2018/01/30

ヒマラヤ山脈が隔てる二つの国――インドの外交政策

ヒマラヤ山脈が隔てる二つの国――インドの外交政策


12月の初め、中国の外務大臣Wang Yiは、国際関係に影響を与える領土問題を中国は容認しないと語った。デリーでさらに中国は徐々に別のより外交的ではない方法で、明らかにするつもりであることを述べていた。すなわち実際に中国が容認しないと述べていることは、インドの影響力の範囲のことだ。
世界で最も高い山脈でアジアから切り離されているため、インドはインド亜大陸で超大国となっている。これまでずっと敵対してきたパキスタンはおいておいて、アメリカがカリブ海諸国でしているような仕方で、小さな隣国にあたりまえのように影響力を行使してきた。インドの周辺諸国は時に融通のきかないインドに不満と怒りを露わにしてきたが、インドのやり方に関わらないことも学んできた。しかし、ここ最近、急激に進出している中国がインドの支配力に挑んでいる。
ここ数週を見てみよう。12月9日、スリランカは南岸にある戦略上要となる港を中国政府が主導する会社に99年間貸すことになった。同じ週にネパールでは2つの共産党が一緒になって議会選挙で圧勝した。この共産党はインドとは距離をとり中国とより親密な関係をもとうと働きかけてきたのだ。11月の後半には、反対派なしで国会が慌ただしく「緊急事態」として集められた後に、南アジアでパキスタンに次いで二番目で、モルディブは中国と自由貿易協定を承認した。毎年およそ6万隻の船が往き来する貿易ルートに位置し、インド洋にある海抜0メーターに近い島嶼群国家であるモルディブもまた島を中国の会社に貸し、さらに大規模インフラ事業をまた別の中国の会社に委託した。
アメリカのシンクタンク、Brookings InstitutionのTanvi Madenは、インドが以前から従来の影響範囲についての困難に直面していた、と述べている。しかし以前と違うのは、中国が向かってくる規模と速さだという。例えば2011年、モルディブの首都であるマレには中国の大使館はなかった。しかし2014年中国の指導者としては初めて習近平がモルディブを訪問し、その後、軍事、外交、経済の関係が休息に強くなった。亡命した前大統領Mohamed Nasheedは、現在のモルディブの債務の75%を中国が握っていると推計している。
モルディブの中国との自由貿易の協定の後、インドの外務大臣はただ冷たく、「親密な隣人として、モルディブが、「インド・ファースト」政策に従いながら、我々の懸念にきっと理解を示すと期待している」と述べた。しかし、インドの影響力を認める取り組みを再び宣言するのではなく、モルディブ政府は突然、前もって了承を得ることをせずにインド大使を会合をしたかどで、地方議員を更迭した。昔であればモルディブという人口40万人程度の国が13億人もいるインドをあけすけに無視したり無下にしたりしなかっただろう。インドの首相であるナレンドラ・モディは、厳しい選挙戦のなか地元であるグジャラート州で辛くも勝利を収めたが、モディの選挙綱領の中の一つが強行な外交政策であることを考えれば、このモルディブの侮辱行為はいっそう際立っている。
ネパールでも、中国の進撃は素早い。1950年代にはすでにネパールの支配層は、インドとの関係を一辺倒にしないように中国に援助を求めた。当時インドは内陸国であるネパールへのほぼ交通手段を牛耳っており、なおかつ王家に民主主義を認めさせようとしていた。the Carnegie Endowment for international PeaceのConstantino Xavierは次のように言っている。「しかし、ネパールを操るのに必要なのは、数箱のウイスキーだけで十分だったのです。」(訳者メモ:さて、このウイスキーで何を表現しているのか。さっぱりわからない)
それから数十日後、再度ネパール王が中国に援助を請いに行くと、インドは18ヶ月に及ぶ経済封鎖を行なった。それは言ってしまえば、ネパール王に北の隣国中国と親しくしないように迫ることだけでなく、複数政党による選挙を認めさせるようにすることだった。ネパール共産党(マオイスト政党)は、2008年に短期間だが10年に及ぶ内戦の後に政権を担うが、中国へ援助を求めに行っても、何も成果がなく手ぶらで帰ってきた。「山は二つに分けられる、と中国から言われたのです。言い換えればネパールはインドの支配下と考えられていたはずです。」とXavier氏は言う。
今や共和制となったネパールは、2015年に新たな憲法を制定した。インドではこの憲法は国境に沿っている低地の地域にとって不公平だと考えていて、再び強硬策を明らかにした。(訳者メモ:この低地の地域というのは、ネパール南部のマデシのこと。マデシはインドビハール州に近く、文化をみるとネパールであるよりインド文化圏にはいる。)しかし、新しい経済封鎖に直面してへこたれることなく、脅かされ、どうなるかもわからないネパール政府はそれでも意地を通した。独立を断固として主張するためにも、ネパール政府は中国といくつかの契約を結んだ。ちょうど選挙が終わった時、この政策はネパールの共産主義者にとって実にうまくことを運ばせた。共産党は中国に水力発電、道路、ネパール初の鉄道への投資を約束させた。この鉄道はカトマンズからインドへと走らせるのではない。山脈を越えて中国へと向かっているのだ。
ネパールのインドとの関係はかなり強いままだ。何十万ものネパール人がインドに出稼ぎにいっている。さらに最大の貿易相手国でもある。なおかつ歴史をみれば二つの国の軍隊は強い繋がりももっている。しかしインドは影響力を保つために単にこの遺産に頼っているだけであったが、一方中国は学問、シンクタンク、相互交流への投資に勤しんでいた。1960年代に遡ると、ネパールの使節が毛沢東に会ったことをXaiver氏は思い出す。「毛沢東は、ほんの50年後には、チベットからカトマンズまで鉄道が走り、中国はインドの支配力と肩を並べられるだろうと語ったのです。」
インドは中国の猛撃に直面しており、狼狽している。時には押し返して入るが、まさにそうなのだ。今年の夏、中国軍が急速な道路建設を阻止するために、インド軍は勢力圏にある小さな国であるブータンが領有権を主張する領土にやってきた(訳者メモ:インドのシッキム州に近いブータン西部のこと)。この介入は中国を阻止するものではなく、もう一つの隣国である中国とまだ外交関係を築いておらず、インドの援助に頼っている国や親しい同盟国との関係を試すものである。これは意図があったと思われる。中国はブータンと領土の交換によって領土問題の解決をはかろうと長い間ひっそりと議論してきた。インドにとって軍事的に脆く弱い場所で中国の勢力を強めることになるのではという不安から、インドではこの考え方を阻止してきた。
このような特定の争いでは、例えインドは力が及ばないにしても断固たる決意をもち、中国と肩をならべているようだ。インドの外交政策の立案者たちは中国との関係で他の弱さによく気がついていて、その弱点に取り組むために懸命に動いてきた。これまでまさに悠然と険しいヒマラヤ山脈に壁ような役割をもたせることに頼っていた。さらには中国の侵入する際に使うかもしれないため、道路建設を意図的にしてこなかった。それが変わったのである。インドは中国の急激に増す国境沿いのインフラ整備に追いつこうと猛烈な勢いで取り組んでいる。
しかし勢力圏を維持することは、難しい仕事だ。インドの経済力が中国の15分の1でしかなく、ごちゃごちゃした民主政治は政策実行を遅らせるが、このような事実を別にしても、要である組織上の制限に苦しんでいる。外交部全体では専門職がちょうど770人を数えるが、例えばアメリカでがおよそ13500人が外交職員がおり、比較しても少ない。隣国への援助が不効率な公共部門を通すために貧弱なものとなり、難しいものとなっている。そしてここ最近まで、中国の膨張に同様に懸念を抱いている他の国と一緒に問題に対処することを避けてきた。しかしこれら全てが変わってきている。巨大な像のような存在であるインドは覚えが悪いのかもしれないが、政府を動かすは困難である。
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The Economist December 23の記事。中国の急成長著しく、深センなどの発展は感動的なものだ。一党独裁で他民族国家でもあるのだが、中国の利点は、インドのように複雑な宗教やエスニシティがこんがらがっていないところであり、また地域で文化や言語は異なるが、長い歴史の中で共有できるものを多く持っている点だろう。中国はある程度アイデンティティを作り上げるのに成功したのだと思う。
東アジアではアイデンティティの統一しやすい歴史をもっているのかもしれない。羽田正氏が『東アジアとインド』で述べているが、江戸幕府、明、清、李氏朝鮮は「鎖国」を行っていた。国あり方が、インドや中東とは根本的に異なっていた。「鎖国」が一種の国民国家を醸成したようだ。
インドを見ていると民主主義というものが、その国の発展を阻止しているようにしか見えないのも事実だ。人は中国が一党独裁であることを安易に批判するが、インドと比較すると中国の方が、偶然一党独裁になったにすぎないが、優れているかもしれない。
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