第一章 ふたつの記念碑
コロンブスのアメリカ大陸の「発見」は「均質新世(Homogenocene)」という時代を切りひらいた。グローバリゼーションとは経済の話だけでなく生物学的現象でもある。
ボリビア南部のポトシで、銀の採掘と精錬が行われ、ここのスペイン銀がヨーロッパだけでなく東アジア、とくに中国へと流れ込む。当時の中国でが絹などの織物や磁器など多くの輸出品があったが、ヨーロッパでは中国が欲しがる品がなかった。
一方、ヨーロッパでは銀で潤ったスペインが、ヨーロッパ諸国に戦争をしかけていった(八十年戦争、オスマンーハプスブルグ戦争、米西戦争などなど)。
銀が大量に供給されたためにインフレが生じ、物価が高騰する。それに加えて宗教的対立や階級間の対立が重なっていき、そして1550年ごろから1850年ごろまでつづいた小氷期「マウンダー極小期」が訪れる。
マウンダー極小期の原因としてウィリアム・F・ラディマン(W. F. Ruddiman)が提唱する説が紹介される。アメリカ大陸の先住民は定期鉄器に森を焼きはらってきた。害虫を殺し、農地を確保するために。そのことが草原が大森林に飲み込まれることを防いでいた。しかしコロンブス以降、疫病や殺戮によって原住民の人口は減少し、1000年以上続けられてきた森を焼き払うことがなくなってしまった。そのため急激に森林が復活していき、二酸化炭素を吸収していったという。そのため二酸化炭素濃度が下がり、急激な寒冷化となったという。ここでは太陽黒点の影響やフィリピンでの火山噴火の影響は小さいと主張する専門家がいることを述べている。
んーここのマウンダー極小期の原因については、かなり疑問点がある。二酸化炭素が何ppm増加すると何度気温があがるのかがよくわかっていない状況なんだと思うけど。現在は400ppmを越えたとかで一部で話題になったけれども、マウンダー極小期の二酸化炭素の濃度の増減はどれくらいの振れ幅なのだろうか。原住民を焼き畑をやらなくなって森林が復活したのはいいけど、それによってどれくらい二酸化炭素は減ったのか。減った分と気温が増えた分は、現在の二酸化炭素濃度の増加と気温の上昇分と一致するのかな。つまりは二酸化炭素の気候感度はどうなっているのか。なんとも言えないけど、眉唾な感じが、、、
第二章 タバコ海岸
アメリカの北部地域にはいなかったミミズがヨーロッパから持ち込まれる。ミミズというものは遠くに移動することがないらしい。ジョン・ロルフがジェームズタウンにミミズを持ち込んだかはさておき、ジェームズタウンはコロンブス交換の先駆けとなり、地球の生態系戦争を引き起こすことになる。
ジョン・スミスから語られる入植者の物語は、驚きに満ちている。そもそも僕はアメリカ大陸へのヨーロッパ人の入植の歴史に明るくないからでもあるのだが、入植団を送りこんではその半数以上、もしくはほぼ全員がマラリアや黄熱病で死に、もしくは飢餓で死ぬ。飢餓で死んでしまうというのも凄まじい。本書ではジェームズ川で豊富に魚をとることができるが、ポウハタンという先住民がジェームタウンの外で待ち受けたりして、食料が確保できなかったというのだ。つまり、入植者は先住民に対して圧倒的な武力を誇っていたわけではないということだ。
ヴァージニア会社は貴金属やワイン造り、絹織などの事業を試みるが、ことごとく失敗する。にもかかわらず、北米での事業を挑戦し続ける。著者はなぜ挑戦し続けたのかと問う。そしてポウハタンは入植者を叩き潰すことができたのに、それをしなかった。なぜなのか。その答えがコロンブス交換にあるという。
ポウハタンとの停戦によりジェームズタウンの入植者はタバコの生産を増やすことができた、チェサピーク湾をタバコ海岸とも呼ばれたとのこと。それほどタバコ生産が伸び、イングランドでは高価なスペイン人が持ち込むタバコに取って代わる勢いだったようだ。ジェームズタウンのタバコ生産が伸び、新たな入植者も増えたことで、ヴァージニア会社は遠いイングランドから彼等を統治することが困難であることを悟り、北米初で代議士を選出し会議を開くようになった(1619年)。そして、それから数週間たたないうちに海の向こうから黒人奴隷がやってくるようになる。ここにアメリカ合衆国の代表民主制度と動産奴隷制度がなる。
セイヨウミツバチが持ち込まれたことで、ヨーロッパ由来の植物が繁殖し、豚などの家畜も増えていった。それによって、武力でも食料や経済の面でも劣っていた移民たちの土地は知らない間に広まっていき、見慣れなかった土地の風景がヨーロッパの風景のようになっていった。
第三章 悪い空気
マラリアの章。ヴァージニアへの入植者は最初の一年順応(シーズニング)するまでは辛坊せねばならなかったようで、驚くべきは入植者のうち一年以内に三分の一が死んでしまっていたということだ。そのため各分野で労働力が不足していく。その解決策には、イングランドからのさらなる入植者、年季奉公人を雇うこと。もしくは奴隷を使うこと。当時イングランドは世界最大の奴隷保有国だったらしい。しかし、奴隷はコストとリスクが伴う。奴隷は奉公人よりも高く、また奴隷は勤労意欲が低く、いつ何時逃亡するのか、反抗してくるかわからない。アダム・スミスが言うように奴隷は経済的であるとは言えない。そのためイングランドの入植地は当初は年季奉公人のほうが多かった。
しかし1680年から1700年にかけて奴隷が爆発的に増え、イングランドは奴隷貿易の雄となる。多くの経済学h差や歴史学者がこの転換の理由を考えてきた。アダム・スミスはフロンティアを目の前にした労働者は、みずからも雇い主になるために土地を去るだろう、だから働き手の自由を制限する方へといった。奴隷制は必然だったという。またはピューリタン革命の内戦で年季奉公人の¥の数が減り、しかし需要がましたため年季奉公人の方が値段が上がったともいう。
インディアン社会でも奴隷が使われていた。しかしその制度は部族や地域で異なっていた。戦争捕虜として、または労働力として、または贈りものとしてなど。
カロライナ植民地でスペインとフランスと手を組んでいるインディアンを襲撃するように、他のインディアンに申し入れる。それによって捕えた捕虜を奴隷として仕入れ、スペイン。フランスの力も削いでいったという。そしてカロライナ植民地は奴隷の輸入地へと発展した。ここで著者はおもしろい考察をしていて、北部に住むインディアンは奴隷をもつ習慣をあまり持たず、捕虜の売買にも興味を示さなかったようで、このインディアン社会の習慣の境界線が、後の南北戦争での境界線に重なっているのではないかという。しかしインディアンを奴隷として使うことは、反乱が実際に起こったりで立ち行かなくなる。そこで、労働者を補う方法として、マラリアの抗体をもつアフリカ西部、中央部の人々を奴隷とすることにした。
しかし、マラリアがなかったとしても奴隷制は存在しただろう。というのもマラリアの罹患を免れたマサチューセッツやブエノスアイレスなども多くのアフリカ人奴隷が存在した。ただし、これらの地域では奴隷が主要な産業にはならなかった。つまり、文化、経済も奴隷制が基本だったブラジルとは異なる奴隷社会であった。
マラリアがアメリカ独立に果たした役割も大きく、当時のイギリス軍の多くはマラリアの生息していないスコットランド出身者で、はからずも総司令官クリントンは南部作戦をとり、マラリア生息地域へと誘い込むかたちとなった。
第四章 通貨を満載した船(絹と銀の交換 その1)
15世紀初頭、明の永楽帝の時代、鄭和による大航海が行われる。しかし、この事業は洪熙帝によって中止となる。その理由として、欧米では中国の中華思想をもちだしたり、改革への消極性などw理由に上げているが、実際のところは当時の明にとって、遠く航海をして得られるものがあまりに少なかったからというにすぎない。明は鎖国制度をしいたが、結局は貿易をしぶしぶ認めるようになる。その結果、中国でもコロンブス交換が行われるようになる。
紀元前の中国では青銅で硬貨を鋳造していた。しかし銅の不足によって1161年に宋は世界初の紙幣「会子」を導入する。しかし紙幣は扱い方を間違えるとハイパーインフレをお越し、ただの紙切れにしてしまう。商人たちはそれほど価値のない青銅や、紙切れになるリスクがある紙幣を使用して決済するのではなく、銀のかけらで支払いをするようになる。
アンデスのポトシには、銀の含有率がかなり高い鉱石があることはしられてえおり、先住民は低温炉を使って精錬をしていた。しかしスペイン人が乗り込んできて、水銀をつかったアマルガム精錬で行うようになった。それにより鉱山では、労働者がひどい健康被害がおこった。労働者にはアンデスの先住民で、バスク人が市政を牛耳っていた。ポトシの銀はスペインのペソ銀貨となり世界通貨となる。大量に銀河採掘されたためインフレが生じ、価値の低下が始まる。そしてスペインは財政難に陥る。これは反スペイン独立戦争、フロイドの乱三十年戦争などのヨーロッパ騒乱の原因にもなる。
マニラにはパリアンと呼ばれる月港の出張所があった。スペインは中国人をパリアンから出ることを禁じたためだ。多くの商品がスペイン産よりも中国産のほうが質がよかった。しかしスペイン人にとってはマニラは魅力てきだった。なぜなら中国は絹や陶磁器を銀と引き換えに安く売ったからで、だがそれでも商売では中国人が優勢だった。そのためスペインは中国人を何度も追放し、ときには虐殺もおこなった。それでも中国人はマニラで貿易に従事した。
スペインにとってマニラでの貿易は、中国の商品を仕入れることとともに、アジアをキリスト教に改宗させ、オランダ、ポルトガルの先をいくことだった。これらの目標は両立することはなかった。
明にとっては、貿易で得られる銀が帝国の富の源泉であった。明は銀の取引を管理したかったが、自由貿易をしたがる月港やパリアンの中国人とは相容れなかった。明にとって銀を莫大な量で必要としていた。そこで明は輸出品の生産に力を入れた。実物貨幣である貴金属は多大な生産コストがかかる。当時の中国はこの銀を手に入れるために多くの労力を使ってしまっていた。
第五章 相思草、番薯、玉米(絹と銀の交換 その2)
中国は当時、世界最大の人口を有していたが、農地は少なかった。棚民と呼ばれる土地をもたない客家らは、山間部の痩せた土地を借り入れるようになる。そこでサツマイモやトウモロコシ、タバコを生産するようになる。米作に不向きな西部の土地へ貧しい農民に移住を勧めた。アメリカ大陸原産の作物は中国の土地の多くで作られ。結果人口の爆発的増加をうながした。産地は侵食され、長江流域などでは洪水が頻発する。そうするとコメの価格があがり、そして山間部でのトウモロコシ生産が増えていく、というサイクルができあがる。
第六章 農工複合体
ジャガイモは生産性が穀物より高く、ヨーロッパの飢饉を終わらせ、そして帝国の形成に貢献したという。ジャガイモによってマルサスの罠から逃れられるようになった。知らなかったが、アンデスではジャガイモがもつ毒性物質ソラニン、トマチンを中和させるために土(粘土)を一緒にに食べていたという。しかも現在の粘土が袋入りで売られているとか。マジか。アンデスでは多種多様なジャガイモが生産され、多種多様な食べ方をしていた。
アンデスは農耕に適した土地ではない。アンデスの人々は広大な棚田をつくり、地形や畝、畦のうまくつくり、ジャガイモの生産をしていた。
カツオドリやペリカンなのどの鳥の糞が50メートルもの層になっていて、グアノと呼ばれ、窒素を含み優れた肥料となる。アンデスの人々は経験上、グアノが肥料になることをしっていたがヨーロッパ人もそれを知る。ペルーは膨大のグアノを輸出し、かなりの利益をだす。ペルーはチンチャ諸島を国有化するが過酷な労働環境のためなかなか運営がうまくいかず、ドミンゴ・エリアスに独占採掘権を与える。そこでは中国人が奴隷として働かされていたのだと。この話は一九世紀中頃とのこと。
このグアノの使用が化学物質の雛形ができあがった。これによって大量のジャガイモやトウモロコシが生産でき、作物は現地の人が消費するためのものから、国際市場へ展開されるものとなった。二〇世紀のはいじめにドイツ人化学者フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュが人口肥料の合成方法を開発し商品化する。これによってグアノを取る必要がなくなっていく。
グアノは近代的農業を誕生させたが、コロンブス交換というかたちで最悪の事態を招いた。それが一八四五年のアイルランド飢饉で、疫病菌があっというまに広まっていった。疫病菌事態は非常に弱い菌で紫外線や雨が降っただけでも壊れてしまう。しかしアイルランドでは単一品種のクローンジャガイモが飢えられていたため、疫病に対して非常に脆弱で、しかも近代的耕作法が疫病菌を蔓延させた。
そしてこれは甲虫の蔓延にも同じこといえ、均質化した農作物に対して虫がはびこることがたやすく、それに対する殺虫剤は年々効かなくなり、さらに新しい殺虫剤が開発されるという応対となる。
第七章 黒い金
天然ゴムについて。南アメリカのインディオたちは昔からゴムを使っていたが、一九世紀初頭にゴム製のオーバシューズが発明されて、多くの製品にも使われるようになった。グッドイヤーとハンコックは同時にゴムに硫黄を混ぜると寒い日でも伸縮性があり熱い日でも溶けない物質に変化することを発見する。それからゴムは近代の科学技術には必要不可欠なものへとなる。驚きなのが、フォードがゴム園を建設し失敗していたというのだ。タイヤメーカーのハーヴェイ・ファイナストーンという会社の名前がでていた。ブリヂストンが買収していた。中国もも1960年代に雲南省の南端のタイやラオスの国境沿いに人々を移住させてゴム農園を建設したりした。現在でもラオスではゴム林は広がり続けているよう。ゴムの木が東南アジア諸国を結びつけている。
第八章 具だくさんのスープ
コルテスがテノチティトランを陥落させた。フアン・ガリード(美男子ジョニー)は黒人奴隷かベルベル人かよくわかないが、ポルトガルで過ごした、そして解放されたのちコルテスのもとで右腕のような存在として働く。彼をスペインからのコメの袋からパンコムギの穀粒をみつけて栽培する。これがコロンブス交換となるが、彼自身もコロンブス交換であった。アメリカ大陸へ渡った者の大半はアフリカ人で、19世紀末までアメリカ大陸はヨーロッパの延長ではなくアフリカの延長であった。19世紀に入ってからヨーロッパからの移民が大量に入ってきた。人間版コロンブス交換はまず奴隷貿易からはじめる。メキシコシティはアフリカ人、アメリカ先住民、アジア人、ヨーロッパ人が一同に会した。マデイラ島でサトウキビの栽培が行われ、プランテーション農業が少しづつ浸透していく。16世紀中頃にはブラジルでもプランテーション農業が始まり、マデイラ島やサントメ島などは市場から締めだされた。
エンコミエンダ制は自由を保証しつつ宗教教育を行うとしたものだったが、奴隷の容認でもあった。1550年から1650年の100年の間にジェノヴァ商人は65万人ものアフリカ人奴隷がアメリカ大陸にやってきて、ヨーロッパ人よりもアフリカ人が多い状況になっていく。
コルテスをはじめ、ヨーロッパ人はとインディオの異人種間結婚はすぐに始まっていた。インディオからすれば娘をヨーロッパ人と結婚させることで、キリスト教徒として認められ地位が上がる、ヨーロッパ人からすれば身分の低いインディオを思いのままに使えるようになる。フランシスコ会修道士たちは人種隔離政策を提案したりもしたが、インディオとスペイン人は完全に混じり合って暮らすようになる。混血者の人口も増えていき、そしてアフリカ人も増えていった。そんななか人種間で多くの階級の壁ができていく。スペイン人が就くことができる職業やアフリカ系が着てはいけない服装など。些末な決まりができていく。メスティソ、ムラート、サンボ、モリスコなどの混血の分類と地位ができていったが、政府が意図したように機能はしなかった。むしろアイデンティティは売買されることもあった。アフリカ人奴隷であれば納税額が低いため、アフリカ人と自称するインディオもいた。人種飲み分けがつかなくなり、多様性があたりまえとなる。そのなかでカスタ絵図という芸術のジャンルができる。そこには混血者が描かれ、差異ゆえの差別がみうけられない。
インド、マレーシア、ミャンマー、スリランカなどのアジアからも移民が多く、十把一絡げにチノと呼ばれていたという。おどろくは日本人も用心棒としてメキシコに渡っており、暴動が起きた際などに鎮圧に向かったという。中国投機の模造品もつくられるようになるプエブラではタラベラ焼きができあがる。中国人の技術者はいたって質が高く、あらゆる職業でスペイン人が追い込まれていく。メキシコシティの政府は対策を講じても止めることはできなかった。メキシコシティは中国の情報の中心地となっていく。
16世紀から17世紀にかけてメキシコシティは比類のないメガロポリスであった。
第九章 逃亡者の森
アメリカ最大のアフロ=アメリカン・コミュニティで60万人の人口を擁するリベルタージは、ブラジルの逃亡奴隷の街キロンボの一つ。サルヴァドールはリベルタージの他のキロンボを飲み込みながら成長していった。アメリカ大陸の歴史はヨーロッパのアメリカ大陸遭遇という出来事というよりもアフリカ人と先住民の出会いといったほうが正しい。奴隷制から逃れるために戦って作り上げてきた街がリベルラージやカラバルといった街。アフリカ人と先住民は、自由を勝ち取るためにしばしば共に戦った。
「奴隷」とは、現代からみると異なる制度であったと考えられる。ヨーロッパ人だけがアフリカ人奴隷を売買していたわけではない。アフリカ人自身が奴隷を売っていたし、ヨーロッパ人と対等に自由競争の中で奴隷売買を行っていた。アフリカ人が考える自由に対する考え方が違った。アフリカ西部・中央部では土地は国有地のようなもので課税対象ではなかった。そのため富は人を支配することを意味していた。人はすなわち労働力でもあったからだ。ヨーロッパでは土地に重きを置いていたが、アフリカの一部では奴隷が資産だった。そして奴隷は移動可能であった。そしてアフリカにおける奴隷制度は現代人の奴隷観やアメリカの奴隷制度とは違い、過酷なものではなかった。奴隷は所有していることがステータスだった。それに一定期間すぎると自由の身にもなった。そしてアフリカにおける奴隷の場合は身元がわかっているケースがほとんどだが、アメリカに売られることで単なる商品となり、単純に生産に必要な労働者でしかなくなった。これは、アメリカの奴隷はいつでも反乱をするかもわからないリスクを内在していた。
16世紀ではアフリカ人の人口はヨーロッパ人の7倍に達しており、少数のヨーロッパ人でアフリカ人を支配、管理するのは困難だった。スペインはマルーンを討伐するために討伐隊などを送るが失敗する。マルーンたちは自由を求めて森へと逃亡していく。
ニカラグアのところで、ちょっとおもしろい話がでている。ミスキトゥ語しゃべるインディオと少数のヨーロッパ人、そしてアフリカ人奴隷が混じり合った社会を構成していったが、伝染病で先住民を祖先に持つミスキトゥ人の多くが死に、アフリカ人が優勢になっていた。アフリカ人は次第に自らをインディオと言うようになったと。たしか船戸与一の小説『山猫の夏』のラストで、黒人のインディオが登場したような記憶がある。南米三部作では最初の『山猫の夏』しか読んでいないから、『神話の果て』『伝説なき地』とかでは、黒人のインディオは登場するのかどうか。
南米北米ともにアフリカ人の逃亡し、済んだ街がある、現在でもその街は残っているところもある。
第十章 プララカオにて
フィリピン、イフガオの棚田について、せいぜい100年か200年程度しか遡れないよう。大昔からの伝統ではないようだ。マジか!
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読んでいて年表が欲しいと思った。東アジア、東南アジア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパを論じていて、年代順にも必ずしも論じていない。とってもおもしろい内容だし、一つ一つのトピックは興味深いのだけれども、何年の出来事なのかがよくわからなくなってしまったりした。縦ではなく横の歴史を描いているのだから、各地方での出来事の年表があれば、もっとおもしろかったかな。この時代に、まだこんな状況だったのかなど、けっこう考えさせるものがあった。本書が論じているようにヨーロッパ政治がアメリカ大陸の政治と密着しており、無視できない。にもかかかわらず、本書ではアメリカ史とヨーロッパ史をうまく頭で整理することができなかったりした。
ただおもしろいのは確か。世界が知らず知らずのうちにコロンブス交換を行っていて、それは後戻りできない変化を世界にもたらしてきた。それが非常によくわかる。
本書でも何度も言及されているクロスビーの『ヨーロッパの帝国主義』の延長線にある。とはいっても、結構前に読んだため忘れてしまっているところも多々あり。ほんの少しメモを残しているが、もっと詳しく要約しておけばよかった。
僕が考えていたアメリカ史とは全く異なるものが見える。白人の移民たちがマラリアなどでかなり犠牲になっていたこと。白人移民が武力的に有利であったわけではないこと。そんななかでも開拓者やベンチャーがでてきたこと。奴隷制度が実はなぜ広まったのかが経済学的視点では答えがむずかしいこと。かなり興味深いテーマが多くある。
コロンブスのアメリカ大陸の「発見」は「均質新世(Homogenocene)」という時代を切りひらいた。グローバリゼーションとは経済の話だけでなく生物学的現象でもある。
ボリビア南部のポトシで、銀の採掘と精錬が行われ、ここのスペイン銀がヨーロッパだけでなく東アジア、とくに中国へと流れ込む。当時の中国でが絹などの織物や磁器など多くの輸出品があったが、ヨーロッパでは中国が欲しがる品がなかった。
一方、ヨーロッパでは銀で潤ったスペインが、ヨーロッパ諸国に戦争をしかけていった(八十年戦争、オスマンーハプスブルグ戦争、米西戦争などなど)。
銀が大量に供給されたためにインフレが生じ、物価が高騰する。それに加えて宗教的対立や階級間の対立が重なっていき、そして1550年ごろから1850年ごろまでつづいた小氷期「マウンダー極小期」が訪れる。
マウンダー極小期の原因としてウィリアム・F・ラディマン(W. F. Ruddiman)が提唱する説が紹介される。アメリカ大陸の先住民は定期鉄器に森を焼きはらってきた。害虫を殺し、農地を確保するために。そのことが草原が大森林に飲み込まれることを防いでいた。しかしコロンブス以降、疫病や殺戮によって原住民の人口は減少し、1000年以上続けられてきた森を焼き払うことがなくなってしまった。そのため急激に森林が復活していき、二酸化炭素を吸収していったという。そのため二酸化炭素濃度が下がり、急激な寒冷化となったという。ここでは太陽黒点の影響やフィリピンでの火山噴火の影響は小さいと主張する専門家がいることを述べている。
んーここのマウンダー極小期の原因については、かなり疑問点がある。二酸化炭素が何ppm増加すると何度気温があがるのかがよくわかっていない状況なんだと思うけど。現在は400ppmを越えたとかで一部で話題になったけれども、マウンダー極小期の二酸化炭素の濃度の増減はどれくらいの振れ幅なのだろうか。原住民を焼き畑をやらなくなって森林が復活したのはいいけど、それによってどれくらい二酸化炭素は減ったのか。減った分と気温が増えた分は、現在の二酸化炭素濃度の増加と気温の上昇分と一致するのかな。つまりは二酸化炭素の気候感度はどうなっているのか。なんとも言えないけど、眉唾な感じが、、、
第二章 タバコ海岸
アメリカの北部地域にはいなかったミミズがヨーロッパから持ち込まれる。ミミズというものは遠くに移動することがないらしい。ジョン・ロルフがジェームズタウンにミミズを持ち込んだかはさておき、ジェームズタウンはコロンブス交換の先駆けとなり、地球の生態系戦争を引き起こすことになる。
ジョン・スミスから語られる入植者の物語は、驚きに満ちている。そもそも僕はアメリカ大陸へのヨーロッパ人の入植の歴史に明るくないからでもあるのだが、入植団を送りこんではその半数以上、もしくはほぼ全員がマラリアや黄熱病で死に、もしくは飢餓で死ぬ。飢餓で死んでしまうというのも凄まじい。本書ではジェームズ川で豊富に魚をとることができるが、ポウハタンという先住民がジェームタウンの外で待ち受けたりして、食料が確保できなかったというのだ。つまり、入植者は先住民に対して圧倒的な武力を誇っていたわけではないということだ。
ヴァージニア会社は貴金属やワイン造り、絹織などの事業を試みるが、ことごとく失敗する。にもかかわらず、北米での事業を挑戦し続ける。著者はなぜ挑戦し続けたのかと問う。そしてポウハタンは入植者を叩き潰すことができたのに、それをしなかった。なぜなのか。その答えがコロンブス交換にあるという。
ポウハタンとの停戦によりジェームズタウンの入植者はタバコの生産を増やすことができた、チェサピーク湾をタバコ海岸とも呼ばれたとのこと。それほどタバコ生産が伸び、イングランドでは高価なスペイン人が持ち込むタバコに取って代わる勢いだったようだ。ジェームズタウンのタバコ生産が伸び、新たな入植者も増えたことで、ヴァージニア会社は遠いイングランドから彼等を統治することが困難であることを悟り、北米初で代議士を選出し会議を開くようになった(1619年)。そして、それから数週間たたないうちに海の向こうから黒人奴隷がやってくるようになる。ここにアメリカ合衆国の代表民主制度と動産奴隷制度がなる。
セイヨウミツバチが持ち込まれたことで、ヨーロッパ由来の植物が繁殖し、豚などの家畜も増えていった。それによって、武力でも食料や経済の面でも劣っていた移民たちの土地は知らない間に広まっていき、見慣れなかった土地の風景がヨーロッパの風景のようになっていった。
第三章 悪い空気
マラリアの章。ヴァージニアへの入植者は最初の一年順応(シーズニング)するまでは辛坊せねばならなかったようで、驚くべきは入植者のうち一年以内に三分の一が死んでしまっていたということだ。そのため各分野で労働力が不足していく。その解決策には、イングランドからのさらなる入植者、年季奉公人を雇うこと。もしくは奴隷を使うこと。当時イングランドは世界最大の奴隷保有国だったらしい。しかし、奴隷はコストとリスクが伴う。奴隷は奉公人よりも高く、また奴隷は勤労意欲が低く、いつ何時逃亡するのか、反抗してくるかわからない。アダム・スミスが言うように奴隷は経済的であるとは言えない。そのためイングランドの入植地は当初は年季奉公人のほうが多かった。
しかし1680年から1700年にかけて奴隷が爆発的に増え、イングランドは奴隷貿易の雄となる。多くの経済学h差や歴史学者がこの転換の理由を考えてきた。アダム・スミスはフロンティアを目の前にした労働者は、みずからも雇い主になるために土地を去るだろう、だから働き手の自由を制限する方へといった。奴隷制は必然だったという。またはピューリタン革命の内戦で年季奉公人の¥の数が減り、しかし需要がましたため年季奉公人の方が値段が上がったともいう。
インディアン社会でも奴隷が使われていた。しかしその制度は部族や地域で異なっていた。戦争捕虜として、または労働力として、または贈りものとしてなど。
カロライナ植民地でスペインとフランスと手を組んでいるインディアンを襲撃するように、他のインディアンに申し入れる。それによって捕えた捕虜を奴隷として仕入れ、スペイン。フランスの力も削いでいったという。そしてカロライナ植民地は奴隷の輸入地へと発展した。ここで著者はおもしろい考察をしていて、北部に住むインディアンは奴隷をもつ習慣をあまり持たず、捕虜の売買にも興味を示さなかったようで、このインディアン社会の習慣の境界線が、後の南北戦争での境界線に重なっているのではないかという。しかしインディアンを奴隷として使うことは、反乱が実際に起こったりで立ち行かなくなる。そこで、労働者を補う方法として、マラリアの抗体をもつアフリカ西部、中央部の人々を奴隷とすることにした。
しかし、マラリアがなかったとしても奴隷制は存在しただろう。というのもマラリアの罹患を免れたマサチューセッツやブエノスアイレスなども多くのアフリカ人奴隷が存在した。ただし、これらの地域では奴隷が主要な産業にはならなかった。つまり、文化、経済も奴隷制が基本だったブラジルとは異なる奴隷社会であった。
マラリアがアメリカ独立に果たした役割も大きく、当時のイギリス軍の多くはマラリアの生息していないスコットランド出身者で、はからずも総司令官クリントンは南部作戦をとり、マラリア生息地域へと誘い込むかたちとなった。
第四章 通貨を満載した船(絹と銀の交換 その1)
15世紀初頭、明の永楽帝の時代、鄭和による大航海が行われる。しかし、この事業は洪熙帝によって中止となる。その理由として、欧米では中国の中華思想をもちだしたり、改革への消極性などw理由に上げているが、実際のところは当時の明にとって、遠く航海をして得られるものがあまりに少なかったからというにすぎない。明は鎖国制度をしいたが、結局は貿易をしぶしぶ認めるようになる。その結果、中国でもコロンブス交換が行われるようになる。
紀元前の中国では青銅で硬貨を鋳造していた。しかし銅の不足によって1161年に宋は世界初の紙幣「会子」を導入する。しかし紙幣は扱い方を間違えるとハイパーインフレをお越し、ただの紙切れにしてしまう。商人たちはそれほど価値のない青銅や、紙切れになるリスクがある紙幣を使用して決済するのではなく、銀のかけらで支払いをするようになる。
アンデスのポトシには、銀の含有率がかなり高い鉱石があることはしられてえおり、先住民は低温炉を使って精錬をしていた。しかしスペイン人が乗り込んできて、水銀をつかったアマルガム精錬で行うようになった。それにより鉱山では、労働者がひどい健康被害がおこった。労働者にはアンデスの先住民で、バスク人が市政を牛耳っていた。ポトシの銀はスペインのペソ銀貨となり世界通貨となる。大量に銀河採掘されたためインフレが生じ、価値の低下が始まる。そしてスペインは財政難に陥る。これは反スペイン独立戦争、フロイドの乱三十年戦争などのヨーロッパ騒乱の原因にもなる。
マニラにはパリアンと呼ばれる月港の出張所があった。スペインは中国人をパリアンから出ることを禁じたためだ。多くの商品がスペイン産よりも中国産のほうが質がよかった。しかしスペイン人にとってはマニラは魅力てきだった。なぜなら中国は絹や陶磁器を銀と引き換えに安く売ったからで、だがそれでも商売では中国人が優勢だった。そのためスペインは中国人を何度も追放し、ときには虐殺もおこなった。それでも中国人はマニラで貿易に従事した。
スペインにとってマニラでの貿易は、中国の商品を仕入れることとともに、アジアをキリスト教に改宗させ、オランダ、ポルトガルの先をいくことだった。これらの目標は両立することはなかった。
明にとっては、貿易で得られる銀が帝国の富の源泉であった。明は銀の取引を管理したかったが、自由貿易をしたがる月港やパリアンの中国人とは相容れなかった。明にとって銀を莫大な量で必要としていた。そこで明は輸出品の生産に力を入れた。実物貨幣である貴金属は多大な生産コストがかかる。当時の中国はこの銀を手に入れるために多くの労力を使ってしまっていた。
第五章 相思草、番薯、玉米(絹と銀の交換 その2)
中国は当時、世界最大の人口を有していたが、農地は少なかった。棚民と呼ばれる土地をもたない客家らは、山間部の痩せた土地を借り入れるようになる。そこでサツマイモやトウモロコシ、タバコを生産するようになる。米作に不向きな西部の土地へ貧しい農民に移住を勧めた。アメリカ大陸原産の作物は中国の土地の多くで作られ。結果人口の爆発的増加をうながした。産地は侵食され、長江流域などでは洪水が頻発する。そうするとコメの価格があがり、そして山間部でのトウモロコシ生産が増えていく、というサイクルができあがる。
第六章 農工複合体
ジャガイモは生産性が穀物より高く、ヨーロッパの飢饉を終わらせ、そして帝国の形成に貢献したという。ジャガイモによってマルサスの罠から逃れられるようになった。知らなかったが、アンデスではジャガイモがもつ毒性物質ソラニン、トマチンを中和させるために土(粘土)を一緒にに食べていたという。しかも現在の粘土が袋入りで売られているとか。マジか。アンデスでは多種多様なジャガイモが生産され、多種多様な食べ方をしていた。
アンデスは農耕に適した土地ではない。アンデスの人々は広大な棚田をつくり、地形や畝、畦のうまくつくり、ジャガイモの生産をしていた。
カツオドリやペリカンなのどの鳥の糞が50メートルもの層になっていて、グアノと呼ばれ、窒素を含み優れた肥料となる。アンデスの人々は経験上、グアノが肥料になることをしっていたがヨーロッパ人もそれを知る。ペルーは膨大のグアノを輸出し、かなりの利益をだす。ペルーはチンチャ諸島を国有化するが過酷な労働環境のためなかなか運営がうまくいかず、ドミンゴ・エリアスに独占採掘権を与える。そこでは中国人が奴隷として働かされていたのだと。この話は一九世紀中頃とのこと。
このグアノの使用が化学物質の雛形ができあがった。これによって大量のジャガイモやトウモロコシが生産でき、作物は現地の人が消費するためのものから、国際市場へ展開されるものとなった。二〇世紀のはいじめにドイツ人化学者フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュが人口肥料の合成方法を開発し商品化する。これによってグアノを取る必要がなくなっていく。
グアノは近代的農業を誕生させたが、コロンブス交換というかたちで最悪の事態を招いた。それが一八四五年のアイルランド飢饉で、疫病菌があっというまに広まっていった。疫病菌事態は非常に弱い菌で紫外線や雨が降っただけでも壊れてしまう。しかしアイルランドでは単一品種のクローンジャガイモが飢えられていたため、疫病に対して非常に脆弱で、しかも近代的耕作法が疫病菌を蔓延させた。
そしてこれは甲虫の蔓延にも同じこといえ、均質化した農作物に対して虫がはびこることがたやすく、それに対する殺虫剤は年々効かなくなり、さらに新しい殺虫剤が開発されるという応対となる。
第七章 黒い金
天然ゴムについて。南アメリカのインディオたちは昔からゴムを使っていたが、一九世紀初頭にゴム製のオーバシューズが発明されて、多くの製品にも使われるようになった。グッドイヤーとハンコックは同時にゴムに硫黄を混ぜると寒い日でも伸縮性があり熱い日でも溶けない物質に変化することを発見する。それからゴムは近代の科学技術には必要不可欠なものへとなる。驚きなのが、フォードがゴム園を建設し失敗していたというのだ。タイヤメーカーのハーヴェイ・ファイナストーンという会社の名前がでていた。ブリヂストンが買収していた。中国もも1960年代に雲南省の南端のタイやラオスの国境沿いに人々を移住させてゴム農園を建設したりした。現在でもラオスではゴム林は広がり続けているよう。ゴムの木が東南アジア諸国を結びつけている。
第八章 具だくさんのスープ
コルテスがテノチティトランを陥落させた。フアン・ガリード(美男子ジョニー)は黒人奴隷かベルベル人かよくわかないが、ポルトガルで過ごした、そして解放されたのちコルテスのもとで右腕のような存在として働く。彼をスペインからのコメの袋からパンコムギの穀粒をみつけて栽培する。これがコロンブス交換となるが、彼自身もコロンブス交換であった。アメリカ大陸へ渡った者の大半はアフリカ人で、19世紀末までアメリカ大陸はヨーロッパの延長ではなくアフリカの延長であった。19世紀に入ってからヨーロッパからの移民が大量に入ってきた。人間版コロンブス交換はまず奴隷貿易からはじめる。メキシコシティはアフリカ人、アメリカ先住民、アジア人、ヨーロッパ人が一同に会した。マデイラ島でサトウキビの栽培が行われ、プランテーション農業が少しづつ浸透していく。16世紀中頃にはブラジルでもプランテーション農業が始まり、マデイラ島やサントメ島などは市場から締めだされた。
エンコミエンダ制は自由を保証しつつ宗教教育を行うとしたものだったが、奴隷の容認でもあった。1550年から1650年の100年の間にジェノヴァ商人は65万人ものアフリカ人奴隷がアメリカ大陸にやってきて、ヨーロッパ人よりもアフリカ人が多い状況になっていく。
コルテスをはじめ、ヨーロッパ人はとインディオの異人種間結婚はすぐに始まっていた。インディオからすれば娘をヨーロッパ人と結婚させることで、キリスト教徒として認められ地位が上がる、ヨーロッパ人からすれば身分の低いインディオを思いのままに使えるようになる。フランシスコ会修道士たちは人種隔離政策を提案したりもしたが、インディオとスペイン人は完全に混じり合って暮らすようになる。混血者の人口も増えていき、そしてアフリカ人も増えていった。そんななか人種間で多くの階級の壁ができていく。スペイン人が就くことができる職業やアフリカ系が着てはいけない服装など。些末な決まりができていく。メスティソ、ムラート、サンボ、モリスコなどの混血の分類と地位ができていったが、政府が意図したように機能はしなかった。むしろアイデンティティは売買されることもあった。アフリカ人奴隷であれば納税額が低いため、アフリカ人と自称するインディオもいた。人種飲み分けがつかなくなり、多様性があたりまえとなる。そのなかでカスタ絵図という芸術のジャンルができる。そこには混血者が描かれ、差異ゆえの差別がみうけられない。
インド、マレーシア、ミャンマー、スリランカなどのアジアからも移民が多く、十把一絡げにチノと呼ばれていたという。おどろくは日本人も用心棒としてメキシコに渡っており、暴動が起きた際などに鎮圧に向かったという。中国投機の模造品もつくられるようになるプエブラではタラベラ焼きができあがる。中国人の技術者はいたって質が高く、あらゆる職業でスペイン人が追い込まれていく。メキシコシティの政府は対策を講じても止めることはできなかった。メキシコシティは中国の情報の中心地となっていく。
16世紀から17世紀にかけてメキシコシティは比類のないメガロポリスであった。
第九章 逃亡者の森
アメリカ最大のアフロ=アメリカン・コミュニティで60万人の人口を擁するリベルタージは、ブラジルの逃亡奴隷の街キロンボの一つ。サルヴァドールはリベルタージの他のキロンボを飲み込みながら成長していった。アメリカ大陸の歴史はヨーロッパのアメリカ大陸遭遇という出来事というよりもアフリカ人と先住民の出会いといったほうが正しい。奴隷制から逃れるために戦って作り上げてきた街がリベルラージやカラバルといった街。アフリカ人と先住民は、自由を勝ち取るためにしばしば共に戦った。
「奴隷」とは、現代からみると異なる制度であったと考えられる。ヨーロッパ人だけがアフリカ人奴隷を売買していたわけではない。アフリカ人自身が奴隷を売っていたし、ヨーロッパ人と対等に自由競争の中で奴隷売買を行っていた。アフリカ人が考える自由に対する考え方が違った。アフリカ西部・中央部では土地は国有地のようなもので課税対象ではなかった。そのため富は人を支配することを意味していた。人はすなわち労働力でもあったからだ。ヨーロッパでは土地に重きを置いていたが、アフリカの一部では奴隷が資産だった。そして奴隷は移動可能であった。そしてアフリカにおける奴隷制度は現代人の奴隷観やアメリカの奴隷制度とは違い、過酷なものではなかった。奴隷は所有していることがステータスだった。それに一定期間すぎると自由の身にもなった。そしてアフリカにおける奴隷の場合は身元がわかっているケースがほとんどだが、アメリカに売られることで単なる商品となり、単純に生産に必要な労働者でしかなくなった。これは、アメリカの奴隷はいつでも反乱をするかもわからないリスクを内在していた。
16世紀ではアフリカ人の人口はヨーロッパ人の7倍に達しており、少数のヨーロッパ人でアフリカ人を支配、管理するのは困難だった。スペインはマルーンを討伐するために討伐隊などを送るが失敗する。マルーンたちは自由を求めて森へと逃亡していく。
ニカラグアのところで、ちょっとおもしろい話がでている。ミスキトゥ語しゃべるインディオと少数のヨーロッパ人、そしてアフリカ人奴隷が混じり合った社会を構成していったが、伝染病で先住民を祖先に持つミスキトゥ人の多くが死に、アフリカ人が優勢になっていた。アフリカ人は次第に自らをインディオと言うようになったと。たしか船戸与一の小説『山猫の夏』のラストで、黒人のインディオが登場したような記憶がある。南米三部作では最初の『山猫の夏』しか読んでいないから、『神話の果て』『伝説なき地』とかでは、黒人のインディオは登場するのかどうか。
南米北米ともにアフリカ人の逃亡し、済んだ街がある、現在でもその街は残っているところもある。
第十章 プララカオにて
フィリピン、イフガオの棚田について、せいぜい100年か200年程度しか遡れないよう。大昔からの伝統ではないようだ。マジか!
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読んでいて年表が欲しいと思った。東アジア、東南アジア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパを論じていて、年代順にも必ずしも論じていない。とってもおもしろい内容だし、一つ一つのトピックは興味深いのだけれども、何年の出来事なのかがよくわからなくなってしまったりした。縦ではなく横の歴史を描いているのだから、各地方での出来事の年表があれば、もっとおもしろかったかな。この時代に、まだこんな状況だったのかなど、けっこう考えさせるものがあった。本書が論じているようにヨーロッパ政治がアメリカ大陸の政治と密着しており、無視できない。にもかかかわらず、本書ではアメリカ史とヨーロッパ史をうまく頭で整理することができなかったりした。
ただおもしろいのは確か。世界が知らず知らずのうちにコロンブス交換を行っていて、それは後戻りできない変化を世界にもたらしてきた。それが非常によくわかる。
本書でも何度も言及されているクロスビーの『ヨーロッパの帝国主義』の延長線にある。とはいっても、結構前に読んだため忘れてしまっているところも多々あり。ほんの少しメモを残しているが、もっと詳しく要約しておけばよかった。
僕が考えていたアメリカ史とは全く異なるものが見える。白人の移民たちがマラリアなどでかなり犠牲になっていたこと。白人移民が武力的に有利であったわけではないこと。そんななかでも開拓者やベンチャーがでてきたこと。奴隷制度が実はなぜ広まったのかが経済学的視点では答えがむずかしいこと。かなり興味深いテーマが多くある。
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