2019/09/24

北方謙三版「水滸伝九 嵐翠の章」

水滸伝九 嵐翠の章

林冲は張藍が生きているというあやふやな話を聞き、祝家荘との決戦の前日に軍を抜け出す。が、それは青蓮寺の罠だった。途中で出会った索超と呂方に助けられるが、矢が肺にまで達しており、危ない状況だった。安全道と白勝の処置で助かるが、軍法会議で馬の糞を一年、掃除するという罰を受ける。
花栄は呉用に命じられて、梁山泊の南、開封府近くに塞を築くことになる。それは防御のためにも、宋を攻めるためにも必要なものだが、多くの兵を新しい塞に割くことにあり、人員の確保が急務となる。
秦明は、魯達と相談し楊令を王倫のもとに赴かせることを決断する。今生の別れにもなるかもしれず、公淑にとってもつらいものとなる。魯達は楊令をともない王倫のもとへ。そして楊令を預け、鮑旭と馬麟を梁山泊に入山されるために連れて帰る。
解珍は秦明の副官としてつくことになる。
とうとう盧俊義、柴進の塩の道が青蓮寺に崩されることになる。盧俊義と燕青は李袞のもとで匿われていた。李袞は農村の用心棒をやっていて、志がないわけではないが、曖昧な状況だったところ燕青に男になれと言われて梁山泊に入る決意をする。
楊戩の部隊三万が、花栄の新しい塞、流花塞にむかった。これを聞き晁蓋は、反対を押し切り自ら軍を率いることにする。宋江とは意見が合わなくなってきている。
しかし楊戩は陽動で、じつは双頭山が狙われていた。晁蓋はそれにはやく気づいたため、なんとかことなきをえる。
鄧飛と楊林は糞尿の汲み取りを高唐の城郭で行っていた。柴進と燕青を救うために。なんとか鄧飛は逃げ道を城壁につくるが、逃げている際に石組みが崩れて死んでしまう。鄧飛は、魯達を助けたときと同じように、柴進と燕青を助けるという不可能を可能にした、鄧飛は楊林に、この仕事がいかに自らの名を上げて、漢たちを助け漢として名が残るかを語った。

袁明には袁明の正義があり、梁山泊は梁山泊の正義がある。志と志の闘い。お互いの正義のぶつかり合い、利害のぶつかり合い、これこそ政治でしょう。政治の本質は理を通して事にあたることではなく、正義と利害の対立なのです。
この文庫版の解説は馳星周。この解説が、北方謙三の水滸伝の本質をついている。
「百八人全員が、志だの友だちだの生き様だの誇りだのを口にして滅んでいくのだ。……ひとり、ないし数人の男たちの物語ならまだ付き合える。北方健三の妄執に満ちた世界を斜に構えながら受け入れることはできる。しかし百八人だ。百八人の北方謙三もどきが、これでもか、これでもかと男の生き様、死に様を見せつける。百八人分のナルシシズムに翻弄されるのだ。」
破廉恥な自己陶酔、そしておそるべき自己中心主義、だと馳星周さんは書く。まさにそのとおりですよ。
さらに、この小説の弱さ、宋江について。馳星周さんは、「替天行道」の本文を書くべきだったといい、しかしこの内容もよくわからない「替天行道」を象徴であり、男の志なんて、北方謙三にとっての男の志は、しょせん象徴以外のなんでもない、という読みをする。そこに恐ろし北方謙三の妄執があるという。
そういえば、ボードリヤールの『象徴交換と死』を昔読んだ時、違和感があった。簡単に言えば、ボードリヤールは象徴という実態や有用性など価値がないものに人間は価値を見いだしていき、その代償に死を引き受けていく、という。労働というものが、基本的に悪として描かれた世界観で、なんだか悲しい気持ちになる内容だった。人間という概念をどう扱うかで答えが変わるのだけれど、ボードリヤールをはじめアーレントなんかも「人間」という概念を、非常に高尚な仮想的なものを想定していて、まあ哲学ですからいいけど、なんか微妙な感じだったわけです。
と、ここで馳星周さんの解説を読んで、そうだよね、人間、具体的な志なんかないし、それでも生きていかなければいけないし、そんななか踏ん張ってかっこよく生きるには象徴が必要なんだよね、と思った次第。

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