2019/06/13

『女の平和(リューシストラテー)』 アリストパネース 高津春繁訳 岩波文庫

ヤりたくて戦争を終わらせる喜劇。
やはり喜劇というのは、その時代の、その土地の文化的背景だとかがわからないとおもしろいとはなかなか思えないものだと再認識できる。注釈はついているけど、ピンとこない。
しかし訳がなんというか、思いきった訳をしているのはいいが、「南無三、八幡大菩薩」だとか「おいどん」だとか、ちょっとやりすぎ。
にもかかわらず、下ネタは大胆な訳にならず、岩波文庫だからか、かなりお硬い訳になっている。オリジナルが読めないからニュアンスがわからないけども。僕が勝手に想像するに、訳よりももっと直接的な表現で、下世話感たっぷりだったんじゃないかと思う。
昔からみんな下ネタが好きだったんだと感慨深いものがある。なぜ下ネタで人は笑うのだろう。しかもその比喩が現代でも同じような表現で使われている。人物評で「大物」だといって「大きい」し「ぶっとい」と飲み屋の会話だ。
男と女の関係というのは、2500年前からほとんど変わっていないことがわかる。男はどこか女に頭が上がらないというやつ。そして女がどこか男を見下しているあたりも、現代の感覚でも理解できるものだ。喜劇でもあるから、かなりデフォルメされているだろうし、ちょっと穿った味方をしているに違いないが、それは現代でも一緒で、映画や小説、漫画などの創作物が現実の世界を、ある一面をフォーカスしているから、描かれていることが世間一般を表しているわけではない。それでも、当時から今と変わらない男女観をもっていたのがわかる。
女は女で、性欲が抑えられずセックスボイコットをやめようとしたり、みんなヤりたくてしようがない感じになっている。
そして最後は、男が我慢できず和平を結んで戦争を終わらせるという、なんともばかばかしいお話。訳者の解説では、アリストファネスの平和主義者としての願いが込められているみたいなことを述べているが、僕はちょっとそれはナイーブすぎかなと思う。
もうちょっと皮肉がきいている内容だと考える。セックスで戦争が終結してしまうという、大真面目で戦争をやっている政治家たちや男どもを揶揄している。しょせん政治家や男どもはヤることしか頭にないんだ、みたいに。
わたしゃ、自由な市民だと述べられるが、女こそが自由な市民で、男は最後の最後で折れちゃう、しかもセックスしたいがために折れちゃう、性の奴隷だと言わんばかり。

ちょっと言い過ぎたかもしれない。

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