学が真面目であればあるほど、真理を説く哲学者は不誠実なる。思い込み(ドクサ)に陥り、言説をひねりだす。やっていることとは法廷弁論と同じことに過ぎない。
アルキダマス『ソフィストについて』
紀元前五世紀、小アジアのエライアに埋めれたアルキダマスは、現代では忘れらたソフィストだが、当時は最も著名なソフィストだったという。彼はゴルギアスの即興演説を受け継ぎ、語り言葉を重視していた。語ることと書くことは能力が異なり、書くことは精確さを求めて推敲に推敲を重ねるが、語ることは即興を真髄とする。書くことに卓越した者はソフィストではなく作家とよばれるべきだという。
書くことは、瞬時のアドリブがきかないため、時期を逸してしまうことになる。即興を重んじる人は、その場の雰囲気を直接感じ、その場にふさわしい論をたてていく。
そして書くことはゆっくりした知的作業で、語ることに対して遅れをとり、行き詰まってします。さらに書くことは、忘却をともなう。即興的な語りは「アイデア」を重視している。
プラトンは『パイドロス』で、このアルキダマスを念頭において、プラトンも語りの優位を説いている。しかしプラトンの場合、何も残さなかったソクラテスに語らせて、対話篇を書いたが、それは繰り返し読むという作業が、その時その時の即興とは異なり、物事を距離をもって理解していくのに必要だったと考えたからかもしれない。
当時、古代ギリシャでは語りの優位が語られることがよくあったようだが、アテナイなどでは、医学や天文学などの著作が巷で売られ読まれていた。そういったなかで民主制を敷いていたという点で、語りに優位があると考えられていた。
ちょっとした感想
納富さんはソフィストと現代の共通点をあげる。人それぞれといった相対主義、富や権力への信奉などなど。でも、それはおそらくどの時代においても通じることだと思われる。
自由主義社会である現代日本だけで、相対主義が蔓延するわけではない。どの時代でも、人はそれほど傲慢ではないからだ。相対主義はたしかに哲学的にはよろしくないかもしれないが、現実社会では一定の役割りがあって、それはある種の他者への配慮をともなっている。ただし、相対主義が常にいいというわけでもない。
かなりおもしろい内容だった。もっと早くに読んだほうがよかった。プラトンを読む上での前提知識を仕入れることができるし、プラトンの立ち位置がよくわかる。
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