2018/11/18

ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文藝春秋 村井章子訳

これはタイトルに偽りありだと言われてもしょうがない。帳簿についての歴史的変遷、技術革新などについて、例えば減価償却や現存会計などについて書かれているのかと思っていたら、複式簿記を使用していた商人や政治家、王などについて書かれていて、それはそれで面白いけど、肩透かしだったぜ。まあ原題は"The Reckoning; Financial accountability and the Rise and Fall of nations"で、日本の出版社側の落ち度でしょう。英語の副題は「財政責任と国家の興亡」となっているから、「帳簿の世界史」とは違うだろうよ。
とはいっても、ヨーロッパに限定した記述しかないが、面白い内容ではあった。公認会計士が鉄道会社を監督するためであったり、中世における簿記をする人物の描かれ方と現代の違い。文学に登場する簿記などなど。
帳簿の透明性を保つこと、帳簿を厳格につけることなど、これは難しいことだとは思う。
ただし、この本ではあまりに帳簿を付けることを重要視しすぎていて、あたかも帳簿を付けてたから成功者になれるといった感じがある。たとえばルイ14世がコルベールを失った後に、フランスは没落し革命に至ると言うが、ルイ14が死んでから70年も経ってから起こった。言ってしまえば、帳簿しなくても70年は王権を保つことができたともいえる。これはメディチ家のところでもそうで、新プラトン主義が盛んになるにしたがって実務が軽んじられ、コジモをついだロレンツォは帳簿を知らず、その息子の代で没落していくと書かれているが、まあ一理あるとは思う。ただし、これは帳簿つけなくなっかたらというよりも、メディチ家そのものが商人から脱却して政治家に変貌したからで、だから帳簿もつけなくなった。
全体的に帳簿、会計という観点から国家の興亡を描いているところでは面白いのだけれど、ちょっと強引なところもなくはない。

全体的に面白いことは確かで、多くの経営者や政治家、王族は自分たちの帳簿を見せたくないという心理もそのとおりで、上場企業なら決算書は公開が義務だけど、中小企業などの非上場で家族経営だったり、オーナー企業だったりすれば、決算書が従業員の目にするところに置いてあること自体がまれだろうやっぱり他人に懐事情を知られたくないというのは、万人に共通する心理のようだ。
僕自身、中小企業、いや零細といってもいいくらいの会社で働いていてい、自分の会社の決算書を手に入れるのが大変だ。それで、決算書を見て思うのは、別にこんなの従業員に見せてもかまわないと思う内容で、別に社長が私腹を肥やしている形跡はないし、いたってまっとうなのに。見せればその分従業員は危機意識も沸いて、経営上非常に良いと思うのだけれども。

2018/11/17

奥州平泉 高橋克彦『炎立つ』と斉藤利男『平泉--北方王国の夢』

高橋克彦『炎立つ』NHK出版
平安後期の陸奥から奥州平泉までを描く歴史小説だが、やはり読んでいるとどうもつまらない。司馬遼太郎と比較してしまうが、司馬がもし安倍一族、奥州藤原一族を描く際は、もっと緻密に歴史、文化、習俗といった外堀を埋めながら描くはずだ。しかしこの小説はこれらがほとんど描かれていないため、大和と陸奥との対比がほとんどなく話は進んでいく。たしかに大和の政治組織のあり方との違いやアラハバキといった東国ならではの要素はあるのだけれども。
蝦夷といったところで、蝦夷とは何かがこの小説では問題になっていない。あくまで大和とは違うといった話ししかない。また物部一族にしてもその歴史は謎が多いのだが、ほとんど説明もない。
この小説は、奥州が大和とは一線を画した文化と政治が営まれていた領域であり、朝廷に属さない独立政権であったことが主題となっているところがある。僕もその通りだと思うし、天皇が現在の日本の伝統だなんて微塵も考えていない。しかし、この小説では、大和と陸奥の対比がうまくいっていない。
あとはアラハバキ自体もこの小説では蝦夷たち、古代大和から追放された神であり、鉄を司る神として登場するが、まあ小説だから許されるけども、この説明自体「東日流外三郡史」をもとにしているもので、ロマンはあるけども読んでいて白けてしまった部分もある。義経が宋に渡るとかも、まあまあまあといった感じ。高橋克彦の小説は、この手のロマンがあって、それが魅力でもあるのだけれど、もっと真実味をだせるともっと面白いのだけれど。僕も超古代文明的な話は好きだし、日猶同祖論的なものも好きだが、ちょっと記述が不十分かなとは思う。あと高橋氏は、実際どこまでこの手の話を信じているのかがよくわからない。なんてったて南山宏やゲリー・ボーネルと対談までしている。ここまでくると単なる超古代文明愛好者の域を越えている。
ただし、この義経の死というのは確かに変な感じで、この小説でも最後の第五巻はへんてこりんな内容になっている。
奥州平泉の滅亡は非常にあっさりしている。大軍を擁しながら決戦もせずに、平泉を撤退してしまっている。さらに義経の死も不審で、首は焼けただれていたし、死後40日以上もたってから鎌倉に運ばれている。だれも義経かどうかを確認できない状況だ。
この小説の第五巻では泰衡の英断によって、朝廷とは戦わず、蝦夷の精神を後世に残すため、平泉を戦場にせず、すべて頼朝に明け渡したという風に描かれているのだが、ちと無理矢理すぎるような。この小説の失敗を言えば、第五巻で泰衡がなぜ頼朝と闘わなかったのかの理由があまりに弱い。そして史実として決戦が行われていないため、小説としての盛り上がりが欠けてしまう。それをどう補おうかと、高橋氏の苦心はよくわかるのだが、やはりちょっと白けてしまう。
豊臣秀吉の天下統一まで、日本は統一されたことがないにもかかわらず、あたまかも古代から「日本」があったかのように語られる今日において、この小説に類するものがもっと出版されれば解毒剤にもなるかと思う。

そこでついでながら、斉藤利男氏の『平泉--北方王国の夢』(講談社メチエ)も一緒に読む。まあ小説と歴史学の違いもわかる。下記、その違いについてざっと箇条書き。
*安倍氏は純粋に蝦夷ではなく、もともとは中央貴族で安倍比高の末裔との指摘がある。これは清原氏にも同じことが言える。しかし、これら北奥の豪族は蝦夷としての性格が強かった。
*前九年合戦は、小説で書かれているような経緯ではなく、そもそも坂東奥羽の不安定さを危惧する朝廷の無策から。
*小説では、まるで経清と平永衡のみが安部側についてように書かれているが、多くの在庁官人が安倍側となって戦っている。それは小説のように朝廷対蝦夷といった感じではない。
*蝦夷地平定の延久合戦が小説では書かれていない。この合戦は蝦夷地を平定呈するために清原の力を借り行われたもの。
*仏教王国なのであって、アラハバキではない!! ここ、高橋氏はよくわからないアラハバキではなくて当時の民俗宗教をもとに小説を書くべきだった。アラハバキは興ざめだろう。

なかなか面白い指摘をしていたのが、平泉が仏教王国、よくに天台宗、を目指していたという点で、11世紀から12世紀にかけて神仏習合(本地垂迹)と神統譜の整理による中世天皇神話が浸透し始めてきたときとのことで、このローカルな動きを横目に仏教というインドで生まれた世界宗教をもとに国づくりをしたというのだ。あらゆるものが天皇との関係で語られてしまう危険性を当時からあったのだろう。地方の神々が天皇の系譜に組み込まれていくことへの危惧があり、奥州を支配していた蝦夷の人々は、中央から俘囚と蔑まれながら、中央と同じ宗教に属することは我慢ならなかったのかもしれない。そしてこの平泉仏教文化は普遍性への志向だけでなく、土着的なカミさまを祭っていて、これもまた中央からは異質の世界を作り上げていた。ゆえ春日大社などの分社が北奥に立つことは、鎌倉時代をまつまでなかった。この平泉仏教は、密教系の中央のものとは異なり、法華経が目指す普遍的な平等の理念を目指したものだったという。

さて、この小説と斉藤氏の著書で、小説と多くの異なるとこがでているが、一番は、なぜ平泉政権は、源平合戦に参戦しなかったのか、という点で、高橋氏は平和を守るための消極的な理由に落ち着いていてつまらない解釈であったが、斉藤しが提示するのは平泉は独立政権として大和朝廷の内政に関与することはなかった。奥州は京都からすれば外国であり、奥州の人々も自らは京都人とは違うことは自明であったに違いない。平泉からすれば京都の内紛に口をださないのは当然といったところなのだろう。

日本は明治から徐々に統一された「日本」像を作り上げてきている。現代ではかなりそれは成功しており、すでに地方は僕らのかには存在しないかもしれない。なんとまあつまらない国になったことだろう。

2018/08/28

『モンゴル帝国誕生 チンギス・カンの都を掘る 』白石 典之 講談社メチエ

基本的には面白い内容ではあった。現在のモンゴル史の考古学的発見がどんなものかがわかる。アウラガ遺跡から、農耕を行っていて鉄の生産までしていたことがわあっとのこと。しかもこの鉄の生産の話の中で、インゴットを使用して鉄器をつくっていたらしい。確かに砂鉄から精錬は大変だ。このインゴットを遠征先までもっていったらしいのだ。
あと実はチンギスの暮らしは質素だったらしく、絢爛豪華とは程遠いものらしい。
と、まあ考古学的な話は面白いのだけれど、最後の章でチンギスの分析をしていて、経営学的な視点から評価し直している。これがいただけない。シフト、コストダウン、モバイル、リスク回避、ネットワークなどの経営学の用語を用いてチンギス成功哲学を語っているが、そんな単純な話でもないだろう。経営学のリーダー類型分析とかあほらしいものだし、普通、上に立つものならば言わずもがななのだ。ただこれらの行動を適切に行えるかどうかが問題であり、凡人はわかっちゃいるけどできない、というのが非凡と凡人の差なのだがね。確固たるビジョンを持っていたからチンギスはすごいというけど、僕だって確固たるビジョンはある。ただそれを実現するだけの計画性や粘り強さ、または徳がないのだ。
もっと考古学に徹した内容であればよかったのに。

2018/08/26

Mozart, Symphonies “Linz” & “Paris” Ľudovít Rajter /モーツァルト 交響曲36番「リンツ」、31番「パリ」、ルドヴィート・ライテル

Mozart, Symphonies “Linz” & “Paris”
Ľudovít Rajter 
Slovak Philharmonic Orchestra Conductor
Supraphon, SUA 10873, Mono 
Czechoslovakia, 1967




ニューヨークでの買い物の中の一枚。$3で購入、盤質良好、しかもMONO。モーツァルトの交響曲36番リンツが目当てで、しかもスロヴァキアフィルハーモニア管弦楽団という珍しい感じがしたので買った。設立は1949年。指揮者であるĽudovít Rajter (ルドヴィート・ライテル)は1949年〜1952年、1953年〜1961年に首席指揮者だったようだ。
録音状態は良い。発売は67年となっているから、録音は66年か67年だろう。ということはプラハの春がまだ起きていないのだ。まさにリンツの王道といった演奏だ。第三楽章なんかは土地柄もっとリズムカルに演奏されるのかと思いきや端正で抑制がきいている。このリンツの持ち味はリズムだと思っていたので、ライテルの演奏は落ち着きを持っていて大らかに演奏されていて、今ひとつピンと来ない感じがしたのだが、何度か聴いている内にもしかしたら、いい加減な気持ちで、これは社会主義体制のなかで探求された芸術のあり方なのかと。どこかモーツァルトには似つかわしくないダイナミズムが感じられるし。社会主義体制の中での芸術、それって何よ、と自分自身に問いかけたけどよくわからないので、いずれわかる日が来るかもしれない。とはいっても非常にいい演奏だし、これからも愛聴していくと思う。
スロヴァキアというヨーロッパの小さな地域でこれだけの演奏ができるオーケストラがあるってのも羨ましいもので。大きさは九州より少し大きいぐらいの国なのに。

2018/08/25

Easter Oratorio, Eugene Ormandy/バッハ 復活祭オラトリオ ユージン・オーマンディ

Johann Sebastian Bach , Easter Oratorio 
Eugene Ormandy, The Philadelphia Orchestra
Judith Raskin
Maureen Forrester,
Richard Lewis
Herbert Beattie
Columbia , MS 6539




ニューヨークのレコード店で手に入れる。盤質は問題なし。$3だった。まさかユージン・オーマンディがバッハの復活祭オラトリオを録音していたなんて、と驚いた。
日本に帰り、数多く持ち帰ったレコード中でまずこれをかけてみたら、フィラデルフィア管弦楽団の華やかな冒頭から素晴らしかった。当然モダン楽器による演奏で、時代を感じさせるものだが、リヒターのような堅苦しさがなく、華麗に軽やかにオーケストラが歌い上げている。この演奏は現代のピリオド演奏につながるとこがあって、たしかに過度なビブラートやらがあったりするが、宗教音楽の重々しさから脱却してる。
僕にとってオーマンディというと最初に思い浮かべるのがラフマニノフと共演したピアノ協奏曲第三番。で、なにか思い入れがあるとか、素晴らしい伴奏だったとかは特にない。だって音質が悪くてあんまり聞き取れないから。あとはベートーヴェンの第九は大好きだった。神格化した第九のような演奏ではなく、どこか呑気でかつ華麗な演奏だ。第四楽章のソロは、もうオペラのようで合唱も神々しさをなくした人間的な喜びがある。
今回のバッハの復活祭オラトリオも第九と同じように、このバッハの作品を身近にしてくれる。

2018/08/19

貝殻の形成 How Seashalls Take Shape

How Seashalls Take Shape


軟体動物は驚くべき建築家だ。襲撃者や自然から柔らかな体を守る家を建てる。殻が持つ並外れた強さ、耐久性、美しさ。多くの殻は壮大な複雑性を持った形状をもつ。それはフラクタルに回転しながら装飾された対数の螺旋、またはほぼ完全に数学的な規則性を伴って製作された装飾。しかし軟体動物はもちろん数学を知らない。どうやってこのつつましい生き物がかなり複雑なパターンを正確に生み出すのか。
100年以上もの間、科学者は細胞、組織、器官は、その他の物質を支配するものと同じ物理的な力に呼応していなければないと考えていた。しかし20世紀を通じて、生物学者はどのように遺伝子情報が生物のパターン形式に影響を与えるのか、またこれらのパターンがどのように機能するのかを理解することに力を注いた。しかしここ数十年で、研究者は物理規則に則る数爆モデルを生物の形質への疑問に適用し始めた。ここ数年のこのやり方に沿いながら私たち独自の研究が、興味深い見方を示してきた。どうやって貝殻は装飾的な構造を獲得するのか。
曲面を研究する数学の基本である微分幾何学を使い、非常に凝った形の貝殻がいくつかの単純な規則によってもたらされていることを突き止めた。軟体動物はそれに従い、自分の家作りをしているのである。これらの規則は貝殻が成長する間、生み出される力学と相互に影響しあい、無数のパターンの多様性を生み出している。私たちの発見が、どうのようにして回転のような複雑に入り組んだ特徴が腹足類で独自に発達したのかを説いてくれる。これら腹足類は、似たような形状を獲得するのに同じ遺伝の変化を経る必要がない。なぜなら物理法則がこれらの大半を行っているからだ。

構造物の規則
殻を作り上げる役割は、軟体動物の外套膜である。この薄く、やわらかい器官の神秘が、殻の開口部で炭化カルシウムを豊富にもつ物質の層で重ねる。カタツムリやその仲間の殻に見られる特徴的な螺旋を形作るために、三つの基本的な規則にのみ従う必要がある。第一の規則は拡張(expand)である。古い箇所に均等に以前よりも多くの材料を堆積させていくことで、軟体動物は少しだけ大きい開口部を作っていき、これを繰り返す。この過程が最初の円から円錐を生み出す。第二の規則は回転(rotate)である。殻口の一方の側に少し多くの材料を堆積させることで、殻口の回転を成し遂げ、ドーナッツ状、もしくは円環面(torus)を作り上げる。第三の規則は捻り(twist)である。軟体動物は堆積物の箇所を回転させる。拡張と回転に従えば、オウムガイのように平巻(planospiral shell)を得る。これに捻りを加えてれば、結果は非平面(nonplanar)の螺旋形(hericospiral)の殻を得られる。
いくつかの殻を作る軟体動物にとって、これが全てである。欲っするほど滑らかで優美な家である。他の軟体動物にとっては、装飾物は秩序だっている。どのように巻貝のように装飾が作り出されるかを理解するために、殻の成長の間に生み出される力を試験しなければならない。殻が作られる分泌作用の過程は興味深い機械的システムを繰り返している。外套膜はいわゆる生成領域ーー物質が分泌されているが、まだ石灰化していない領域のことだーーを通して殻に付いている状態である外套膜と殻の間の相互作用において、パターンが形成される力が存在する。外套膜と殻口の間の不均衡は外套膜の組織に物理的に圧力がかかる。もし外套膜が開口部に対し小さすぎれば、外套膜は開口部に付こうとする。もし外套膜が大きすぎれば、外套膜は縮まろうとする。これらの圧力で生成領域が変形すると、外套膜がその段階で分泌する新しい材料が変形した形状を引き受け、絶えず殻の中で凝固する。さらに次の成長の段階へ外套膜に影響を与えるのである。本質的に、軟体動物が成長するのと同じ速さで殻も成長しないならば、変形が生じ、装飾品のような特徴を生み出す。
スピンは最も際立った装飾を作り出す。通常では殻口へ右へと突き出ていき、時には殻の表面を超えて数センチ広がっている。外套膜が急成長を経る期間でこれらの予測が形作られる。急成長の間、外套膜速に成長し、その結果外套膜は過剰な長さを持ち、殻口を調整できなくなる。このズレが外套膜が曲がることを起こさせる。外套膜が分泌する材料は曲がった形状を生み出す。次の急成長まで、外套膜はさらに成長し続け、殻口を再び超える。この殻口がバックルの形状を増長させる効果を持っている。この繰り返される青陵過程と機械的な相互関係が一連のスピンを生み出していると私たちは結論付けた。スピンの正確なパターンはまず第一に急成長の頻度と外套膜のstiffnessによって決まる。
この考えを試すために、私たちは繰り返し進化していく基礎の上で外套膜の成長の数学モデルを作り出した。そのモデルで典型的な成長と材質の特性を試験したところ、太陽なスピンのパターンが現れた、それは実際の殻でも見られる形状と似ていたし、私たちの仮説を確認できるものだった。

古い家
軟体動物が貝殻に付け加えた飾りスピンだけではない。別のタイプのパターンが、絶滅した軟体動物で、今日の頭足類の親戚であるアンモナイトの貝殻が見つかりった。アンモナイトは65万年年前に消え去るまで、355万年間海を支配していた。豊富なアンモナイトの化石が、素晴らしい多様性と高い率で進化してきたこととともに、最も研究が盛んな無関津男動物となった、。
平巻対数螺旋形以上にアンモナイトの最も驚くべき特徴は殻の端まで並行にある規則正しい畝のような模様である。この装飾はおそらく同様にスピンを生み出す機械的衝突のためだろうと思われるが、しかし完全に異なったパターンである。アンモナイトの場合、力学は同じだが、規模と幾何は同じではない。
アンモナイトの殻口は基本的に円である。もし外套膜の半径が現在の殻口の半径より大きい場合、外套膜は圧縮されるが、スピンを生み出すのに必要なあり程度柔軟な不安定さを生み出すほどではなかった。むしろ圧縮されている外套膜は外側に力が働き、次の成長期には殻の半径は大きい。しかし外へ動きは石灰化を起こす生成領域によって押し戻される。これが、トルクばねのように現在の殻の方向性を維持しようとしている。
この二つの反対の力が規則的に動きと私たちはまとめた。貝殻の半径が大きくなり、圧縮が小さくなり、しかし緊張状態を通り過ぎる。「伸びた」外套膜は次にその緊張した力を小さくするために内側に引く。そして再び圧縮されている状態を通り過ぎる。変形機械的振動の数学的描写は、私たちの仮説を確認してくれるものであり、軟体動物の成長期に波長と振幅を伴う規則的なうねりが生み出される。これらの数学的予測はアンモナイトの形状にとても似ている。
数学モデルはまた、成長している軟体動物の拡張する比率が大きくなるにつれて、すまり開口部の直径が大きくなる比率で、そのうねりはより目立たなくなる。これらの発見が広がる殻口の湾曲がうねりのパターンに関係しているという洞察を説明してくれて、一世紀以上もの間、古生物学者によって記されてきた進化の傾向も説明してくれる。
広がりの比率とうねりの関係はまた単純な機械的幾何学的な解説を長い間解けなかった軟体動物の進化について教えてくれる。オウムガイやその種の貝殻は本質的に200万年前から滑らかで、見るものをその種が一見進化していないという考えに導く。事実、今日の生き残っているオウムガイの種はよく「生きた化石と表現される。しかし、私たちの生物物理学の成長モデルは、オウムガイの貝殻の滑らかさはたんに急激な殻口が広がったことによる結果にすぎないことを示している。オウムガイに連なる種は貝殻の形態学が示す以上に進化してきたのかもしれない。しかし、古生物学者が種を分類していた個別の装飾のパターンが失くすことで実際の進化が隠されたままなのである。
私たちは、いまだどのように軟体動物は素晴らしい住居を作るのかについて学ぶべきところが多くある。貝殻の収集を通して短い歩みこそが、科学者がいまだ説明してこなかった数多くのパターを明らかにする。例えば、およそ90%の腹側動物は「右利き」で、時計まわりに貝殻は作られている。たった10%が左巻きである。科学者はようやく右利きが広くいきわたっていることを導く数学を証明し始めている。美しい模様の起源が同様に未知であり、例えばフラクタルに似たスピンのパターンがオウムガイのマッキガイ科の中で多くの種で見られる。しかしまた、私たちは環境要因が貝殻の成長の比率に影響を及ぼしていることが知っているが、貝殻の形成する上での様々な影響についてはよくわかっていない。貝殻に纏わる謎について、それは自然界でのパターン形成の幅広い疑問を調査するためのモデルとなっていて、私たちは困難な仕事をあてがわられている(we have our work cut out for us)。しかし貝殻の成長を支配する物理的な力を理解することは、少なくとも貝殻の魅力を増していると思う。
****************************
Scientific America, April 2018からの記事。しかしまあ難しい。全くの門外漢でもあり、正直訳してて貝殻がどう形成されるのかということをイメージするのが難しかった。訳語なんかは一応調べたけど、まあ間違っていることでしょう。
貝殻の幾何学的な模様を不思議に思うものだ。世界はランダムなようだが、非常に秩序だっているのだと実感できる。インテリジェンス・デザインなんかあほらしいと思うが、まあそう考えてしまいたくなるのも無理はない。

2018/08/18

『プロテスタンティズム――宗教改革から現代政治まで』深井智朗 中央公論新社

なかなか興味深い指摘をしてくれている。非常に良い本だと思う。
ルターの宗教改革は一種の神話化していて、ドイツ・ナショナリズム高揚のためにことあるごとに使われていたという。それは第一次世界大戦、第二次世界大戦だけでなく、東ドイツでは共産主義革命と宗教改革をだぶらせるようなメディア戦略が行われていたと言うのだ。以下はメモ。非常に勉強になりました。

プロテスタントという名称は、ドイツでは福音主義と呼ぶ。
そしてルター自身、新たな宗派をたちあげるという感覚は全くなく、あくまでカトリックの立場でカトリックを改革するべきという立場であった。
贖宥状の発行が、当時のヨーロッパの人々、とくにドイツ(ボヘミア)の人々には非常に魅力的だったというのだ。自らの罪を他者が代行して償うというゲルマン世界特有の法理念があって、それとキリスト教がまじりあっていると言うのだ。
最初のほうはヨーロッパ史のおさらい。神聖ローマ帝国とローマ教会の関係など。神聖ローマ皇帝、つまりドイツ皇帝は歴史的にローマ教皇の権威があってこその存在。
なんとルターは、ヴィッテンベルグ城の教会に「95か条の提題」をハンマーで打ち付けなかったと言うのだ。ふざけるな。僕はこれまでずっとルターのこの英雄的行動を信じていたのだ。
ルターの神学について、ちょっとした解説。普通の人が、善い行いをして天国にいくというのはできない。義人とは、神と正しい関係をもてる人のことを指す。この義人が天国へと人々を見tびく。神は義を与えるが、全ての人に与えるのではない。修行した人に与えるのでもない。神は自らを信じるものに義を与える。そしてその義人がイエスだという。ここで救いは受動的になる。信じれば救われるものとなる。
驚くべきことにルターは1521年に破門されてから、今日までこの破門が解かれていないというのだ。
アウグスブルクの宗教和議について。領主の宗派がその領域の宗派を決めるという取り決めだたり、実効性がないため、実際それほど画期的なものではなかったという。フランス、イギリスに送れて19世紀にようやく統一は成し遂げたドイツの、「近代のはじまり」として利用された節があるようだ。
「宗教改革は中世に属する」トレルチ
古プロテスタンティズムと新プロテスタンティズムという分け方。ルター派やカルヴァン派などは保守的な勢力となっていて、また政治上の立ち位置はカトリックと変わらない。つまり神学も道徳も領主と教会との緊張関係のなかで決められる。すなわち教会は政治的支配制度の一部であり、まさに政治的な機構一部として認められる存在であるということ。そういう意味で宗教改革は中世に属する。
新プロテスタンティズムは個人が選択するもの。生まれながら属する宗教を決められるのではなく、自らが医師をもって選択することに注力しており、それゆえ布教するにも説教するにもいろいろと工夫がなされている。新プロテスタンティズムが、デモクラシーや自由主義を生み出したわけではないが、これらの近代を担った運動であったことは間違いない。
ドイツ統一ににもたらされた「ドイツ的なもの」とプロテスタンティズム、そしてルターの宗教改革の先駆性という神話の構築。つまりピューリタン革命やフランス革命よりも早い時期に「近代」を説いていたというやつ。ナショナルアイデンティティの形成。
第一次世界大戦の敗戦によって、共和制へ移行。その過程でルター派が追い出される。なぜならば王政とルター派は結びついていたから。面白いのがヴァイマール期で勢力を拡大したのがカトリックということ。というのもカトリックはバチカンを中心に世界的な組織で国際的であるため、時代の要請に適合していたということ。
ナチスはルターを利用したが、ルター派教会は積極的には協力しなかったにせよ、否定もしなかった。ルター派はドイツでは保守であり、近年移民問題などから教会にくる人々が増えたという。それはドイツ的なものをもとめてのこかもしれないという。ここで興味深いのは、このような近年の動きにルター派は忸怩たる思いがあるということ。彼らはナチに協力しなかったにせよ、否定もしなかった。その後多様性と寛容を発信してきたにもかかわらず、どうも理解されていないと。またここで保守思想の一つ重要な指摘をしている。
「戦後のプロテスタンティズムは、単なる宗派の独善的な優位性の主張ではなく、多宗派共存のためのシステム構築の努力を続けた。プロテスタンティズムとは、カトリシズムとの闘いを続け、その独自性を排他的に主張してきた宗派であるだけでなく、複数化した宗派の中で、共存の可能性を絶えず考え続けてきたしゅうはであり、むしろ後者が私たちの今後の生き方だと主張するようになった。このような仕方で戦後もドイツのプロテスタンティズムは国家と歩みを共にした」158
またイスラムの授業を公立の学校で選択できるようにするということについて、「この改革を支持しているのがルター派である点だ。たしかにルター派は社会の保守層を支持母体とし、保守的な勢力として、社会の多元化を嫌い、不寛容な排他主義を容認し」てきたが、「他方でルターをはじめとするプロテスタンティズムは、そのような不毛とも思える争いを終わらせ、政治や宗教における様々な見解がとりあえず共存可能な社会システムを作り上げ」てきた勢力でもある。だから、極端な排他主義、かつては洗礼主義、を否定した。

2018/06/04

『磁力と重力の発見』山本義隆 みすず書房

1 古代・中世
第一章 磁気学のはじまりーー古代ギリシャ
第二章 ヘレニズムの時代
第三章 ローマ帝国の時代
「古代ギリシャは、遠隔的に作用するように見える磁力を原子論やプラトンのような眼に見えない部室の近接作用に還元するか、それともタレスのように霊的で生命的な働きとみるか(物活論)、その二通りの路線において説明する思想をはじめて生み出」す。54

類似のものは引き合うろいうデモクリトスのテーゼ。

「自然界はつねに変化しているが、しかしきまった趣旨からはかならずきまった木が成長しきまった果実が稔りそして元とおなじ趣旨が得られ料に、その外見上の変化をつらぬいて一定不変のものが維持されているという観察」65

アリストテレスにおよると、動くものは何かに動かされているとする。その何かを「動因力」という。自然運動にしても何かしらによって動かされているとする。
そこでみずから動くことなくほかを動かす運動を第一原因とした。この力によって宇宙の惑星や太陽、月は動かされている。この場合、他を動かす力は磁石に見出すことができ、第一原因と組み合わせるとバツが悪い。ここまでが無生物の議論。
そこで、身体を動かすのは「霊魂」なので、磁石にも霊魂があるというしたが、どう考えても鉱物なので、どの分類にも入れることができなかった。

「ローマ社会において、その後のキリスト教中世における磁石と磁力にたいする死生、ひいては自然ちょく一般の理解の原型がほぼすべて形勢されることになった。
第一に、磁石の働きを生物のなぞらえて見る生物態的視点の浸透、第二に、磁石には物理的な作用があるだけではなく生理的な作用さらには超自然的な能力が備わっているという想念の普及、そして第三に、自然蛮勇のあいだの共感と反感の網の目でもって自然の働きが成り立っているという自然観の形成である。」127


第四章 中世キリスト教世界
第五章 中世社会の転換と磁石の指向性の発見
第六章 トマス・アクィナスの磁力理解
第七章 ロジャー・ベーコンと磁力の伝播
第八章 ペトロス・ペレグリヌスと『磁気書簡』
「アウグスティヌスは、プラトンのイデア界と天にある神の国を同一視し、現実の自然界と人間界をその下にある邪悪に満ちた世界とみなし、それゆえ自然研究を聖書研究の下位に置いた」130不可思議なこと、奇蹟を説明できないのは、それが「人間の精神の力をこえているから」。つまり奇蹟や自然の不思議なチカラは神の啓示であり、その偉大さの顕現とした。すなわち二元のできることは、その理由を解くことではなく自然に示された神の救済の意志を読み取ること。故に知的好奇心は肉体的欲望と同様に忌むべき欲求とされた。
中世キリスト教世界において、磁石と磁力は魔術的な世界、そしてプリニウス的な世界観を保持し続けた。
13世紀に大きな転換を見る。アルベルトゥス・マグヌスの弟子のトマス・アクィナスがスコラ哲学を陥穽させたころ、ペレグリヌスやロジャー・ベーコンらが活躍し始める。この時期にイベリア半島はレコンキスタを完了する。シチリアもキリスト教国として安定した時期となる。イスラームとビザンツ世界との接触があり、古代の発見をみる。またルイ9世の統治、ドイツの都市自治の拡大など新興ブルジョアジーの土壌が形成されていく。これが、トマス・アクィナスやロジャー・ベーコンの登場する背景となる。
12世紀に航海用コンパスの使用がみられる。中国では11世紀には文献にみられ指針性もしられていたが。フリードリヒ2世のことが書かれている。この王についてはいろいろと面白そうなのだが、これは何か機会に、本を読んでみよう。『皇帝フリードリヒ二世』カントロヴィッチ著なんかか。
トマス・アクィナスの自然学はアリストテレスのものと同じ。運動については214を読む。形相と質料などのアリストテレス哲学の用語の説明があり。トマスの場合、「本質とは事物の定義によって表示されるものである」というように、実験や観察によって得られることを重視しない。「根本は、事物の属性やふるまいは事物の自然本性が正しく把握されたならば、そこから論理的な推論で」演繹できるものとする。
「「運動の第一原因」すなわち「神」が恒星天球を動かしている。そしてその下にある惑星天球はまた、その第一原因に服している非質料的実体によって動かされている。…「もろもろの物体のうちで包むものであるものの方が、より形相的で、しかもこのことによって高貴で完全であり、」そのため「その天球が秩序づけられる上位の惑星は下位の惑星よりいっそう普遍的な力のうちにあり、…いっそう永続的な影響を与える。」」224-225
「ところでアリストテレス自然学においては惑星天球を動かすこの「力」は、離存的で非質料的な実体すなわち「天使」の働きであった」225

ロジャー・ベーコンはトマス・アクィナスと同時代の人物。自然学における経験と数学の重要性を指摘したが、磁力の謎については、デモクリトス、プラトン、そしてアリストテレスの論理の再解釈の域にとまっていた。

そこに近代的な磁石についての文献が登場する。『磁力書簡』では、両磁極とその引力・斥力の相関について見いだせたり、計画的で能動的な実験や観察を見出すことができる。ペレグリヌスはおそらくは「高級職人」だったのではないという。まさしく技術者であり、職人といえる。そのため、トマス・アクィナスやロジャー・ベーコンのような磁石理解とは一線を隠したものとなっているし、『磁力書簡』も、磁石についての存在論的な戯れは書かれていない。おそらく、イスラーム社会との接触によって、当時最先端をいっていたイスラームからかなり影響があったと思われる。ここに、中世の言説からの離脱を伺うことができる。

2 ルネサンス
第九章 ニコラウス・クザーヌスと磁力の量化
「クザーヌスにとって神は「端的にかつ絶対的に最大のもの」であり、したがって「対立物の一致」である。というのも最大のものは最小のものに一致しているからである。そのことは、たとえば無限な円が無限な直線に一致することで例証される。このように神は「無限な真理」であるがゆえに「われわれには把握されえない仕方でそれに到着するより以外に道はない。」そのわけは、…ここで彼は神の存在ではなく神の認識を問題としているのであるが、認識について彼の基本的な把握は「探求者はすべて、不確実なことを、前もって措定された確かなことと比較し、比的に判断する。どんな探求もみな比を媒介としてもちいるがゆえに、比較的な探求である。」というものである。とするならば「無限なものの有限なものに対する比は存在しない」がゆえに、「有限な知性」であるわたしたちには神は認識しえないことになる。つまるところ、既知の事実と比較という有限の思考過程の積み重ねによってしか物事を知り得ない私達人間の知性は、無限ある神・絶対的な真理には到達し得ないのであり、「真理の厳密世は、われわれの無知の闇のなかに、把握されない仕方で光っている」のである。そしてこのことを自覚することこそが、あるいは無知に徹することによって無限な神に近づくことこそが「知ある無知」だとされる。それは、一言で言うならば、「近寄りえないものにわれわれを近寄らせるのは、われわれの力ではなくて、…彼(神)の力である」ことを知ることにある。」309ー310
すなわちクザーヌスは、有限なものを相対化することの重要性を説いている。神を認識できずとも、有限を積み重ねることですこしでも無限に近づくことの営みのなかに自然学を位置付ている。そして、比重の測定、重量測定を重要視し、数量化を推し進めていた。定量化こそが自然認識の基本と据えたという。

第十章 古代の発見と前期ルネサンスの魔術
ルネサンス人にとって、自然は象徴と隠喩の集合体であった。大いなる存在の連鎖というやつか。1400年代の魔術は新プラトン主義、ヘルメス主義の影響が大きい。1500年代はロジャー・ベーコンの影響を見出される。1400年代、前期ルネサンスの頃、プラトンの発見、ヘルメス文書の翻訳、古代ギリシャの異教との接触によって、オカルト哲学が流行る。オカルト、すなわち「隠された力」を解き明かそうとするのだが、この時代はまだ書物偏重であり、実験や観察を重要視していない。思弁的かつ衒学的な解釈であり哲学となっている。

第十一章 大航海時代と偏角の発見
第十二章 ロバート・ノーマンと『新しい引力』
磁石が鉄を引き寄せることは中世後期にはヨーロッパで広まっていたという。航海用コンパスの製作者の間で、偏角の存在も知られていた。そして伏角の発見とあわせて、地球のr下位を大きく変えていく。中世まであった、磁石の山や天の極から力を得ているという認識が、地球の極からら引かれているという認識への変革。北極星が引いているのではなく、地球磁場が原因となる。ノーマンの『新しい引力』は伏角を生み出す力の測定のために、ある仮説をたてそれを検証するために計画し、実験をおこなったという合理的な思考と方法を貫いている。まさにイギリスが一流国となっていた時代、十六世紀から十七世紀中葉。実学の萌芽がみられるのだ。
ジョン・ディー、科学啓蒙運動の第一人者でもあり、ヘルメス、ルネサンス魔術の信奉者。ディーは、書物偏重であった当時の学問を実用的実際的な術とすべき技術者や職人をもとめていた。つまりディーのなかでは、ルネサンス魔術と技術への問いが混在していた。

第十三章 鉱業の発展と磁力の特異性
第十四章 パラケルススと磁気治療
第十五章 後期ルネサンスの魔術思想とその変貌
グーテンベルグの印刷術により書物の出版が盛況となる。当時、知識人たちはラテン語で書物を著していたが、印刷業者にとって利潤を追うには、知識人に売るのでは読者数は限られる。そのため母国語で書かれている書物を印刷することが頻繁となる。産業と貨幣経済の発展によって、そして戦争による重火器の拡大で、金属の使用量は急増していく。ここで技術が閉じられたギルド的な世界を飛び出し、公表されるものとなっていく。技術者のための技術書や経営術などの書物が出版されるようになっていた。秘儀が秘儀ではなくなってきた。そこには魔術的で衒学的な記述はなくなり実際的な記述となり、必要とされていった。にもかかわらず、まだこの時代においては磁石と磁力は中世的な認識を捨てられることなく、生き延びていた。
パラケルススの医学もそうだ。彼は近代医学の出発点のように見られているが彼の言う経験や実践はかならずしも近代的な意味をもたない。彼は、民間療法、呪術師による祈祷、土俗的な治療法など多くのものを受け入れ、その意味で自然魔術であった。パラケルススは磁石の治療を検証していた。共感と反感という古代からの自然観にそっていた。その中で武器軟膏という、遠隔的な治療法まで行っていた。パラケルススの医学は、ガレノスのようなアリストテレス医学ではく、ヘルメス主義かつキリスト教的哲学を与えてくれるものだった。彼の「化学哲学」は基本的には大宇宙としての天と小宇宙としての人間の照応と調和に基づき天の力を人間が操作し使役するというヘルメス主義であった。504

「そして魔術が自然魔術であるかぎり自然にはんしないこと、自然の内在的な力と法則に支配されていることの強調こそが、一五〇〇年代ルネサンスにおける魔術思想を特徴づけるものである。ポンポナッツィのように、奇蹟た自然の不思議さは、自然的要因によって引き起こされるもので、ただその自然的要因がなんだかわからないとしてた。彼にとって魔術は、実用的なものであり真正の科学のことだったようで、彼の言説は無神論とも取れる。オカルト、隠れた力を経験的で実験的な方法で解く自然魔術にとって、磁力や静電気力は格好のテーマとなっていた。

第十六章 デッラ・ポルタの磁力研究
デッラ・ポルタの『自然魔術』という書物は、魔術と入っているが、それは近代における光学や磁気学などの実験物理学を扱っており、さらには実際的な知識の集大成のような内容となっている。この後、イギリスでは機械論が主流となり、魔術への関心ががなくなる。「魔術」という言葉がもつ広がりが、この書物の目次をみると驚かされる。家財の増やし方から化粧方法、狩について、気学についてなど、まさにすべてが詰まっている。磁石については鉄に対する磁化作用もまた遠隔操作であり、さらに磁力は距離によって減衰することを語っている。また「力の作用圏」というものを導入する。魔術と科学の違いは公開性にあるように言われているが、必ずしも科学が秘匿体質をすぐに脱却できたわけではない。数学の方程式は私有財産として秘匿していたケースも有る。600 そもそもデッラ・ポルタの『自然魔術』自体が一般向けに書かれた書物となっている。印刷技術は魔術の神秘性も脱色していった。デッラ・ポルタの『自然魔術』は、魔術の大衆化を促した。

3 近代の始まり
第十七章 ウィリアム・ギルバートの『磁石論』
近代電磁気学の出発点とされる『磁石論』は1600年に出版された。これは多くをデッラ・ポルタに負っている。「ギルバートの新しさ、つまり『磁石論』を真に先跋をみないものと特徴つけているのは、実験そのものではなくその動機づけ、そして実験結果に彼が与えた意味と解釈にある。…真に先駆的な功績は、なんといっても地球が一個の巨大な磁石であるという発見であるが…ベーコン的な意味で帰納されたものではない。…ギルバートのかなり空想的な、そう言って悪ければスコラ的な議論ーー「磁気哲学」ーーに身を委ねているのである。…ギルバートが十七世紀に与えた影響はなにはさておき磁気哲学にあった」614-615
彼の琥珀現象に関する議論が電気学を推し進めるものとなったが、そもそも磁気哲学とは関係な代物だったが。「琥珀現象は電気的物質が他のさまざまな物体に外から力を行使する結果であるけれども、磁気現象は特殊な磁性体どうしの内在的衝動によって生じる自己運動であるというのが、ギルバートの基本的見解であった」621 さらに地球が霊魂を有する生命体とみている。これは一種のアリストテレスへの回帰と見ることもできる。むしろまさにそうだったようだ。だからこそ彼は地動説を支持し得た。しかしこの物活論的、霊魂論的な思想が、十七世紀の物理学の発展に大きく寄与した。

第十八章 磁気哲学とヨハネス・ケプラー
ケプラーの発想も近代的なものとは言えなかった。宇宙には秩序と調和が存在し、神による完全な構造物と宇宙をみなしていた。つまりは彼はプラトン・ピュタゴラス主義をとっていた。しかし「ケプラーによる天文学の改革は、たんに太陽を中心におき、また円軌道を楕円軌道にとりかえたことにとどまらない。彼の改革の本質的な点は、惑星運動の動員として太陽が惑星に及ぼす力という観念を導入し、天文学を軌道の幾何学から天体動力学に、天空の地理学から天界の物理学に変換させたことにある」680-681
「ケプラーが太陽中心説を言うときは、たんに記述に際して座標系の原点に静止した太陽を置くという数学的な意味だけではなく、太陽系全体の活力の源泉が太陽にあり、すべての惑星は太陽からの物理的な作用ないし生命的な影響を受けて動いているという動力学的了解をともなっていた」690
そして、ケプラーは当初「運動霊」という用語を使用していたが、「運動力」と捉え直す。
ギルバートの地球は磁石であるという議論が、重力を導き出す。太陽も磁力を伴うのであれば、その磁力は、その力の範囲内であれば、惑星に影響を与えているから。そして全ての惑星には、同じように磁石の性質があり、そのため相互に影響しあっているはずだと考えた。これがケプラーに影響を与え、宇宙の中心は力の源泉となる物理的・物質的実態すなわち太陽でなければならないとなる。その天体間に働く単一の関数で表される力という観念が生み出される。それはオカルト、隠された力ということになる。

第十九章 十七世紀機械論哲学
潮汐については、古代から経験的に知られている自然現象だったが、これは経験的に月と太陽に関係していることも知られていた。しかしガリレイは遠隔力を認めなかった。つまり重力を認めようとしなかった。『天文対話』において、地動説であるがゆえに潮汐があると結論づけていた。近代的思考に近かったガリレイは、遠く離れた月の影響について否定していた。
重力についてはなぜ落ちつのかではなく、どのように落ちるのかを考えた。つまり自然科学の配位を狭めたのだ。
デカルトは言ってしまえば、素朴な機械論的物質観をもっており、推論により論理的に演繹されるだろうよする硬直した閉じた体系のつくった。まだパラケルススのほうが実験を重要視していた。世界をひとつの自動機械になぞり、その機械の仕組みを解き明かすこと、眼に見えない微粒粒子が動いてい磁力なり諸現象は説明できるとした。それは受動的な考えで、天界の惑星間の働きを解き明かすことの前で無力だった。

第二十章 ロバート・ボイルとイギリスにおける機械論の変質
フランシス・ベーコンにおける経験の蓄積や技術の改良による発展。「ベーコンは、技術が多くの人たちによる実際の使用経験にもとづき日々改良され進化をとげるように、自然との交渉の拡大ち経験の蓄積のかなかでたえず手直しされ拡充され、多数の人間の協力によって完全なより包括的なものへと普段に仕上げられてゆく、累積的で可塑的で発展性のある開かれた理論という新しい学問の理想を模索していたのである。」777 「ベーコンは遠隔力の存在を認めたが、しかし遠隔力を合理的に捉える術を」有さず、彼にとって理論的枠組みや仮説の重要性を理解していたとは思えない。782 彼の見方は質的であり、定量的な把握にはほどと多かった。ゆえにベーコンの哲学は数理的な自然学への発展へとは直接つながるようなものではなかったようだ。
そこでイギリスにおける新しい学は、ベーコンの実験重視の考えと機械論の融合から生まれる。
その転換が、顕微鏡や望遠鏡などの「現代の利器」。これにより機械論やベーコン主義を乗り越える新たな段階にはいる。
ロバート・ボイルは引力を認めなかったという。直接的接触による衝撃ないし圧力の結果と見なしていた。その限りではボイルのは機械論の立場だが、彼のそうみつ根拠がある。真空ポンプの実験によりそれまでの「真空嫌悪」という考えを否定し、「圧力」による水面の上下を説明した。つまり磁力も近接作用として説明されるべきと考えた。ボイルの場合、デカルトの演繹的方法によえる機械論とは違い、経験論的、帰納的な立場にいた。

第二一章 磁力と重力ーーフックとニュートン
ロバート・フックフックは機械論主義をとるが、同時にギルバート以来の重力と磁力を同じように論じたりもしている。フックは重力を定量化しようとした。
ニュートンは当時の機械論哲学の全盛時代のなか、万有引力は厳し批判があった。なぜなら、「機械論にとっては物質が不活性で受動的であっただけではない。太陽がなにもない広大な空間をへだてて惑星に力を及ぼすということは、働きかけるべきはるか遠隔の惑星の存在や一を太陽が知っていることであるかのように思われ、目的論や物活論や生物態的自然像を過去のものとして葬り去った機械論には信じられないことであった」855 ニュートンの議論は、数理的ではあったが、時代を逆行するものと思われていた。ニュートンの場合、物質や事物の存在論はとりあえず脇に置き、どう働くかの法則を導くのみだった。「ニュートンにとって物質の受動性の力と能動性をどう折り合いを付けるか…機械論の一面世を霊魂論や物活論の要素でいかに補完するのか、ひいては自然学のうちに魔術的なものを以下に組み込むかという問題であった。」864
ニュートンまではまだ「空間に偏在する神」の存在を求めていた。

第二二章 エピローグーー磁力法則の測定と確定
十八世紀のニュートンが持っていた自然の神聖視が、フランスの啓蒙主義運動のなかで洗い落とさいき、数理物理学がはじまる。

****************
長かった。ようやく読み終わる。たしかに磁石は不思議なもので、現代的な視点で古代の無知を笑うこともできない。ケプラーのところは面白かった。プトレマイオスもコペルニクスも、幾何学からのアプローチにすぎず、それは数学的に厳密ではあるが、天体物理学というには足りない。そこにケプラーは、惑星が互いに影響し合うという魔術的なものを持ち込んで、近代の天体の物理学を作り上げたという。

しかし、こう読んでみるといろいろと思うところはある。ワインバーグが『科学の発見』でニュートンを絶賛してたけど、本書を読んでみるとニュートンは近代的な意味での科学者とは異なるような感じはする。ワインバーグの本も面白いのだが、極端な進歩主義で鼻持ちならないところがある。

2018/05/05

Vivaldi, Stabat Mater, Michel Corboz, Naoko Ihara, Erato, STU 71018/ヴィヴァルディ 「スターバト・マーテル」「ディキシット・ドミヌス」ミシェル・コルボ


Vivaldi, Stabat Mater, Dixit Dominus A Double Choeur
La Musique Sacrée Vol. 5
Michel Corboz
Naoko Ihara
Solistes, Choeur Symphonique & Orchestre De La Fondation Glubenkian De Lisbonne
Erato, STU 71018
1977


ヴィヴァルディのスターバト・マーテル。嘆きと悲しみの曲としては、古今東西これほどのものがあるかというぐらいのものとなっている。ヴィヴァルディらしく単純な構成となっているが、それが聴くものに直接訴えかけるものがある。
しかし、このスターバト・マーテルという形式は本当にマリアの嘆きを表現したものなのかといつも疑ってしまう。ペルゴレージ、ドヴォルザークなど多くの作曲家がスターバト・マーテルを作曲しているが、どれとっても宗教音楽ではなく世俗音楽に聞こえてくる。ティツィアーノ・スカルパ『スターバト・マーテル』(河出書房新社)という小説がある。手元にすでにないが朧気ながら覚えているのは、孤児院で過ごす少女の目線で描かれたこの小説が、まさにこの曲を通奏低音となしてることだ。ヴィヴァルディ自体の生涯はよくわかっていないらしいので、この小説自体創作ではあるのだけれど、あと内容もきちんと覚えていないのだけれども、情景は忘れられない。少女の嘆きと重なってしまう。
このミシェル・コルボの録音は、僕にとって、ヴィヴァルディのスターバト・マーテルの決定版の一つ。LPを見つけたので購入する。低音部がCDよりも響き、音の空間への広がりが優れている。伊原直子さんの太く陰影濃い歌声がこの曲の悲壮感を増している。

2018/04/17

ヨーロッパの福祉国家――福利厚生を勝ち取る

ヨーロッパの福祉国家――福利厚生を勝ち取る

ストックホルム、ワルシャワ
福祉とはさよならできない
これまで以上に拡大した福祉を提供することで、ポピュリストは選挙で勝ち続けている。いかに主流の党はこれに応えることができるのか。
Municipal Family Support Centreの中は寒くはない。だが、Choinskaはコートを着たままでいる。世界が敵であり続けている人であるかのようだ。ワルシャワから東へ90キロの街Siedlceでは、このセンターが公的サービスの主要な場所となっている。Choinska氏には5人の子供がいるが、夫もいないし、仕事もない。「彼女は子供たちに服をきちんと着させ、宿題をさせることに苦心しています。私たちは彼女たちが基本的な水準の生活を維持できるように毎週、人やって手助けしています。だから国が子供たちを親から引き離すことはしません。」こう語るのはこの施設の責任者であるAdam Kowalczykだ。
Choinskaはもう食費や賃料を心配をしていない。2016年に、ポピュリスト政党「法と正義」党(Pis, Law and Justice)率いるポーランド新政府は、「Family 500Plus」政策を導入し始めた。これは子供一人当たり500zlotys($148)の給付金を月々給付するものだが、第二子から受けられるようになっている。Choinskaのように貧しい親は、第一子にも適用されるため、月々2500zoltyにもなる給付金を受け取っている。ポーランドでは、この金額は税引き後の一家庭の収入中間値と近からずも遠からずといったところで、なおかつこの福祉政策は仕事をすることを義務としていない。
この政策はポーランドを福祉国家へと転換させている。ユーロ危機には給付金を配っているが、年間予算が350万zoltyから940万zoltyに上がった。世界銀行はこの政策が子供の著しい貧困(四人家族で月1500zolty以下と定めている)を割合11.9%から2.8%へと減少させたと見積もった。
500PlusはSiedlceのような土地では特に一般的だ。ポーランドの小さな町や村で生きる人々は、リベラル派であるはずの市民プラットフォーム党(Civic Platform)が与党であった前政権が自分たちを見下していると感じていた。過去20年以上にわたり、経済は急速に発展したが、不平等も広がり、貧困は農村地域ではさらに常態化していった。そのため、地方選挙ではPisが勝利した。500Plus政策はPisのカトリック的で、伝統的家族観にうまくあてはまるものだ。Pisに投票した人達は、二人ないし三人以上の子供を持っており、リベラル派ではない。そして、定期的に配される給付金は、お高くとまったワルシャワではなく、田舎で多くの得票数を獲得するのに一役買ったのだ。
はじめ、リベラルの政治家はこの政策を、国家予算をぶっ壊すものと見做していた。しかし、今では、この政策がどれほど人気があるかを見るにつけ、リベラル派もこれを自ら取り入れている。市民プラットフォーム党政権下で財務大臣をしいたJacek Rostowskiは、政策をお手頃なものだと語っている。GDPの約1.3%の費用がかかるが、一方では世界銀行の予想によると、ポーランドの経済は4%で成長している。
ポーランドの首相Mateusz Morawieckiは、一般的な考え方に従わないことを自負しており、「エリート」ではなく「普通のやつ」を優遇している。事実、子供給付金はスウェーデンやドイツ、オランダ、フランス、イギリスなどの豊かなヨーロッパの国では一般的である。ポーランドの500Plusは平均給与と比較すると寛大なものとなっている。しかし、ポーランドでは社会保護への国の全体的な支出はいまだGDPに対して20%程度で、EU諸国の平均である28%を大きく下回る。
歴史的に、福祉国家プログラムは中道左派(例えば北欧諸国やイギリスの労働党)、中道右派(フランスのGaullists、ドイツやイタリアのキリスト教民主党)によって導入されてきた。このような政党は、過激派が権力を奪取することのを防ぐために、福祉政策が導入された。しかし、ポーランドではポピュリスト右派が福祉を行う政党の役割をつかんだのだ。ポーランドだけではない。ハンガリーではナショナリストの政党Fidesz党、Viktor Orban首相はニューディール政策風の公的労働プログラムを始めた。フランスではMarine Le PenのNational FrontがEmmanuel Macron大統領の新自由主義に対抗して、正社員が享受してきた保護主義貿易を擁護している。オランダではGeert Wilderの自由党が健康保険の切り下げに対して政府を非難している。ドイツの右翼Alternativeは西と東で年金が不平等であることに対する怒りにつけこんでいる。一方で、ユーロ危機の際、オランダ労働党、フランス社会党、ドイツの社会民主党のような中道左派は福祉削減をしなければと考えていたが、近年の選挙で大敗を喫した。1990年代以来、受け入れられてきたヨーロッパの考え方は、戦後福祉国家がそのピークをが過ぎ去ってしまったというものだった。しかし選挙民は、こともあろうに福祉をさらに求めている。2014年と2016年の選挙戦で、EUに所属する4分の3の市民が「社会的平等と連帯」を社会への最優先事項として選んだのだ。ユーロ危機に辟易していた西ヨーロッパは不確実な未来に対し、防御措置を講じたいと考えている。怠慢漂う公共サービスをもつ東ヨーロッパは、西側が持っていると思っている安全保障のようなものを求めている。中道派が福祉国家を推進していたのやめると、ポピュリスト政党はその隙間を掬い上げ、そして選挙で勝ってしまった。一月の選挙では、Pis支持は44%だった。そしてその競争相手である市民プラットフォーム党と現代党(Modern)は、それぞれ15%と6%だった。

1980年代にさかのぼると、ヨーロッパの国では失業率が二桁にも上り、ぜいたくな福祉国家はその元凶と見做されていた。寛大な失業保険や病気休暇が働く意欲を労働者から削いでいて、公共支出は個人投資を締め出していると思われていた。労働者を解雇することを雇用者に制限させる法律で、雇用主は正社員を雇おうともしなかった。その結果が、Margaret Thatcherの規制緩和などの予算削減だった。スウェーデンでは公共支出は1993年のピークの34%から、その十年後には27%まで削減されていた。
しかし、1990年代の終わり、新たなアプローチが進展していた。それに先頭をきったのがデンマークとオランダだった。国家が提供する社会的保護と、雇用、解雇、契約の調整へのより自由することを組み合わせようとした「flexicurity」モデルだ。国はまた職業訓練や職業カウンセリングのような「積極的な労働市場政策」を繰り広げ、女性にフルタイムで働けるよう援助するデイケアに補助金をだし、さらに失業者に仕事を探すことを要求した。
スカンジナヴィア半島の国々は、政府を通して直接社会援助を提供したこともあり、素早くflexicurityを実行に移した。しかし、労働者の職を守ることにより依存してきたドイツやフランスは、なかなか難しかった。ドイツでは失業率は高いままで、Gerhard Schroderの社会民主党は2013年の初めになってようやくHartz改革を推し進めていく。この改革は若年年金や失業手当を削減し、賃金の低い職業(mini jobs)のカテゴリーを作り、失業者に職業調査プラグラムに参加することを求めた。一方でフランスは、1990年代半ばに始まったが、途切れ途切れであったが、自由化(規制緩和)の試みは左派が食い止めるか、骨抜きにしてしまった。フランスは二重の労働市場を維持していた。この市場の内部者は終身雇用契約、完全な福利厚生、そして解雇規制を持ち、短期契約である外部者は、何も持っていないのだ。スペイン、ポルトガル、ギリシャのような南ヨーロッパの国は、同様ながちがちに固められた労働市場に苦しんでいる。
2007年12月、ヨーロッパ委員会はflexicurityを経済政策で推奨した。次の年、世界金融危機が起こり、さらに続いて2010年にユーロ危機が起こる。flexicurityを採用していた国は、失業率は雇用が守られている国よりも早く上がってしまうが、危機はまた、救済措置を受けていたスペインやポルトガルのような国に労働市場をより柔軟にするように促した。これらの国の失業率は今ではイタリアよりも早く下落している。イタリアではMatteo Renze首相が当たり障りのない労働改革だけをしていた。
このことはフランスに焦点が当てられる。Macronの重要な仕事は労働市場をさらに北欧モデルに移行させることでフランス経済を復活させることだ。彼の最初の改革はすでにNational Assemblyに承認されているが、多くのフランス人は懐疑的だ。「我々の仕組みの中では終身雇用を得ることに集中しいる。だから年金や失業保険をうけることができるのです」とフランス政治科学院のBruno Palierは言う。「Flexicurityはフランスの考え方からはかなりかけ離れています」
Flexicurityの批判は強力な議論を巻き起こす。経済学者の中には、労働市場の改革がどれほどドイツの経済を回復させたのかに疑問をもっている。Hart改革は2005年から2009年の失業率を4ポイント下がった内の1.5%ポイントを占めるに過ぎない。ある研究では、特に中国のドイツ製品への需要の高まりとが要因だと示している。
また別の福祉国家に対する脅威は移民だ。ドイツ、フランス、スウェーデン、イギリス、そしてオランダでは、現在の海外生まれの住人は、アメリカのように伝統的に移民で構成されている国に匹敵するほどで、11%〜17%の範囲となっている。民族の多様性をもつ国は、普通では福祉にけちであると考えられている。2015年の移民危機以来、ムスリムへの民族憎悪が福祉国家政策についての議論の主題となっている。スウェーデン、オランダ、そしてドイツのポピュリスト政党は、「福祉優先主義」に従事しているが、ネイティヴよりも高い割合で補助金を受け取る難民を罵っている。
しかし、このような憎悪は福祉国家を支持するヨーロッパ人には影響しないだろう。事実、フランスのNational FrontやドイツのAfD、ポーランドのPiSなどなどは、社会へ補助金をばらまくことに対し熱烈な支持者だ。これらの政党は福祉国家ではなく移民を批判するために福祉優先主義の議論を活用するのだ。最近の研究では、ヨーロッパの85000に及ぶが、Gothenburg大学の政治学者、Bo RothsteinとNicholas Charronは、民族の多様性が補助金への支持を台無しにしているのではない、バカなガバナンスがそうしているのだと語る。市民が政府を信頼している国では、移民の存在は問題はない、というのもおそらくは市民は国がフリーライダーを防いでくれているという信念をもっているからだ。
2016年の大統領選挙の初めから、マクロンは経済の効率性と労働者の保護の取り組みのバランスを取るつもりであることを主張してきた。もし成功しないならば、最終的にはRenziのように改革の失敗者のようになり、ル・ペン女史や左派のジャン・リュック・メルコンのような人物に自らの地位を明け渡すことになる。彼等の福祉国家の考え方は労働市場をよりと閉まることを約束するものだ。そしてフランス政府が持ちもしない金を使おうとしている。フランスはすでにGDPの31.5%を社会保護に費やしていて、OECDの中では最も高く、スウェーデンのピーク時に近い。5月、イタリアのFive Star Movementの選挙での勝利は同じようなえ影響があるだろう。
PiSについて、福祉政策の長期にわたる達成できることに懸念はあまりないように見せている。ポーランド人が急速に高齢化していても、PiSは退職の年齢を男性では67歳から65歳へ、女性では60歳にした。このことは大勢の移民や低い出生率国で苦しんでいる国で、年金受給者と労働者の比率をさらに悪化させるものだ。しかし、誤った方向性でも、このような動きは一般的である。もしリベラル政党が独自の代替案を考え出すことができないなら、ポピュリストはすべての人に福祉を約束することで、より多くのヨーロッパの国で選挙に勝ち、ついには権力を握ることだろう。
**********************
The economistの記事。リベラルへの対抗として、リベラルな政策を右派勢力が実行するってのは、ある意味日本と同じだ。安倍政権は極右政党でもないし、極端な主義主張をしているわけでもないが、まあ保守ではある。日本の場合はリベラル政党があまりにもノータリンなので、本来リベラル派がすべき政策を自民党がやっているというバカな状況。日本のリベラルとか左派はなぜここまで落ちぶれてしまったのか。日本だけでなくアメリカ、ヨーロッパでも同じような傾向があるというのも面白い。
しかしポーランドも偉いもんで、決して豊かな国ではないのに、福祉を充実させようとしている。日本では、人口の規模が違うとか、フリーライダーがいるからとかで批判されるし。フリーライダー問題は海外でも同様に福祉拡大に反対する人々が使うものなのだね。
**********************

2018/04/04

Schubert, Symphony No. 9 C Major (Great), Josef Krips The Concertgebouw Orchestra Of Amsterdam


Schubert, Symphony No. 9 C Major (Great)
Josef Krips
The Concertgebouw Orchestra Of Amsterdam
Decca ‎LXT 2719
1959

安くてモノラルなので購入。僕はシューベルトはほとんど聞かないがこの曲だけは、何度聴いたかわからない。アマチュアリズムの極地にあるのがこの交響曲だ。ハ長調で単純で明快。ブラームスやブルックナー、チャイコフスキーのように深刻ぶっていない。ラストなんてこっちが恥ずかしくなるぐらいに洗練されていない終わり方だ。だけども、この芋臭さがたまらなく良く、旋律もその芋臭さとあいまって歌いたくなってしまう明快さと単純さがある。
ジョセフ・クリプスは1902年のウィーンに生まれている。世紀末ウィーン文化の後の世代だ。二十代から四十代にかけて世界大戦が繰り広げられ、荒廃していくウィーンで生きていたことになる。
全体的に緩急の付け方が心地よい。そして端正に演奏されている。荒廃したウィーンで、在りし日々への憧れのようなものが聞こえてくる。クリプス自身は全盛期のウィーンを知らないが、憧れはあっただろうと思う。現代の指揮者のように派手さもなく個性的でもない。言ってしまえばオーソドックスなのだが、強調されすぎた個性よりも何倍も素晴らしい演奏だ。強調や誇張もなく、慎ましく美しく音楽が鳴っている。

2018/04/01

‎Amadeus Quartett, Streichquartette D-Moll KV 421 Und C-Dur KV 465, Deutsche Grammophon, 139 190 SLPM


Streichquartette D-Moll KV 421 Und C-Dur KV 465
Deutsche Grammophon, 139 190 SLPM
Amadeus Quartett
Viol – Peter Schidlof
Violin – Norbert Brainin, Siegmund Nissel
Cello – Martin Lovett

モーツァルト、ハイドン・セットの中の15番と19番「不協和音」の二曲。500円という結構安めの価格でレコード店で売っていたので買った。盤の状態はNear Mintと言っても問題ない。いい買い物でした。前に違う都内のレコード店で見た時は1000円以上だったのを覚えていて、その時は、まあいつかまた安いのに出会うだろうと考えて、買わなかったが、ようやく巡り合うことができた。
アマデウス四重奏楽団ならではの甘美さが聞き所。よく言われるように緻密さよりも、ロマン性を求めた演奏。時代を感じさせる演奏だが、アナログには合う。不思議なもので50年代、60年代の演奏がCDで復刻されて、いくつか購入したことがあるが、どれもつまらなかった。名演と言われてもつまらなかった。しかしアナログで聴くとこれが違う。CDにはないものが味わえる。「音がいい」というのは、「clear」だとか「vivide」とかいう意味では必ずしもないのだと思い出させてくれる一枚。
ぼくは19番「不協和音」が大好きで、何がいいって、第一楽章、モーツァルトらしからぬ簡潔な不協和音の導入が終わると、一気にいつものモーツァルトが始まる。展開が早く、一つの主題が終わると次の主題へと進み、そしてまた次の展開部に入り、そしてまた初めに戻ってくるこの一連の曲の運びを、にやにやしながら聴いてしまう。感動とか感銘とかそんなつまらないものではない。小気味よく、軽やかに進むモーツァルトの音楽の面白さが詰まっている曲の一つだ。まあこのハイドン・セットはどれも素晴らしいものばかりで、モーツァルトといったら、ハイドン・セットとぼくは考えている。

2018/02/10

Mozart, Piano Concertos 21&22, Wilhelm Kempff

Mozart, Piano Concertos = Klavierkonzerte Nos. 21&22
Wilhelm Kempff
Symphonie-Orchester Des Bayerischen Rundfunks, Bernhard Klee
Deutsche Grammophon, 2531 372

ぼくがモーツァルトを聴くきっかけになった演奏。はじめてモーツァルトがいいと思った。第一楽章の疾走感に心地よさを得て、モーツァルトのよさの勘所を得たわけです。それまではモーツァルトの曲をイージー・リスニングのようなBGMのような存在としてましたが、そういうものではない、ここには音楽の喜びがあることを知ったわけです。現代人だとどうしても短調の曲が好まれてしまうが、モーツァルトの真骨頂は長調にあると心から今なら言える。
第一楽章の急な単調への移調。そしてオーケストラとピアノが絡み合い、駆け抜けるように繰り広げられていき、ケンプのまさにケンプらしいカデンツァ、第二楽章の、またケンプのケンプらしい穏やかな音の運び、そして第三楽章、コンパクトにまとめ上げて、ロマン派がやるような無駄に大げさなものにならず、古典派を代表するような軽やかさ、なんとも言えないわけでした。
この後、ぼくはCDでアンドラーシュ・シフや内田光子、ブランデルなどを聴いたのですが、今のところケンプが一番と思う。


2018/01/30

ヒマラヤ山脈が隔てる二つの国――インドの外交政策

ヒマラヤ山脈が隔てる二つの国――インドの外交政策


12月の初め、中国の外務大臣Wang Yiは、国際関係に影響を与える領土問題を中国は容認しないと語った。デリーでさらに中国は徐々に別のより外交的ではない方法で、明らかにするつもりであることを述べていた。すなわち実際に中国が容認しないと述べていることは、インドの影響力の範囲のことだ。
世界で最も高い山脈でアジアから切り離されているため、インドはインド亜大陸で超大国となっている。これまでずっと敵対してきたパキスタンはおいておいて、アメリカがカリブ海諸国でしているような仕方で、小さな隣国にあたりまえのように影響力を行使してきた。インドの周辺諸国は時に融通のきかないインドに不満と怒りを露わにしてきたが、インドのやり方に関わらないことも学んできた。しかし、ここ最近、急激に進出している中国がインドの支配力に挑んでいる。
ここ数週を見てみよう。12月9日、スリランカは南岸にある戦略上要となる港を中国政府が主導する会社に99年間貸すことになった。同じ週にネパールでは2つの共産党が一緒になって議会選挙で圧勝した。この共産党はインドとは距離をとり中国とより親密な関係をもとうと働きかけてきたのだ。11月の後半には、反対派なしで国会が慌ただしく「緊急事態」として集められた後に、南アジアでパキスタンに次いで二番目で、モルディブは中国と自由貿易協定を承認した。毎年およそ6万隻の船が往き来する貿易ルートに位置し、インド洋にある海抜0メーターに近い島嶼群国家であるモルディブもまた島を中国の会社に貸し、さらに大規模インフラ事業をまた別の中国の会社に委託した。
アメリカのシンクタンク、Brookings InstitutionのTanvi Madenは、インドが以前から従来の影響範囲についての困難に直面していた、と述べている。しかし以前と違うのは、中国が向かってくる規模と速さだという。例えば2011年、モルディブの首都であるマレには中国の大使館はなかった。しかし2014年中国の指導者としては初めて習近平がモルディブを訪問し、その後、軍事、外交、経済の関係が休息に強くなった。亡命した前大統領Mohamed Nasheedは、現在のモルディブの債務の75%を中国が握っていると推計している。
モルディブの中国との自由貿易の協定の後、インドの外務大臣はただ冷たく、「親密な隣人として、モルディブが、「インド・ファースト」政策に従いながら、我々の懸念にきっと理解を示すと期待している」と述べた。しかし、インドの影響力を認める取り組みを再び宣言するのではなく、モルディブ政府は突然、前もって了承を得ることをせずにインド大使を会合をしたかどで、地方議員を更迭した。昔であればモルディブという人口40万人程度の国が13億人もいるインドをあけすけに無視したり無下にしたりしなかっただろう。インドの首相であるナレンドラ・モディは、厳しい選挙戦のなか地元であるグジャラート州で辛くも勝利を収めたが、モディの選挙綱領の中の一つが強行な外交政策であることを考えれば、このモルディブの侮辱行為はいっそう際立っている。
ネパールでも、中国の進撃は素早い。1950年代にはすでにネパールの支配層は、インドとの関係を一辺倒にしないように中国に援助を求めた。当時インドは内陸国であるネパールへのほぼ交通手段を牛耳っており、なおかつ王家に民主主義を認めさせようとしていた。the Carnegie Endowment for international PeaceのConstantino Xavierは次のように言っている。「しかし、ネパールを操るのに必要なのは、数箱のウイスキーだけで十分だったのです。」(訳者メモ:さて、このウイスキーで何を表現しているのか。さっぱりわからない)
それから数十日後、再度ネパール王が中国に援助を請いに行くと、インドは18ヶ月に及ぶ経済封鎖を行なった。それは言ってしまえば、ネパール王に北の隣国中国と親しくしないように迫ることだけでなく、複数政党による選挙を認めさせるようにすることだった。ネパール共産党(マオイスト政党)は、2008年に短期間だが10年に及ぶ内戦の後に政権を担うが、中国へ援助を求めに行っても、何も成果がなく手ぶらで帰ってきた。「山は二つに分けられる、と中国から言われたのです。言い換えればネパールはインドの支配下と考えられていたはずです。」とXavier氏は言う。
今や共和制となったネパールは、2015年に新たな憲法を制定した。インドではこの憲法は国境に沿っている低地の地域にとって不公平だと考えていて、再び強硬策を明らかにした。(訳者メモ:この低地の地域というのは、ネパール南部のマデシのこと。マデシはインドビハール州に近く、文化をみるとネパールであるよりインド文化圏にはいる。)しかし、新しい経済封鎖に直面してへこたれることなく、脅かされ、どうなるかもわからないネパール政府はそれでも意地を通した。独立を断固として主張するためにも、ネパール政府は中国といくつかの契約を結んだ。ちょうど選挙が終わった時、この政策はネパールの共産主義者にとって実にうまくことを運ばせた。共産党は中国に水力発電、道路、ネパール初の鉄道への投資を約束させた。この鉄道はカトマンズからインドへと走らせるのではない。山脈を越えて中国へと向かっているのだ。
ネパールのインドとの関係はかなり強いままだ。何十万ものネパール人がインドに出稼ぎにいっている。さらに最大の貿易相手国でもある。なおかつ歴史をみれば二つの国の軍隊は強い繋がりももっている。しかしインドは影響力を保つために単にこの遺産に頼っているだけであったが、一方中国は学問、シンクタンク、相互交流への投資に勤しんでいた。1960年代に遡ると、ネパールの使節が毛沢東に会ったことをXaiver氏は思い出す。「毛沢東は、ほんの50年後には、チベットからカトマンズまで鉄道が走り、中国はインドの支配力と肩を並べられるだろうと語ったのです。」
インドは中国の猛撃に直面しており、狼狽している。時には押し返して入るが、まさにそうなのだ。今年の夏、中国軍が急速な道路建設を阻止するために、インド軍は勢力圏にある小さな国であるブータンが領有権を主張する領土にやってきた(訳者メモ:インドのシッキム州に近いブータン西部のこと)。この介入は中国を阻止するものではなく、もう一つの隣国である中国とまだ外交関係を築いておらず、インドの援助に頼っている国や親しい同盟国との関係を試すものである。これは意図があったと思われる。中国はブータンと領土の交換によって領土問題の解決をはかろうと長い間ひっそりと議論してきた。インドにとって軍事的に脆く弱い場所で中国の勢力を強めることになるのではという不安から、インドではこの考え方を阻止してきた。
このような特定の争いでは、例えインドは力が及ばないにしても断固たる決意をもち、中国と肩をならべているようだ。インドの外交政策の立案者たちは中国との関係で他の弱さによく気がついていて、その弱点に取り組むために懸命に動いてきた。これまでまさに悠然と険しいヒマラヤ山脈に壁ような役割をもたせることに頼っていた。さらには中国の侵入する際に使うかもしれないため、道路建設を意図的にしてこなかった。それが変わったのである。インドは中国の急激に増す国境沿いのインフラ整備に追いつこうと猛烈な勢いで取り組んでいる。
しかし勢力圏を維持することは、難しい仕事だ。インドの経済力が中国の15分の1でしかなく、ごちゃごちゃした民主政治は政策実行を遅らせるが、このような事実を別にしても、要である組織上の制限に苦しんでいる。外交部全体では専門職がちょうど770人を数えるが、例えばアメリカでがおよそ13500人が外交職員がおり、比較しても少ない。隣国への援助が不効率な公共部門を通すために貧弱なものとなり、難しいものとなっている。そしてここ最近まで、中国の膨張に同様に懸念を抱いている他の国と一緒に問題に対処することを避けてきた。しかしこれら全てが変わってきている。巨大な像のような存在であるインドは覚えが悪いのかもしれないが、政府を動かすは困難である。
******************
The Economist December 23の記事。中国の急成長著しく、深センなどの発展は感動的なものだ。一党独裁で他民族国家でもあるのだが、中国の利点は、インドのように複雑な宗教やエスニシティがこんがらがっていないところであり、また地域で文化や言語は異なるが、長い歴史の中で共有できるものを多く持っている点だろう。中国はある程度アイデンティティを作り上げるのに成功したのだと思う。
東アジアではアイデンティティの統一しやすい歴史をもっているのかもしれない。羽田正氏が『東アジアとインド』で述べているが、江戸幕府、明、清、李氏朝鮮は「鎖国」を行っていた。国あり方が、インドや中東とは根本的に異なっていた。「鎖国」が一種の国民国家を醸成したようだ。
インドを見ていると民主主義というものが、その国の発展を阻止しているようにしか見えないのも事実だ。人は中国が一党独裁であることを安易に批判するが、インドと比較すると中国の方が、偶然一党独裁になったにすぎないが、優れているかもしれない。
*******************

2018/01/10

『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』刈部直 新潮社

序章 「諸文明の衝突?」から四半世紀
ハンチントンの「文明の衝突」。冷戦以後の構図予想。儒学文明とイスラーム文明が結託し西洋文明に対抗すると予測。
「文明」の曖昧さ。
普遍性はないから、諸文明の中で行われていることは、その文明の中で処理すべきであり、例えばアメリカは東アジアや中東で政治的な介入はすべきではない、仮に非人道的な戦争が起こっていたとしても。
イグナティエフは、普遍的善悪を想定し、この倫理に反することがあれば積極的に介入すべきとする。
和魂洋才の罠。文物は西洋から、精神は伝統から、という見方は紋切型すぎる。事実、幕末維新の時代の知識人は西欧の哲学、思想にあこがれていた。
民衆不在の罠。貧しき人民は政府が行う文明開化を押し付けられていたと、戦後マルクス主義歴史学ではいう。しかし実際は、当時の民衆は文明開化を楽しんでいたし、十分適応していた。
「濃厚な道徳とミニマムな道徳との関係は、概念を広げれば、「文明開化」の時代、…群衆にもあてはめることができるだろう。彼らは、それが西洋という先進地域の産物だから崇拝したのではない。徳川時代に生き、その慣習のなかで培われた価値観に基づいて、鉄道や西洋建築が優れたものだと評価したのである。」37
つまり幕末維新の時代、近代西洋の思想は特に奇異ではなく、理解し共感できるものだった。

第一章「維新」と「革命」
「維新」は英語でrestoration で、復古主義を想起させる。イギリス史やフランス史では、この単語を「王政復古」を表す。
維新の由来について。『詩経』の「大雅」に収められている詩「文王」に由来。「周は旧邦なりと雖も、其の命、維れ新たなり」
文王は実際には王にはならず、武王が王になるが、その意味でも、王朝交代の意味を革命のようなものとは違うニュアンスで表現されており、なおかつ革命的な変革の意味もあらわされている。さらにこの「維新」には「惟神」、つまり「かむながらのみち」をも含意されているという。

第二章 ロング・リヴォルーション
二つの俗論。「勤王党」の思想が「維新」を導いたとする「古流なる歴史家」と「外交の一挙」すなわちアメリカのペリー艦隊をはじめとする西洋諸国からの圧迫を原因とみなす「或る一派の歴史家」。
江戸時代を中期へと向かう間に、商人や庄屋名主が力を蓄えていき、学問を身につけていく。儒学による為政者批判が作られていく。江戸時代の身分制とは、藩にもよるがそれほど強固な観念ではない。「学問・思想の面で「社会の大変革」が徳川時代の後半に着々と進行していた」69 「もしも「代朝革命」の目的だけが「維新革命:を導いたならば、新政府が版籍奉還や徴兵制施行を通じて、武士身分の解体にまで「社会的な変革」を進めることはなかっただろう」70  この論法はマルクス主義歴史学が用いたものである。しかし、福沢諭吉も『文明論之概略』で、門閥に縛られ、才能を発揮できない鬱屈が爆発し、維新革命を起こったと説いているところ、明治維新が黒船だけで説明できぬものがあるのは確か。

第三章 逆転する歴史
「文明」「半開」「野蛮」。19世紀に世界像は、この三つを論じざるを得ず、福澤諭吉もこの構図を採用していた。アジアでみられる多くの恥ずべき因習を厳しく批判することは、現代の多文化主義の時代からは考えられないことだが。福澤は進化、進歩を疑っていなかった。故に福澤は儒学に対して手厳し批判を続けた。儒学が古代では通用したが進歩した現代では通用しない、通用するのは西洋の諸学であるとする。
荻生徂徠は儒学を徹底的に統治のための学問としている。先王たちが長い年月をかけて作り上げてきた礼楽刑政を「道」とし、そこにこそ人類普遍の秩序があるとする見方だ。徂徠はこの古代中国の制度を理想とみなし、現代の状況に照らし合わせながら、その時代にあった治世を実現するべきであると説く。この古に範をとるのを尚古主義と呼ぶ。
この徂徠に影響を受けていた西周は、まさに儒学の言葉を使いながら、カントの「永遠平和」を語る。カントの「永遠平和」は、まさに遠い未来の理想を掲げたものであり、それは徂徠のみていた古代に理想を求めていた姿勢と変わらない。西周はカントの思想を徂徠と矛盾させることなく咀嚼していた。

第四章 大阪のヴォルテール
江戸時代は、大阪を中心にしたネットワークが出来上がり、経済社会を確立していった。このネットワークが工業を導入の定着を促進していた。経済的に潤っていた大阪では、富を学問に向けられ、懐徳堂のような学問所が設立される。日本は、朝鮮や中国とは異なり、朱子学はあくまで学問であり、科挙を通じて官僚となるためのものではなかった。当時、官僚は武士であり、身分によって固定されていた。つまり朱子学は当初、民間の私塾で広がり後年になってから政府公認の塾が開かれるようになる。そして、学問をするものは貴賤を問わないとしていた。
富永中基(1715年~1746年)は、孔子が生きた周王朝の衰退期に、当時の実力があった五覇の統治を批判するために堯、舜、文王、武王を理想化して論陣を張ったことを批判する。古に理想を求めること、自らの説を正当化することを「加上」と呼ぶ。仏教や儒学は、国柄や場所がかなり異なるものであり、日本にはそぐわない。神道は古に範を見出そうとするが、あまりに昔すぎるので習俗や慣習が異なる。そんなものは参考にならないと説いた。
このような一種の進歩主義は、やはち経済発展があたればこそのもの。

第五章 商業は悪か
なぜ農民は貧しいといった固定観念がうまれたのか。
水谷三公『江戸の夢』を参照に、公儀の命令による治水工事などを免れるために、飢饉を偽って報告していたりしていたという。また、反商業の立場により農民の生活に同情を寄せる目もある。
熊澤蕃山。岡山藩に仕えた儒者。上古は足ることを知る無欲な時代と想定し、それを現実世界に適用した人物。金銀の流通量を最小限にして、日用品を大名家が直接管理し、商工の勢力を強制的に奪う。武士たちも農業を行い、質素な自給自足社会ができあがる。毛主義ではなかいか。ただこの反商業は、儒学の前提でもある。利益拡大だけを追求するのは倫理にもとる。調和を求める利でなければならい。つまりは商業活動はやはり悪ではあるが、だからと言ってそれを排除したくない、だからそれを正当化できる理由を求めていた。
西川如見『町人嚢』では、貴賤の差別を否定していて、誰でも学問を通じて貴くなれるという。そして自律した市場での商業活動、競争を肯定し、この富を増やすことこそが、天地を調和へと導くという。
八代将軍吉宗の時代、徂徠の助言のものと緊縮財政が敷かれる。この背景には、農村からの人口流入、道徳の頽廃、武士階級の没落などがある。商人の勃興によって、立場が逆転してしまった時代でもあった。そこで自給自足型、現物流通へと舵を切るべきと徂徠は言う。徂徠の弟子、太宰春臺も『経済録』で基本的には商業活動を抑制すべきとするが、「今」では金銀が流通している状況なのだから、それに適応すべきとする。

第六章 「経済」の時代
吉宗の時代にキリスト教関係以外の漢書洋書の輸出が解禁になった。
山片蟠桃(1748年~1821年)は自らを儒者と位置付けていているが、儒学や神道などを批判している。『夢ノ代』で、古事記や日本書紀にみられる怪異を妄信として批判する。彼の論理の根幹にあるのは、当時ようやく日本で読まれるようになった西洋天文学だった。彼も古代の統治の方法を現代に持ち込むことを良しとはしわなかった。また経済についても、統制経済などもってのほかとして、自由主義経済を謳う。山片の場合、「経済」という言葉は、経世済民の意味よりも現代的な意味あいが強くなっている。海保青陵なども武士が金銭を卑しむ風を批判したりしていた。この時代、経済は発展していき、ロシアからは通商を求められるなど時代は、単なる古代の思想を求めるだけでは足りないところにきていたようだ。

第七章 本居宣長、もう一つの顔
宣長も単純な商業批判をしない。彼自身、商人の家の子でもあり、また商業が多くの富をもたらすことを認めているが、宣長の批判は、商業が発展することで富をどこまでも求めようとする心ではなく、統治者が華美を自制する姿勢を見せるべきであるとする。たとえ緊縮を唱えようとも自由を謳歌する商人はそれに従わないのだから、統治者が自ら見本となるべきとする。賄賂もそうで、贈る側も贈られる側も喜んでそれをする。善悪を論じても意味がない。「ありのまゝ」の心の動きを表現することは、他者理解となる。「物のあはれを知る」とはそういうことだという。

第八章 新たな宇宙観と「勢」
山片蟠桃同様に本居宣長も西洋天文学を高く評価していた。だから宣長は仏教の宇宙論を手厳しく批判していた。服部中庸の『三大考』では、西洋天文学かすると荒唐無稽なものだが、地球の自転などについて、知識を持ったうえで書かれている書物であった。
山片は西洋の天文学を学んだが、その興味は暦法や天体運動の予測に限るものであり、宇宙創造の始めと終わりや、無限と有限といった問題は「不測」として扱わなかった。逆に宣長や中庸はそこに踏み込んでいった。それが天皇を中心とした宇宙論ではあったが。

第九章 「勢」が動かす歴史
頼山陽に『日本政記』によると、日本の歴史において、封建・郡県・封建と変遷しており、おの変化は「勢」によって説明される。そしてこの図式が多くに影響を与えた。逸話が紹介されていて、伊藤博文は頼山陽を好み、この図式の後に再び郡県が実施を考えていたようだ。

*****************
儒教が武士階級ではなく商人から需要がはじまったというのは、なかなかおもしろい指摘だった。明治維新が突発的あものではなく、江戸300年間で培ってきた思想的背景が西洋思想の需要を促し、西洋思想を異質なものとしてではなく、当時すでにあった価値観から見て評価しうるものだると判断したからこそ積極的受容していった、というのものなかなかおもしろい。現代でもそうだけど、異文化を受容する際、自らの文化背景をもって判断を下すもので、全く異質で理解不能なものものは受け付けることはできないものだ。そういったところから見ても、幕末明治の知識人が西洋の哲学思想をどう見ていたのかを考える際に、短絡的に憧憬のみを語ることや当時の人々の「なんて斬新なんだ」のような驚愕を誇張して語ることは、いかがなものなのかと考えさせる内容だった。 

2018/01/08

クープランのルソン・ド・テネブル François Couperin Trois Leçons De Ténèbres

François Couperin
Trois Leçons De Ténèbres • Motet Pour Le Jour De Pâques
Judith Nelson
Emma Kirkby
Jane Ryan
Christopher Hogwood
L'Oiseau-Lyre , DSLO 536, 1978




少し前、クープランの「ルソン・ド・テネブル」のレコードを発見する。聴いたこともなかったのだが、380円で売っていたから買ったのだけれど、これがなかなかすばらしい。
この曲についていろいろと調べたかったのだが、日本語ではあまりよい情報がないため、ライナーノーツを訳す。なんとまあ訳しにくい英語だこと。英文の画像も貼り付けておく。今回、この曲と出会っていろいろと勉強になった。英語版のWikipediaなんかでは下記を参考にできた。英語版しかないのが残念だけれども。
Leçons de ténèbres:
Canonical hours:
Martins:

この曲は非常に静かな曲で、修道院で流れていたらさぞかし雰囲気があるものだろうなあと思う。非常にカトリック的といってもいいかもしれない。18世紀初期にはまだこのような曲が作曲されていたのだなあと思う。
しかし、なぜエレミア哀歌をテキストに採用しているのかがいまいちよくわからない。イエスの死から復活までの三日間を、なぜエルサレムの荒廃への嘆きとだぶらせているのだろうか。

**********************
「頭や体、足で拍子をとることは下品なことだ。一つの対象をじっと見続けたり、ぼんやりと眺めたりせずに、人はハープシコードの前で安らぎという気品を持つべきだ。他のものに夢中になっていないかのように、仮に何か対象があっても、集まった仲間たちを見なさい。難しい顔をすることについて、スピネット(小型のチェンバロ)やハープシコードの譜面台の上に鏡を置くことで、この習慣を自らやめさせることもできよう。」
これはフランソワ・クープランのL'Art de toucher Le Clavecin(1717)の冒頭からのもので、この助言には単なる演奏指導以上により広い重要なことがある。ここに含意された節度と抑制という考え方は、クープランの音楽に溶け込んでいて、教会のために作られ、今も残る彼の音楽を支配している。ジョン・ホーキンス(1719−1789、作家)の『歴史(General History)』に書かれているようなコレッリの行動は、クープランには当てはまらない。
「彼(コレッリ)がヴァイオリンを弾いている間、いつも顔は悶え、目は炎のように輝き、眉は苦痛で歪んでいるかのようだ」
コレッリの演奏は優美さでも有名であるため、おそらくこの報告は少しは詩的誇張がある。というのもヘンデルがイタリアに滞在した際に、彼はコレッリがあまりに抑えた演奏をしていたので、ある激しさをもつパッセージをどのように演奏してほしいかを自ら示さねばならなかったほどだからだ。平静さを保ちつつ、この偉大なるヴァイオリニストは次のように答えた。「親愛なるサクソン人、この音楽はフランススタイルだ。私は知らないのだよ」
フランス・スタイルとイタリア・スタイルの違いは、グルックとピッチンニやブラームスとワーグナーの論争が後の世代にとってそうであるように、ルイ14世の治世の間、多くの議論の動機であった。「Paralleles des Italiens et des Rransois' (1705) でラグネットは次のように書いている。
「イタリア人が私達の音楽を退屈で無感覚にさせるものであると考えていることに不思議ではない。彼等の感覚からすれば、 一本調子で味気ないものとみえるだろう。例え私達がフランスのアリアの性質を、イタリアのアリアと比較して考えたとしてもだ。アリアにおいてフランス人は、柔らかさ、安らぎ、流麗さ、そして統一性を目的とする。…しかしイタリア人は最も大胆なカデンツァや最も不規則な不協和音をあえて行おうとする。つまり、彼等のアリアは常軌を逸していて、彼等は世界のどの国で作曲されたものとも似せようとしない。…イタリア人は不快で異常なあらゆることをあえてする。そして冒険をする権利を持ち、成功すると確信している人々のようにそれを行うのだ。」
太陽王ルイ14世の周辺でフランス文化生活が変化して以来、王の趣向は非常に影響力があった。音楽はすべての芸術と同じように、「朕は国家なり」という言葉の延長にあった。その主な目的は、王政の栄光や王の趣味を反映することである。というのもの王の壮麗さに伴う単純な調べが尊ばれるべきだったのだ。
しかし18世紀初頭までに、太陽王の芸術への態度は変わってきた。彼の栄光は陰りをみせ、マントノン公爵夫人の影響下にあったからだ。ルイはヴェルサイユ宮殿の壮麗さに関心を失い、1680年前半に生活をし始めたパリから東に数マイル離れたつまらない宮殿からも遠く、小さいがより家庭的なマルリー宮殿へと心を移していった。シャルル・ルブランの絵画の英雄的なスタイルに代わって、より内省的で脆さがあるヴァトーが取って代わり、そしてたとえ王が壮麗さや儀式を愛することを決して全面的に放棄しなかったにしても、自らの壮麗さへの思いは減じていった。
王はもちろん王室の仕事を采配していて、同じように音楽の自らの選択で雇っていたことだろう。1693年、王はフランソワ・クープランをthe Chapell Royaleで四人のオルガニストの一人に任命した。彼等の役割は音楽を提供するだけでなく演奏指導も行い、そしてたとえ時代が変わってもChapelleは完全な栄光を保持することである。音楽家の総数は、88人の歌手が2つにわかれ別々に活動し、19人の楽器奏者から成っていた。荘厳ミサは日々行われ、2つの大きなモテットを含んでいた。一つ目は約15分間続くが、この2つのモテットはきまってソリスト、合唱、オルガン、オーケストラのために作曲された。奉献式の間には、小さな編成で歌われる短いElevation(これは何?)も含んでいる。
18世紀前半の教会音楽のこの壮大なスタイルで最も賞賛された作曲家は、ミシェル・ドラランド(1657-1726)で、彼は1704年にthe Chapelle Royaleの音楽の運営指揮を完全に引き継いだ。25年後の彼の死後に特別に書いた大きなスケールのモテットのうちで42曲が王の費用で出版がなされた。
クープランの今も残る教会音楽とは完全に対照をなす。事実、全ての音楽がソロのために作曲されており、ときに小さな編成で、ガンバとオルガンを組み入れたアンサンブルを伴っていた。ドラランドと比べて、彼の音楽は小さなものだったが、しかしそれは驚くほどの緊張感があり、ウィルフレッド・ミュラーが「親しみ深い精神性、感情の純粋さ、そして好奇心」と呼ぶものが表現されている。この三つのルソン・デ・テネブルはクープランが生涯で出版した唯一の教会音楽である。これは彼を雇っていた王家のために書いたのでなく、女子修道院のために作曲された。そしてこの曲は、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(1636-1704)がポート・ロイヤルの修道女のために9つで一組の曲を作曲したことをもとにしている。さらにイタリアの作曲であるカリッシミのイタリア・オペラの伝統を受け継いでいる。クープランのメリスマ的な声部(シラブルの対語。一つの音節に複数の音符をあてること)と和声的な書法が、いわばパリの娯楽作品とは全く異なるフランス・スタイルのもつ雅さ、柔らかさなどの特徴と融合しているのである。
このTenebleの務めは、もちろんそのために書かれているのだが、聖週間の最後の三日の朝課(Martins)と賛課(Lauds)に行われる。第二回バチカン公会議の時代までには、公の典礼の一部であることを終えてしまったのだが、たしかに最近までは非常に重要で意義あるものであった。この務めの歌が歌われる時、それは前夜に行われるものだった。Tenebleの名前はおそらくこの務めが執り行われるに従い広がる闇について言っているものだ。この務めの殆どの時間、唯一の光は三角形の枠に上にある15本のロウソクからのみで、各詩篇と聖書の朗読(lesson)の終わりに一つ一つ消されていき、最後に詩篇50、ミゼレーレ(詩篇51)、キリストの地獄への下降の歌と共に、完全な闇の中で終了する。それぞれの日、三つの聖書からの引用(lesson)が読まれるのだが、クープランの場合最初の一日目の一連の音楽だけが現在残っている。(初版への前書きで、もし望まれるならば、完成させると言っている。また「L'art de toucher」の第二版(1717)では続きを作曲しているため忙しいと述べている。しかし残りのものは出版もされず、草稿すら発見されていない。)
詩は予言者エレミアの哀歌(ラメント)からとられている。まずインキピット(Incipit、ラテン語で「ここより始まる」の意味)で始まり、クープランは伝統に従い、ヘブライ語のアルファベットを置いている。これらアルファベットは大いなる悲痛さ、哀歌を表現するかたちで各連の前に置かれている。各務め(lesson)は聖なる都市の民に向けられたキリストの言葉「エルサレムよ、主の下に立ち返れ(jerusalem convertere ad dominum deum tuum)」で終わる。このラテン語のテキストは数多くの「小休止(petittes pauses)」で区切りをつけられている。そしてクープランは、フランス・バロック音楽ではあまり使われない緊張のあるアリオーソ・レチタティーヴォが持つイタリア風の叙情性のパッセージを挟み込ませることで、多様性をもたらしている。凝った声部の装飾音は、全て注意深く音が配置されており(all carefully notated)、当時の慣習をみても、もはや純粋に装飾的ではなく音楽を構築させている要素(structual)で、多くの装飾音が不協和音やパトスに付されている。全体を通して、全てに慎みがある。それはクープランが深く大切にしていたものである。ここにイタリアスタイルとフランススタイルの2つがまさに統一されている。
最初の2つのルソンはソロのために書かれていいて、三番目が二重唱とこの二重唱が生み出すextra scope(意味が全くわからない)が、徐々に教会を暗闇へと包まれるその場にふさわしい(correct)儀式の中で、劇的に音楽の効果を高めることだろう。人は予想するように、豊かな言葉や絵画性、多くの象徴がある。しかし決して少しの過剰にならない。クープランがこのような感動的で、音楽的、劇的な終わり方を作り出すために採ったこの古典的な平衡感覚は驚くべきものである。
「復活祭のためのモテット」の素晴らしさは対照的である。Chapelle Royaleの曲であったが、今ではちょとした教材になっている。しかしながら、生き生きとしたこの2つの声部の音の連なりは喜びを表現するのに威勢のよさは必要条件ではないことを表している。高音のソプラノのパートは、キリストの復活や霊魂の再生(spiritual rebirth)のキリストの言葉を讃えることと織り交ぜ、寄り添い進んでいく。非常に細かく規律正しくあるために、テネブルに劣らず生き生きと宗教的な情熱を伴っている。
*************************






2018/01/04

漁場や生態系をもっと知ろう gone fishing

gone fishing

by Richard Conniff

Scientific America, November 2017 の記事の要約。


放流は多くの納税者が好む数少ない政府の政策の一つだ。水路への魚の放流は釣り師にとってノーマン・ロックウェルの絵のように昔から魅力がある。ちょっと助けてやれば、どんな湖も川も、どこにでもいる子供が(または大人が)、釣り糸を放ることができて、まさに夕飯のおかずを釣り上げるかもしれない、そんな場所になると思われている。
放流はまた年に257億ドルに値する娯楽のための釣りの経済効果の根幹をもなしている。孵化場から地方の湖に未熟な魚をもっていくことは、1800年後半から政府の政策であった。そして1950年台からは、何千という規模で空輸され遠く離れたあらゆる湖に放流されていっている。
しかし無差別の放流は次第に環境にしてきたこれまで中で愚かしいこととのようにみえる。というのも放たれた魚はもともと居た種に取って代わることがあるからだ。
もちろん放流が脅威にさらされていた種を立ち直らせるのに役立つこともある。しかし現在まで孵化場や放流もまた、川や湖を発展のために犠牲にすることを容易にしていた。例えばダム建設で、鮭や鱒への負の影響があると思われるが、孵化場を作るからとごまかされる。結果取り返しのつかないところまで破壊されてしまう。そして次第に気づくのだ、孵化場の魚はなく、野生の魚ではないとだめなことを。
国や州、釣り師たちは放流について再考をし始めていて、場合によってはこの破滅的な影響を和らげようとしている。例えば外来種を釣り放題にしたりとか。
この放流による不作為の影響への懸念は、当初からいろいろと問題になっていた(have been around)。17世紀のヨーロッパで再び放流するために、稚魚を飼育する試みが始まった。そしてこれは北アメリカへ、水路で魚が取り尽くされていくにしたがって、伝わっていった。ロバート・ルーズベルト(叔父はセオドア)が議会に放流をけしかけ、減少していく漁場や荒れ果てた水路を回復させるべく農業の潜在性の調査を行う。そして大陸横断鉄道にカワマスを西から東へと持っていった。1910年早くも影響が出始める。11本かそれ以上の体重で、地方の釣り師たちが好んで釣っていたイエロースロートマス(yellowfin cutthroat trout すげー名前)が、ニジマスとんぽ交配やその他の釣り向けの魚たちとの競争のなか、消え去ってしまったのだ。あまりに多くを取りすぎてしまったこととともに、同じような要因でギンマスは釣り尽くされ、1885年に新種として初めて紹介されたが、1939年には絶滅したと考えられている。とんでもないことだが、1950年オレゴン州は故意的にミラーレイクヤツメウナギを毒でもって大量死させた。なぜならこのヤツメウナギが外来種のマスを餌にしていたからなのだ。1989年の研究によると、外来種は20世紀を通して北アメリカの20位上の魚の絶滅の要因として示唆されている。そして絶滅の割合は21世紀に入ってもなお25%まで上がり続けているようだ。
これは北アメリカだけで起こっていることでなく全世界的な問題なのだ。シエラネバダのキングキャニオン国立公園では、高所にある湖でこれまで見たこともないニジマスやカワマスが放流させれ、それらが固有種であるカエルがオタマジャクシのときに食べられてしまうというのだ。そしてこのような外来種が全体の生態系を壊していく。例えばガータスネークはイエローレッグカエルを食べて生きているが、外来種の魚がこのカエルを食べてしまい、カエル不足に陥ったり、フィンチはカゲロウを食べているが、外来の魚がカゲロウをたべてしまったりといった感じだ。
だがカルフォルニア魚及び野生生物事務局は放流についていかなる変更をも拒絶していた。というのもの放流が良いこととして認識されているからだ。また放流は釣りや猟のライセンス料によって行われていたこともある。今では放流は多くの湖では行うことをやめ、固有種の放流へ移行してきている。
「適切な数で、適切な時期に、適切な場所で、適切な種を活用する、これが生態系でベネフィットと効果を得られるのである。他の州の人がきいたら驚くだろう。そしていづれ我々に追いつくかもしれない。
しかし、釣り師にとっては受け入れがたいものがあるだろう。カルフォルニアが放流をやめることを公にした際、San Francisco chronicleのアウトドアに関するコラムで、「人はそれぞれ、好きな湖を持っている。どの湖で放流をやめるかは問題ではない。怒らせてしまった。地方の釣り師の考えは釣りたいところで釣り続けたいということ。変化を受け入れる自然保護の観点を持っている釣り師は、その他の9000ある湖のどれかに行けばいいと言うかもしれない。」大切なのは、政府が彼らに理解してもらい変化に対応してもらうように機会を設けることだ。といってもこの動きは非常にのろい。
固有種の復活は、早い。イタリアのアルプスにあるグラン・パラディーゾ国立公園の湖では、カワマスを取り除いたら、死に絶えたと思っていた無脊椎動物が繁栄を突然謳歌した。「残っていた卵」が再び孵ったのだ。人間は淡水に生きる種に殺虫剤から気候変動まで多くの影響を与えている。両生類は3600万年前からいて、生き残っている。もし私達が障害を除いてあげさえすれば、これらの種に生きつづける機会を与えることができるのだ。

******************
要約という割にはかなりの分量を訳してしまった。
『外来種は本当にあるものか?』(フレッド・ピアス著、草思社)なんか興味深かった。この本は、「外来種の侵入を防ぐことは完全にできないし、果たしてそれ自体適切なことかどうかなんて誰にも答えられない。エコロジストに対して一番納得がいかないことは、生態系を静的なものとして見ていることだ。なぜもっとダイナミックなシステムだと見ようとしないのか。外来種が入ってたっていいじゃない。固有種がなくなってもいいじゃない。そもそも地球の歴史ってそういうもんでしょ。生態系が崩れるとかなんとかいうが、そんなものエコロジストの頭のなかにある仮想の生態系にしかすぎないだろう。」といった感じ。
おそらくこのScientific Americanの記事を書いている人、それほど外来種を悪者にしていないかもしれない。この本を読んで、他の文献をあさってわかったことがある。それはエコロジストや環境保護を主張するメディア(例えばナショジオ)と、生態学者や生物学者では考え方に根本的な違いがあること。外来種は本来的には悪者ではない。それは多くの学者が共通認識として持っているようで、では外来種が悪者になる時はいつか。それは人間が環境を利用する上で邪魔な存在になるときだいうこと。要するにだ、害虫・害獣になっては困る。外来種が日本の生態系に溶け込めても、それによって蒙る被害によって、外来種の善悪が決まる。まあ善悪なんて別に生物学者は決めてかかっていないけれども、あくまで人間社会にとってどうなのかといった部分で善悪を評価すればだけど。そして生物多様性が重要なのは、エコロジストが主張するような地球愛ではなく、人間と環境との関係で考えて言っていることだ。
ピアスの著作は、主にエコロジスト批判の書であり、実際の生物学者の多様な考えを紹介しているわけでないので、一見すると生物学にたいする偏見や誤解を助長しかねない部分もあるが、まあエコロジーに食傷気味な人にとっては溜飲を下げる本であることは確か。
今回の記事では、あくまで放流によってカワマスやニジマスが生態系を変えてしまった、ということまでしか書かれていないのが残念。ナショジオなんかでもそうなんだが、それが人間社会とどう関係してくるのかを書かない。この記事だけ読むと釣りを楽しんで、釣った魚を食べて幸せでいいじゃないと思ってしまう。エコロジーの話になるとなぜこうも記事の質が落ちるものなのかね。それはナショジオもそうだ。日本もメディアは軒並みバカなので「エコ」しか言わないし。
******************
gone fishing はイディオムなんだが、訳しにくい。現実を見ない人、夢想家、現実の忙しさから逃れてのんびりしている人、みたいな意味だが、記事では釣りと絡めている部分があり、まあ難しい。

2018/01/02

ヒンドゥー教とは何か Defining Hinduism

Defining Hinuism 'The Economist' September 23RD-29TH 2017

Sect drive 宗派の争い

中世の詩人はが現代インドで最も強い政党にとって頭痛の種を蒔いている。
午後の祈りに招集され、8500名の学生が花崗岩でできた台地の陰に建てられている巨大なアーケードにそって、長蛇の列の中、足を引きずりながら歩いている。裸足で、おのおの白いルンギー、赤の肩掛けの布を身に着け、そして額には横一直線に三つの灰をつけている。大きな岩に書かれているスローガンは彼等に次のことを思い出させる。「励むことが祈りであるWork is worship」や「一人の神が異なる名を持つ」だ。これらは12世紀に生きた哲学者で行政官であったBasavaからの引用だ。
ITの集積場であるバンガロールから約70kg離れたSiddaganda mutt(修道院)で教える聖人は、シヴァ神とBasavaを崇めており、Basavaは一神教とでもあった。これが彼等をリンガーヤット(Lingayat)たらしめている。しかし、彼等はヒンドゥー教でもあるのだろうか。
この宗派はヒンドゥー教の特徴を多く持っているが、社会正義に異常なまでにこだわっている。最も尊敬されている信徒は、修道院(mutt)の長であるShcakumara Swamiで御年110歳である。ほとんどの時間をシッダガンガ(Sidaganga)にある花崗岩でできた寺院の医務室のベッドで横たわって生活している。しかし、彼は「歩く聖者」で知られており、かつては人生を人里離れた地への旅に費やし、説教をし、貧者の代弁者として施しをせがんでいた。
9月10日、尊師と彼の指名した後継者が、リンガーヤットであり国民会議派(Congress party)でもある地方政府のM.B. patilの訪問を受けた。Patil氏は、この偉大な預言者がリンガーヤットがヒンドゥー教とは異なり、独自の宗教であると宣言されるはずだということにParil氏に同意していたと言って去っていた。同じ日の夜、ヒンドゥーナショナリストのインドの首相ナレンドラ・モディの所属するインド人民党(Bharatiya Janata Party)の公使が、そのような判断を控えるように説得した。以来、絶え間なく続く政治家による巡礼の旅が行われている。双方の代表者は、すべてリンガーヤットなのだが、静かにSwamiの刻一刻と迫っているその瞬間を待ちわびている。(翻訳がうまくいかないのだが、要するにだ、国民会議派とインド人民党の議員たちが尊師に会いにいっていて、争奪戦がはじまっているということだ)
ヒンドゥー教はこれといって明確な宗教ではなく、多くの派閥、宗派がある。一つの宗派が独自の信仰をもつその時を、文化人類学者は見たいと思っている。(直訳:ある分派が独自の信仰になるのはいつなのかという疑問は文化人類学者を忙しいままにさせる。)関係のない人にとっては大して問題にはならない。しかし、リンガーヤットはカルナータカ州(Karnataka)の人口の17%を占めていて、そこにSiddagangaがあり、2018年早々に選挙がある。この州は、近年の国中でのBJPの一連の勝利の後も、国民会議派(Congress)によって掌握されている最後の州なのである。
数十年間、ほとんどのリンガーヤットはBJPへ組織票として投票してきた。カルナータカ州では、この政党をB.S. Yeddyurappaが主導していて、彼はリンガーヤットで2008年から2011年までのスキャンダルを起こしていた政府を先頭に立って指揮をしていた。しかしコミュニティは今ではバラバラになったようで、いくつかの修道院(mutt)はマイノリティ宗教としての立場やヒンドゥー教の中で一つカーストとして数えられることを要求している。8月にはヒンドゥー教ではない宗教の集まりがあり、20万人の行進者を促した。
モディ政権の唯一つの法令は公にリンガーヤティズムを単なる宗派から一つの宗教に格上げすることだろう。しかしBJPの政治理念はヒンドゥーナショナリズムであり、ヒンドゥー教の連帯を損なう些細などんなことも政党が反対することを義務付けている。汚れきった選挙戦もまた大切だ。BJPは、懐疑派や南インドの州出身の最も低いカーストから選挙戦を勝ち取ろうと必死だ。彼等はヒンディー語を話す北部の人たちを文化帝国主義と非難していて、国政を押さえ込もうとしている。一方で国民会議派はカルナータカ州のBJP支持者の間の分裂から明らかに利益を得ているのだ。
ヒンドゥー教の多くの改革運動のように、リンガーヤットはカースト制度の中で異なった存在だ(つんとしている)。同様の衝動が仏教、ジャイナ教、シーク教を含むインドを起源とする宗教の発展を支えている。Basavaは、虚栄心と富から生まれたあらゆる繋がりを放棄するように信仰者に求めている。信仰の探求者、S.M. Jaamdarは、Basavaをマーティン・ルターに、そしてBasavaの詩をカトリックを根本的に改革することを求めたルター95か条の論題になぞっている。「もっとも、200年先に書かれているがね。」と言っている。リンガーヤットのきわめて異端的な社会正義への献身は断続的な脅威にさらされていると言う。別の学者の言葉を引用すれば、「ヒンドゥー教は海であり、リンガーヤットは島である。海は島を侵食するものだ。
このような考えが暴力的な激情を呼び起こす。Jaamdar氏の考えを同じに持つ同僚である、M.M. Kalburgi氏は2015年に銃弾に倒れた。別の十字軍犠牲者でリンガーヤットであるジャーナリストのGauri Lankeshは8月にリンガーヤティズムははっきりと異なった信仰であると考えるべきと論じた論集を出版したが、その後一ヶ月もしないで暗殺されてしまった。
Kankesh氏もまた無神論者で実直な左翼であった。彼女の見方は自らの敵をいたるところで作り出していた。殺人を起こさせる動機についての理論なんてものはいくつもある。しかしBasavaやヒンドゥー教の意味について議論することはもはや学問ではない。Siddagangaの歩く神は、インド独立後、最初の選挙が行われたときにはすでに中年の聖人で、現在の政府が自分の信仰をどのように分類するかを気にしていないかもしれない。しかし彼の若い弟子たちは被選挙権を持つものとして彼等の前には長いキャリアが待っている。

**************
とまあ、訳してみたけれどよくわからない。今回も誤訳が多いことでしょう。リンガーヤットってなんだかよくわからないが、記事から察するにヒンドゥー教の改革集団のことか。Wikipediaから少し書き出すと以下。残念ながら日本語版無し。英語版では結構長くて訳すのが面倒。
リンガーヤットはシヴァ派の一派で12世紀にBasavaという哲学者で行政官であった者が創り広めた。リンガヤーティズムは一神教であり、シヴァ神への献身を説く。Veerashaivismとも呼ばれる。南インド、特にカルナータカ州で多い。
Basavaはブラフミーが行う祭祀や寺院での礼拝を否定し、小さなリンガを通してシヴァ神への直接、個人的に祈ることをよしとした。記事でも宗教改革者ルターの名前がでているように、Basavaはルターよりも早い時期に宗教改革を成し遂げた人物として知られているようだ。
Basavaは性別や社会的差別を否定した。性別に関係なくシヴァ神のリンガやシヴァ派(Ishtalinga)の首飾りを付けることを許している。男女区別なく、経済的基盤なども関係なく、全ての者が精神的な話題や世俗的な話題を話し合えることを奨励した。
神学がどのようなものかなど、Wikipediaには書いてあるが、ちょっとよくわからないとこともあるし、あまり深入りするとすごいことになりそうだからやめておく。ただこのリンガーヤットがヒンドゥー教の一派なのか、それとも全く別の宗教なのかということについて、Wikipediaで項目をたてて、しかも今訳したThe Economistの記事を紹介もしている。
まあそもそもヒンドゥー教をヒンドゥー教と一括りにする事自体が無理があるだろう。日本だって、天理教や大本教などは、現在では神道の亜種の扱いを受けているが、そもそも国家神道なるものへの反逆として起こったルサンチマンの宗教だ。神道っぽいけど神道かといわれたら違うでしょ。創価学会は仏教だけれども仏教ではないかもしれない。宗派が違えば、すでにそれは信じる宗教が違うと考えてもいいとは思う。
ヒンドゥー教自体が、そもそも体系があるものではないし、一緒くたにしていいものではないだろう。「ヒンドゥー教」という名称自体、イギリス植民地時代に命名されたもので、いわゆるイギリス人が「発見」したものだ。各地方で信仰されているアニミズムを総称として使ったものが、いつのまにかナショナリズムを刺激するところまで来ているっていうんだから、なかなか興味深い。まあ日本の神道も同じ道を歩んできたのだけれども。
****************