2018/01/10

『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』刈部直 新潮社

序章 「諸文明の衝突?」から四半世紀
ハンチントンの「文明の衝突」。冷戦以後の構図予想。儒学文明とイスラーム文明が結託し西洋文明に対抗すると予測。
「文明」の曖昧さ。
普遍性はないから、諸文明の中で行われていることは、その文明の中で処理すべきであり、例えばアメリカは東アジアや中東で政治的な介入はすべきではない、仮に非人道的な戦争が起こっていたとしても。
イグナティエフは、普遍的善悪を想定し、この倫理に反することがあれば積極的に介入すべきとする。
和魂洋才の罠。文物は西洋から、精神は伝統から、という見方は紋切型すぎる。事実、幕末維新の時代の知識人は西欧の哲学、思想にあこがれていた。
民衆不在の罠。貧しき人民は政府が行う文明開化を押し付けられていたと、戦後マルクス主義歴史学ではいう。しかし実際は、当時の民衆は文明開化を楽しんでいたし、十分適応していた。
「濃厚な道徳とミニマムな道徳との関係は、概念を広げれば、「文明開化」の時代、…群衆にもあてはめることができるだろう。彼らは、それが西洋という先進地域の産物だから崇拝したのではない。徳川時代に生き、その慣習のなかで培われた価値観に基づいて、鉄道や西洋建築が優れたものだと評価したのである。」37
つまり幕末維新の時代、近代西洋の思想は特に奇異ではなく、理解し共感できるものだった。

第一章「維新」と「革命」
「維新」は英語でrestoration で、復古主義を想起させる。イギリス史やフランス史では、この単語を「王政復古」を表す。
維新の由来について。『詩経』の「大雅」に収められている詩「文王」に由来。「周は旧邦なりと雖も、其の命、維れ新たなり」
文王は実際には王にはならず、武王が王になるが、その意味でも、王朝交代の意味を革命のようなものとは違うニュアンスで表現されており、なおかつ革命的な変革の意味もあらわされている。さらにこの「維新」には「惟神」、つまり「かむながらのみち」をも含意されているという。

第二章 ロング・リヴォルーション
二つの俗論。「勤王党」の思想が「維新」を導いたとする「古流なる歴史家」と「外交の一挙」すなわちアメリカのペリー艦隊をはじめとする西洋諸国からの圧迫を原因とみなす「或る一派の歴史家」。
江戸時代を中期へと向かう間に、商人や庄屋名主が力を蓄えていき、学問を身につけていく。儒学による為政者批判が作られていく。江戸時代の身分制とは、藩にもよるがそれほど強固な観念ではない。「学問・思想の面で「社会の大変革」が徳川時代の後半に着々と進行していた」69 「もしも「代朝革命」の目的だけが「維新革命:を導いたならば、新政府が版籍奉還や徴兵制施行を通じて、武士身分の解体にまで「社会的な変革」を進めることはなかっただろう」70  この論法はマルクス主義歴史学が用いたものである。しかし、福沢諭吉も『文明論之概略』で、門閥に縛られ、才能を発揮できない鬱屈が爆発し、維新革命を起こったと説いているところ、明治維新が黒船だけで説明できぬものがあるのは確か。

第三章 逆転する歴史
「文明」「半開」「野蛮」。19世紀に世界像は、この三つを論じざるを得ず、福澤諭吉もこの構図を採用していた。アジアでみられる多くの恥ずべき因習を厳しく批判することは、現代の多文化主義の時代からは考えられないことだが。福澤は進化、進歩を疑っていなかった。故に福澤は儒学に対して手厳し批判を続けた。儒学が古代では通用したが進歩した現代では通用しない、通用するのは西洋の諸学であるとする。
荻生徂徠は儒学を徹底的に統治のための学問としている。先王たちが長い年月をかけて作り上げてきた礼楽刑政を「道」とし、そこにこそ人類普遍の秩序があるとする見方だ。徂徠はこの古代中国の制度を理想とみなし、現代の状況に照らし合わせながら、その時代にあった治世を実現するべきであると説く。この古に範をとるのを尚古主義と呼ぶ。
この徂徠に影響を受けていた西周は、まさに儒学の言葉を使いながら、カントの「永遠平和」を語る。カントの「永遠平和」は、まさに遠い未来の理想を掲げたものであり、それは徂徠のみていた古代に理想を求めていた姿勢と変わらない。西周はカントの思想を徂徠と矛盾させることなく咀嚼していた。

第四章 大阪のヴォルテール
江戸時代は、大阪を中心にしたネットワークが出来上がり、経済社会を確立していった。このネットワークが工業を導入の定着を促進していた。経済的に潤っていた大阪では、富を学問に向けられ、懐徳堂のような学問所が設立される。日本は、朝鮮や中国とは異なり、朱子学はあくまで学問であり、科挙を通じて官僚となるためのものではなかった。当時、官僚は武士であり、身分によって固定されていた。つまり朱子学は当初、民間の私塾で広がり後年になってから政府公認の塾が開かれるようになる。そして、学問をするものは貴賤を問わないとしていた。
富永中基(1715年~1746年)は、孔子が生きた周王朝の衰退期に、当時の実力があった五覇の統治を批判するために堯、舜、文王、武王を理想化して論陣を張ったことを批判する。古に理想を求めること、自らの説を正当化することを「加上」と呼ぶ。仏教や儒学は、国柄や場所がかなり異なるものであり、日本にはそぐわない。神道は古に範を見出そうとするが、あまりに昔すぎるので習俗や慣習が異なる。そんなものは参考にならないと説いた。
このような一種の進歩主義は、やはち経済発展があたればこそのもの。

第五章 商業は悪か
なぜ農民は貧しいといった固定観念がうまれたのか。
水谷三公『江戸の夢』を参照に、公儀の命令による治水工事などを免れるために、飢饉を偽って報告していたりしていたという。また、反商業の立場により農民の生活に同情を寄せる目もある。
熊澤蕃山。岡山藩に仕えた儒者。上古は足ることを知る無欲な時代と想定し、それを現実世界に適用した人物。金銀の流通量を最小限にして、日用品を大名家が直接管理し、商工の勢力を強制的に奪う。武士たちも農業を行い、質素な自給自足社会ができあがる。毛主義ではなかいか。ただこの反商業は、儒学の前提でもある。利益拡大だけを追求するのは倫理にもとる。調和を求める利でなければならい。つまりは商業活動はやはり悪ではあるが、だからと言ってそれを排除したくない、だからそれを正当化できる理由を求めていた。
西川如見『町人嚢』では、貴賤の差別を否定していて、誰でも学問を通じて貴くなれるという。そして自律した市場での商業活動、競争を肯定し、この富を増やすことこそが、天地を調和へと導くという。
八代将軍吉宗の時代、徂徠の助言のものと緊縮財政が敷かれる。この背景には、農村からの人口流入、道徳の頽廃、武士階級の没落などがある。商人の勃興によって、立場が逆転してしまった時代でもあった。そこで自給自足型、現物流通へと舵を切るべきと徂徠は言う。徂徠の弟子、太宰春臺も『経済録』で基本的には商業活動を抑制すべきとするが、「今」では金銀が流通している状況なのだから、それに適応すべきとする。

第六章 「経済」の時代
吉宗の時代にキリスト教関係以外の漢書洋書の輸出が解禁になった。
山片蟠桃(1748年~1821年)は自らを儒者と位置付けていているが、儒学や神道などを批判している。『夢ノ代』で、古事記や日本書紀にみられる怪異を妄信として批判する。彼の論理の根幹にあるのは、当時ようやく日本で読まれるようになった西洋天文学だった。彼も古代の統治の方法を現代に持ち込むことを良しとはしわなかった。また経済についても、統制経済などもってのほかとして、自由主義経済を謳う。山片の場合、「経済」という言葉は、経世済民の意味よりも現代的な意味あいが強くなっている。海保青陵なども武士が金銭を卑しむ風を批判したりしていた。この時代、経済は発展していき、ロシアからは通商を求められるなど時代は、単なる古代の思想を求めるだけでは足りないところにきていたようだ。

第七章 本居宣長、もう一つの顔
宣長も単純な商業批判をしない。彼自身、商人の家の子でもあり、また商業が多くの富をもたらすことを認めているが、宣長の批判は、商業が発展することで富をどこまでも求めようとする心ではなく、統治者が華美を自制する姿勢を見せるべきであるとする。たとえ緊縮を唱えようとも自由を謳歌する商人はそれに従わないのだから、統治者が自ら見本となるべきとする。賄賂もそうで、贈る側も贈られる側も喜んでそれをする。善悪を論じても意味がない。「ありのまゝ」の心の動きを表現することは、他者理解となる。「物のあはれを知る」とはそういうことだという。

第八章 新たな宇宙観と「勢」
山片蟠桃同様に本居宣長も西洋天文学を高く評価していた。だから宣長は仏教の宇宙論を手厳しく批判していた。服部中庸の『三大考』では、西洋天文学かすると荒唐無稽なものだが、地球の自転などについて、知識を持ったうえで書かれている書物であった。
山片は西洋の天文学を学んだが、その興味は暦法や天体運動の予測に限るものであり、宇宙創造の始めと終わりや、無限と有限といった問題は「不測」として扱わなかった。逆に宣長や中庸はそこに踏み込んでいった。それが天皇を中心とした宇宙論ではあったが。

第九章 「勢」が動かす歴史
頼山陽に『日本政記』によると、日本の歴史において、封建・郡県・封建と変遷しており、おの変化は「勢」によって説明される。そしてこの図式が多くに影響を与えた。逸話が紹介されていて、伊藤博文は頼山陽を好み、この図式の後に再び郡県が実施を考えていたようだ。

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儒教が武士階級ではなく商人から需要がはじまったというのは、なかなかおもしろい指摘だった。明治維新が突発的あものではなく、江戸300年間で培ってきた思想的背景が西洋思想の需要を促し、西洋思想を異質なものとしてではなく、当時すでにあった価値観から見て評価しうるものだると判断したからこそ積極的受容していった、というのものなかなかおもしろい。現代でもそうだけど、異文化を受容する際、自らの文化背景をもって判断を下すもので、全く異質で理解不能なものものは受け付けることはできないものだ。そういったところから見ても、幕末明治の知識人が西洋の哲学思想をどう見ていたのかを考える際に、短絡的に憧憬のみを語ることや当時の人々の「なんて斬新なんだ」のような驚愕を誇張して語ることは、いかがなものなのかと考えさせる内容だった。 

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