2019/10/17

北方謙三版「水滸伝十一 天地の章」

水滸伝十一 天地の章
樊瑞は死について考えているが、よくわからないまま過ごしていた。自分を痛めつけたりして答えを見出そうとするがわからない。公孫勝に崖の石の上にただ座ってみろと言われる。只管打坐か。すると、わからないことがわかった、とかいう。なんじゃそりゃ。そして致死軍に加わることとなる。
杜興は史進の副官となるが、なぜ李応の副官ではないのかと悩む。呼延灼との闘いで戦意を失いかけている兵たちをあずかり鍛え直す。杜興は兵をいじめぬくが杜興のやさしさがにじみ出ているようで兵から慕われるようになる。でも、兵を苛め、兵を見下すスタイルは変わらず、ちょい悪なかんじをだしていく。

ついに晁蓋が死ぬが、けっこう簡単に死んじゃいましたね。史文恭の毒矢にやられてしまう。
宋江と晁蓋との対立が激しくなっているようなんだけど、その内容と言うのが曖昧模糊としている。兵力三万か十万かといった程度の対立しかないし、その対立の場面があまり直接描かれないから、どんな言い争いをしているのかがよくわからない。
晁蓋が死ぬのは、読者に事前に知らされる。フラグがたつのだ。
晁蓋から宋江への手紙で、宋江に会って語り合いたい、みたいなことが書かれていて、ああ、こりゃ死ぬなとわかるわけです。
今回の11巻は、ちょっと中だるみがあるかな。たしかに晁蓋が死ぬという一大イベントがあるけど、全体的には話が進まずに、いつものように男たちの苦悩と美しさが描かれていく。げっふ。

あと蛇足だが、この小説の会話で、「わかるような気がする」というフレーズが幾度となく使われるが、食傷気味です。『花の慶次』では「だが、それがいい」という言葉が有名だけど、実際このセリフ自体はそんなに使われていなかったはず。手元に本がないから確認できないけど。
なんか端々で「わかるような気がする」的なセリフが横行しているため、かっこいいがインフレを起こし、価値がなくなっていっているような気がする。

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