2019/06/01

『やわらかに遺伝子』マット・リドレー 中村桂子、斉藤隆央訳 早川書房

原書が2004年に出版されているので、現在のこの分野がどうなっているかはさておき、内容は「生まれ」か「育ち」かではどっちも重要ですよといういたって頷ける内容。というか、まあそんなことわかってたけどね。

本書で勉強になったのは第三章で論じられている、「遺伝性」について。この言葉は、個々人の遺伝を述べているのではなくて、集団で適用されるものだということ。
平均化した社会では、遺伝性が高くなるということ。不平等な社会の場合は、遺伝性が低くなり、環境の影響が大きくなる。
例えば、平等な社会では、身長の大きさは遺伝で決まるが、不平等な社会では金持ちかどうか、食べ物が豊富かどうかで決まる。なるほど。だからこそ教育が重要となるし、機会平等な社会を目指していくべきということになる。
実力主義の本当の意味は、まさにこのことだ述べている。
最終章で、それでは真に平等な社会の中で遺伝に左右されて、成功者とそうでないものが出てくる場合、ひとびとはそれを許容できるのか。それは差別にならないのか、という。
リドレーの偉いところは、許容できる差別と許容できない差別がえることを明言していることで、これはなかなか重要な指摘。ただし、その適用範囲までは述べていない。

例えば、家族はビタミンCのようなもので、ある程度よい家庭環境であれば、あとは遺伝性の問題となるといった感じで述べていて、先では最終章あたりでは短気な親の子供を短気ではない親のもとへ養子にだすと、短気ではない子供に育つみたいなことが書かれているが、結局遺伝とは何かがよくわからなかった。

芸術などの文化活動を淘汰説に還元されている。創作活動は雌の興味をそそるために行われ、とくに若い雄が芸術活動に熱心になるという。たしかに若いころ、その気がないわけではないけど、でもそれってあまりにも変な気がする。
芸術活動だけでなく、危険を犯す冒険家、周りも顧みず熱中するオタクども、これらが雌の気を引くために行われるというような説明は納得できない。
だって彼らの中にはまったく異性に興味がないやつらもいる。というかだいたいそういうやつらはモテないやつらも含まれているわけで、結局、こういった還元論は、どこまであたっているのかわからない。利他主義を説明する際も、それが種の保存で有利に働くっていう説明がなされることもあるけど、でもそれって真実なのかどうか。進化や種の保存をあまりにも合理主義的に捉えすぎている。
哺乳類には、「共感」ができる。でもそれを必ずしも生存競争に還元しうるのもどうかと思う。何かの副産物かもしれないし、共感の感情がない方が繁栄するかもしれない。問題なのはそれを反証できないことだろう。

同性愛について。同性愛者の性的指向は「生物学的」に決まっているという論の立て方は、危険をはらんでいて、男性が暴力的なのは仕方がないといった論法にも適用されかねないという。道徳規範において先天的か先天的でないかは問題ではないと述べている。たしかに。
親が子に与える影響よりも、子が親に与える影響のほうが大きい。親は子供の志向にあわせている。
ジェンダーは、親が固定観念として子供に植え付けているのではなく、それは備わっているものでもあり、たしかに文化的な要素もあるだろうが、ジェンダーのものへの志向の差を支持する遺伝子が備わっていると考えられる。女の子は人形が好きだったり、男の子は銃が好きだったり。
これはなるほどと言った感じ。セクシュアリティを論じる際に、勝手にジェンダーを決めるなという。そして、男性性と女性性は親が押しつけるものという考えがある。または、子供は自由に好きなものを選択できるように親はすべきだと言われることがある。
にもかかわらず、生まれもったセクシュアリティが云々と述べることも同時に行われている。セクシュアリティを論じる際に生じている混乱があって、一方では自由を叫び、一方では先天的なアイデンティティを論じている。やはり、これは筋が悪い。

人は集団の中で自らの役割を決定していく。人は環境の中で、自らの個性を引きだしていく。腕力に自身が他より弱いと考えれば、他の分野を伸ばそうとしたり、話し上手なら、そのようなキャラクターを醸成していく。そして個性は、素質を欲求で強化することで生みだされていく。
「育ち」は「生まれ」よりも残酷だし、またぼくらの自由を否定しかねないということだ。

ボアズとデュルケームは人間の本性は社会的要因の結果であって原因ではない。つまり人間の精神は外的な要因によって変更可能という。それは、文化の優劣へとつながっていくのだが、もし文化が精神に影響を及ぼすなら、ある文化が他よりも優れた精神を生みだすことになる。ボアズは、さらに精神はどの文化においても平等であると述べている。そこでこのパラドックスを解決するため、クリフォード・ギアツは「すべての文化にあてはまる精神」はないとして、文化人類学は差異に注目するようにとといた。
しかしこれは政治的な危険が潜んでいる。しかし文化は文化を決定し得るが、文化は人間の精神を決定しえない。そしてカオス理論から言えることは同じ原因から同じ結果が現実世界で再現されることはないということ。

犯罪をおかした親の子供も犯罪に手をそめやすい。ただ、すべてが遺伝するわけではなく、環境要因がある。だから、将来は犯罪を犯すかもしれない人を救う意味でも、遺伝の検査を行うべき時代へときている。そしてこれは倫理的なことだ。

ちょっと書きなぐり的なまとめになってしまった。きちんとまとめるのがめんどうになってしまった。まあいっか。

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