2018/01/04

漁場や生態系をもっと知ろう gone fishing

gone fishing

by Richard Conniff

Scientific America, November 2017 の記事の要約。


放流は多くの納税者が好む数少ない政府の政策の一つだ。水路への魚の放流は釣り師にとってノーマン・ロックウェルの絵のように昔から魅力がある。ちょっと助けてやれば、どんな湖も川も、どこにでもいる子供が(または大人が)、釣り糸を放ることができて、まさに夕飯のおかずを釣り上げるかもしれない、そんな場所になると思われている。
放流はまた年に257億ドルに値する娯楽のための釣りの経済効果の根幹をもなしている。孵化場から地方の湖に未熟な魚をもっていくことは、1800年後半から政府の政策であった。そして1950年台からは、何千という規模で空輸され遠く離れたあらゆる湖に放流されていっている。
しかし無差別の放流は次第に環境にしてきたこれまで中で愚かしいこととのようにみえる。というのも放たれた魚はもともと居た種に取って代わることがあるからだ。
もちろん放流が脅威にさらされていた種を立ち直らせるのに役立つこともある。しかし現在まで孵化場や放流もまた、川や湖を発展のために犠牲にすることを容易にしていた。例えばダム建設で、鮭や鱒への負の影響があると思われるが、孵化場を作るからとごまかされる。結果取り返しのつかないところまで破壊されてしまう。そして次第に気づくのだ、孵化場の魚はなく、野生の魚ではないとだめなことを。
国や州、釣り師たちは放流について再考をし始めていて、場合によってはこの破滅的な影響を和らげようとしている。例えば外来種を釣り放題にしたりとか。
この放流による不作為の影響への懸念は、当初からいろいろと問題になっていた(have been around)。17世紀のヨーロッパで再び放流するために、稚魚を飼育する試みが始まった。そしてこれは北アメリカへ、水路で魚が取り尽くされていくにしたがって、伝わっていった。ロバート・ルーズベルト(叔父はセオドア)が議会に放流をけしかけ、減少していく漁場や荒れ果てた水路を回復させるべく農業の潜在性の調査を行う。そして大陸横断鉄道にカワマスを西から東へと持っていった。1910年早くも影響が出始める。11本かそれ以上の体重で、地方の釣り師たちが好んで釣っていたイエロースロートマス(yellowfin cutthroat trout すげー名前)が、ニジマスとんぽ交配やその他の釣り向けの魚たちとの競争のなか、消え去ってしまったのだ。あまりに多くを取りすぎてしまったこととともに、同じような要因でギンマスは釣り尽くされ、1885年に新種として初めて紹介されたが、1939年には絶滅したと考えられている。とんでもないことだが、1950年オレゴン州は故意的にミラーレイクヤツメウナギを毒でもって大量死させた。なぜならこのヤツメウナギが外来種のマスを餌にしていたからなのだ。1989年の研究によると、外来種は20世紀を通して北アメリカの20位上の魚の絶滅の要因として示唆されている。そして絶滅の割合は21世紀に入ってもなお25%まで上がり続けているようだ。
これは北アメリカだけで起こっていることでなく全世界的な問題なのだ。シエラネバダのキングキャニオン国立公園では、高所にある湖でこれまで見たこともないニジマスやカワマスが放流させれ、それらが固有種であるカエルがオタマジャクシのときに食べられてしまうというのだ。そしてこのような外来種が全体の生態系を壊していく。例えばガータスネークはイエローレッグカエルを食べて生きているが、外来種の魚がこのカエルを食べてしまい、カエル不足に陥ったり、フィンチはカゲロウを食べているが、外来の魚がカゲロウをたべてしまったりといった感じだ。
だがカルフォルニア魚及び野生生物事務局は放流についていかなる変更をも拒絶していた。というのもの放流が良いこととして認識されているからだ。また放流は釣りや猟のライセンス料によって行われていたこともある。今では放流は多くの湖では行うことをやめ、固有種の放流へ移行してきている。
「適切な数で、適切な時期に、適切な場所で、適切な種を活用する、これが生態系でベネフィットと効果を得られるのである。他の州の人がきいたら驚くだろう。そしていづれ我々に追いつくかもしれない。
しかし、釣り師にとっては受け入れがたいものがあるだろう。カルフォルニアが放流をやめることを公にした際、San Francisco chronicleのアウトドアに関するコラムで、「人はそれぞれ、好きな湖を持っている。どの湖で放流をやめるかは問題ではない。怒らせてしまった。地方の釣り師の考えは釣りたいところで釣り続けたいということ。変化を受け入れる自然保護の観点を持っている釣り師は、その他の9000ある湖のどれかに行けばいいと言うかもしれない。」大切なのは、政府が彼らに理解してもらい変化に対応してもらうように機会を設けることだ。といってもこの動きは非常にのろい。
固有種の復活は、早い。イタリアのアルプスにあるグラン・パラディーゾ国立公園の湖では、カワマスを取り除いたら、死に絶えたと思っていた無脊椎動物が繁栄を突然謳歌した。「残っていた卵」が再び孵ったのだ。人間は淡水に生きる種に殺虫剤から気候変動まで多くの影響を与えている。両生類は3600万年前からいて、生き残っている。もし私達が障害を除いてあげさえすれば、これらの種に生きつづける機会を与えることができるのだ。

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要約という割にはかなりの分量を訳してしまった。
『外来種は本当にあるものか?』(フレッド・ピアス著、草思社)なんか興味深かった。この本は、「外来種の侵入を防ぐことは完全にできないし、果たしてそれ自体適切なことかどうかなんて誰にも答えられない。エコロジストに対して一番納得がいかないことは、生態系を静的なものとして見ていることだ。なぜもっとダイナミックなシステムだと見ようとしないのか。外来種が入ってたっていいじゃない。固有種がなくなってもいいじゃない。そもそも地球の歴史ってそういうもんでしょ。生態系が崩れるとかなんとかいうが、そんなものエコロジストの頭のなかにある仮想の生態系にしかすぎないだろう。」といった感じ。
おそらくこのScientific Americanの記事を書いている人、それほど外来種を悪者にしていないかもしれない。この本を読んで、他の文献をあさってわかったことがある。それはエコロジストや環境保護を主張するメディア(例えばナショジオ)と、生態学者や生物学者では考え方に根本的な違いがあること。外来種は本来的には悪者ではない。それは多くの学者が共通認識として持っているようで、では外来種が悪者になる時はいつか。それは人間が環境を利用する上で邪魔な存在になるときだいうこと。要するにだ、害虫・害獣になっては困る。外来種が日本の生態系に溶け込めても、それによって蒙る被害によって、外来種の善悪が決まる。まあ善悪なんて別に生物学者は決めてかかっていないけれども、あくまで人間社会にとってどうなのかといった部分で善悪を評価すればだけど。そして生物多様性が重要なのは、エコロジストが主張するような地球愛ではなく、人間と環境との関係で考えて言っていることだ。
ピアスの著作は、主にエコロジスト批判の書であり、実際の生物学者の多様な考えを紹介しているわけでないので、一見すると生物学にたいする偏見や誤解を助長しかねない部分もあるが、まあエコロジーに食傷気味な人にとっては溜飲を下げる本であることは確か。
今回の記事では、あくまで放流によってカワマスやニジマスが生態系を変えてしまった、ということまでしか書かれていないのが残念。ナショジオなんかでもそうなんだが、それが人間社会とどう関係してくるのかを書かない。この記事だけ読むと釣りを楽しんで、釣った魚を食べて幸せでいいじゃないと思ってしまう。エコロジーの話になるとなぜこうも記事の質が落ちるものなのかね。それはナショジオもそうだ。日本もメディアは軒並みバカなので「エコ」しか言わないし。
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gone fishing はイディオムなんだが、訳しにくい。現実を見ない人、夢想家、現実の忙しさから逃れてのんびりしている人、みたいな意味だが、記事では釣りと絡めている部分があり、まあ難しい。

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