2019/06/15

『ソクラテスの弁明』 プラトン 納富信留訳 光文社古典文庫



いまさらながら、古典というのはいいもんで、いろいろと読み方ができて、だからこそ2500年も受け継がれてきたのだと、しみじみ思う。

不知と無知について

「知らない」ことを「知っている」というのではなくて、「知らない」ことをそのとおり「知らない」と「思っている」。
「不知」というのは、真善美のような「知恵」を「知らない」ということで、この神々にしかわかないようなことを「知らない」ことを「不知」といい、この「不知」を自覚することが「人間的な知恵」と呼ばれる。
まず「知る」というのは数学の根拠のように明確な根拠もって知っている際に使われ、「思う」は答えがあっていても、知っていても、根拠を明示できなかれば、それは「知っている」というのではなくて「思っている」となる。
つまりはこの「不知」を自覚すること、それが哲学の探求であり、ソクラテスはまさに知者としては不完全であると「思ってる」から、「人間的な知恵」を「知る」ために、哲学をしている。
自分の寄って立つドクサ(思い込み)を突破するのは、「不知」を「自覚」すること。そして「不知」なのにもかかわらず、「知っている」と考えていることが、「無知」の状態となる。
プラトンの対話篇は、すべてこの「無知」を暴きだすことに力が注がれている。ソクラテスが、一般で述べられる「無知の知」を説いているのではない。
「知らないことを知っている」というのでは、そこから哲学ははじまらない。というのも、その状態は、知を愛し、知を探求する姿勢ではないからで、「不知の自覚」を得る過程こそが哲学となる。
知ることができない事柄があり、その「知らないことを知らない」、これを「知ろ」うとすることが、自己吟味となる。
「無知の知」とこそ「無知」そのものであり、欺瞞でしかない。「知らない」ことを「知らない」とそのとおり思う、それは「知らない」ことを「知っている」ではない。「無知」自体がなんなのかの吟味もしなければならないし、「無知」とは何かを「知らない」のだから、それを「知っている」と言ってしまえば、傲慢でしかない。

詭弁と現実世界

ソクラテスの論駁は詭弁でしかないが、その詭弁こそがこのソクラテス裁判の根本的な批判となっている。
詭弁によってソクラテスの理屈は通るが、それによってアテネの市民が腑に落ちず、憎しみを抱く。
これは世界を表しているとも言える。人間の現実世界はソクラテス裁判のように詭弁によって出来上がっている。ソクラテスは自らの身でもって、そんな人間や人間社会を批判している。
ソクラテスは、自己への配慮をもって、本当に大切なことに配慮、「魂を最善にするように配慮する」ことを説く。身体や物への執着ではなくて、「より善く」生きること、それが「徳(アレテー)」となる。

人間とポリス

まず、自己吟味をすることを説く。
「本当に正義のために闘う人は、もし短時間でも生き残りたければ、公人としてではなく私人として活動する必要があるのです。」
「自分自身ができるだけ善く、思慮あるものになるようにと配慮する前に、自分自身に関わるさまざまな事柄に配慮することがないように。また、ポリス自体を配慮する前に、ポリスに関わるさまざまな事柄に配慮することがないように。そして、他のものについても同様に、そのような配慮するように」
そこから浮かび上がってくる、「人間」によって営まれる共同体こそが、「ポリス」にほかならない。「善き生」を生きる者が、「人間」なのであり、そうでないならば「動物」となる。

かなり真面目に「弁明」を読んだ。解説もかなり充実していて勉強になった。
この「ソクラテスの弁明」は、一歩間違えるとたんなる自己啓発本のような類に堕してしまうが、プラトンがこの裁判を描くことで何を投影していたのかが、よくわかる。
世界は詭弁に満ちている。だから、日々精進しなさい。
ああ、そういえばブッダも同じようなことをいっていたな。「ブッダの最後の旅」で、臨終の間際に、世の中は無情だから日々修行を怠らないように、と。

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