フリードマンの経済思想は有名なのでなんとなく知っていたけど、読んでみるとなかなかいい。
日本では政治や行政への不信感が強いにもかかわらず、なぜかお上が言うことを変に信じてしまう傾向がある。政府や行政が決めたことが、なぜか「信用」になっちゃうんだから、どうなっているのか。
政府が万能であればいいけどそういうわけではない。
とくに有事になれば人間の判断力では予測できない事柄が常に起こるし、コントロールなんかもできない。戦争中の政府だって、基本的に手探りで戦っていて、どの国家の政府も「きちんと」なんか対応できないもの。
日本では、東日本大震災やコロナ騒動で十二分にわかったことで、別に政府が悪いというのではなくて、単に人間なんてしょせんそんなもんだということでしょう。
有事で敵に勝つには、どれだけ失敗を抑えることができたか、で決まるという。人間の認知能力や判断能力を過信してはいけないのですね。
産業の保護という愚策
ぼくは職業柄、日本のエレクトロニクス業界なんかでも仕事してるが、経産省の多額の税金が補助金として企業にぶち込まれる。それも日本では斜陽な事業に対して日の丸産業として維持しようとして。
でも、僕が知る限りではそういうのは全て失敗している。例外なく。それでぼくの飯の種の一部ではあるが、ふざけてるなと思うわけです。
フリードマンが本書で述べているように、経産省や企業側の言い訳は、雇用を守る、技術を守る、安全保障のためといったもので、でも最終的には頓挫する。
10年ぐらい前か、SAMSUNGががんがん世界で営業をし始めたとき、日本でも政府と一丸になって日本製製品を世界売り込もうとする機運があった。SAMSUNGの強みは、韓国政府とSAMSUNGが一枚岩になって世界へ進出しているから云々と言われていた。
でもですね、日本では国の援助がほとんどない状況でエレクトロニクス製品が世界を席巻した時代があったわけで、日本企業が韓国企業に負けていくのは時代の流れなわけですよ。国と一体になってやればいいだなんて、その残骸が日本でどれほど多く散らかっているか。どれだけ国と一緒にやることで流動性もなくなり、技術革新が遅れていったか。
こういうことでも、政府が市場に参入することがいかに駄目であるかがわかる。
関税の撤廃
いつの時代もそうなのかあと思う。関税が必要かどうかってのは結構難しい問題のようだけど、実のところは
米や乳製品の関税が日本は高い。いかがなものかと思う。結局これも産業を守るのではなく、単に利権を作っているにすぎない。
外国産の食品が日本に大量に入ってくれば、さらに日本の食文化は豊かになると思うのだけどね。関税が消費者の利益を損ねているのは明白です。
小野善康さんなんかは、関税を撤廃してそれで損害を被る業界には現実的な対応策として補助金をだす、という。これもありですね。
社会保障は倫理的か
社会保障についてはフリードマンはほとんどを否定する。おもしろいことに、社会保障制度が人間の倫理にも影響することを述べていることで、実際のところ日本では社会福祉は政府がやるものだという意識が強くって、保障されても、まだ足りない、もっとよこせ、という結果になってしまっている。
本書で提案されている「負の所得税」は、ベーシックインカムよりもいい制度だと思うし、ベーシックインカムの考えとも矛盾はしない。
求められる平等とは何なのか。それは「機会の平等」であるべき。「機会の平等」とは、「能力に応じて開かれている人生」というもの。ただ「結果の平等」が声高に叫ばれる。
誰が「公平」を決定するのか。生産物でそれが決定されないとするならば、何で決まるのか。こういう状況で職業の選択にどんな意味があるのか。
誰をどの職業につけるか、誰かがそれをやれば、それは脅迫でしかない。
フリードマンの指摘で示唆的だったのが、「平等」を求めている社会では犯罪率が高くなるというもので、というのも誰しもが個人の倫理意識が低くなり、法が軽んじられるようになる。また社会も低迷する。結果が同じならば何もしないにこしたことはない。
他人が他人のために使う
社会保障を自由という観点からとらえ直すべき。
上位90%が底辺の10%のために課税を投票でももって受け入れることと、上位10%に課税して底辺10%を助けることを80%の人が投票で決めることは、「自由」という信念からは支持できない。他人のために他人の金を使うことは、「自由」を侵害している。
まず隗より始めよ。
他人の金から徴収することをする前に、自らの所得と周りの水準を考えて、水準以上のものは誰かに自ら分配にまわせばいい。もしそんなことしても大海の一滴でしかないと考えるならば、それは他人から徴収しても各人の分担金も大海の一滴にすぎない。それに自らの選択でどこに寄付するかを決めるほうが価値があるだろう。
自発的に行うのと強制的に行うのでは、社会の構造が異なり、そして各個人の倫理も異なる。
なるへそ。
ぼくはリベラリストだけど、「リベラル」ではない。ぼくがいつも「リベラル」に感じる違和感の一つがこのあたりで、彼らは概して政府に何かしらの補償や援助を求めがちだが、でもなぜ個人レベルでそれをやらないのかが不思議だ。
確かに個人の寄付だなんて雀の涙かもしれないが、やるべきだとつねづね思っている。んで、ぼくの知っているある程度所得水準の高いインテリリベラルは、誰も寄付をポケットマネーからはしない。
大学教授より所得がぜんぜん低いぼくですら、たいした金額ではないが寄付や援助をしているというのにだ‼ ふざけたやろうだよ。
政府の非効率性と権威
行政が引き起こす悪影響は、担当している役人が悪いわけではない。一人ひとりの役人は有能であり献身的であるが、社会的、政治的、経済的圧力が省庁の運営を及ぼす。だからよく言われる役人悪人説や役人個人への非難はあまり意味がない。
問題は「制度」にある。
「市場の失敗」は起こるが、それを改善できるのが政府であると考えるのは誤っている。被害や利益の評価をなぜ政府が正当にできると思えるのか。
深刻な害を及ぼす、予期しなかった副作用を起こす薬を認可を与える場合、多くの命を救うし副作用がない薬を認可しなかった場合、前者を犯せばバッシングにあるが、後者をしても世に知られないので問題ない。認可制は政府のお墨付きを与えるため一気に広がる。もし認可制でないならばゆっくりと広がり、またその過程で副作用がわかるので、被害も少ないだろうと。
また、あらゆる職種で免許制があり、その言い分は「消費者を保護するため」というが、そんなわけがない。
商品の信頼はどこで担保されるのか。それは消費者が判断する必要はない。小売業者が個別で商品の質を判断できる。品質の保証してくれる機関でもある。
限定的な政府の役割
自由市場資本主義は、持たざる一般大衆に豊かさをもたらした。
高等教育の必要性は国家の利益と一緒に論じられたり、労働生産性やイノベーションなどいろいろと語られる。これらは主張は正しいが、「高等教育に対して政府が助成金を与えることを正当化するような打倒な理由はけっしてない」(285)と言う。だからクーポン券であれば、納税者も自ら学校を選択できるようになり、税金と私立学校への費用という二重の重荷を背負わなくてもすむ。
貧困者に不利だというが、貧困者だって子供によい教育を受けさせたいと考えて、より良い選択自らできればいいし、多少出費が増えてもそれを払ってでも質の高い教育を受けさせる機会を奪うべきではない。
政府の市場への介入は許すな
政府はあんまり口出ししすぎると碌なことがない。
供給過剰を起こすならば、「政府にその財貨の最低価格を設定させ、この最低価格の水準をそうでない場合に発生したに違いない価格の水準より高い水準に置くようにさせればよい」(348)
供給不足お起こすならば、「政府にその財貨に対する最高価格を立法化させ、その価格がそうでない場合に発生したであろう価格の水準よりも低い水準になるようにすればよい」(348)
多くのことで、これはまかり通っていて、労働者の賃金にもある。最低賃金だ。しかしフリードマンはこの最低賃金を批判する。
最低賃金の設定は、弱者への二重の差別であるという。雇用者は高い賃金でスキルのない労働者を雇うことはしない。だから結局、弱者に労働市場が開かれない。
そして労働者の権利を謳う労働組合たちも勘違いしている。
結局は、みなさん、自分の利益しか考えていないわけで、ある意味「自由」に自らの利益のために動いた結果、利権やくだらない法律、規則が生まれていく。
フリードマンが言う「自由」を守るのは非常にしんどいことであるのがわかる。
日本では政治や行政への不信感が強いにもかかわらず、なぜかお上が言うことを変に信じてしまう傾向がある。政府や行政が決めたことが、なぜか「信用」になっちゃうんだから、どうなっているのか。
政府が万能であればいいけどそういうわけではない。
とくに有事になれば人間の判断力では予測できない事柄が常に起こるし、コントロールなんかもできない。戦争中の政府だって、基本的に手探りで戦っていて、どの国家の政府も「きちんと」なんか対応できないもの。
日本では、東日本大震災やコロナ騒動で十二分にわかったことで、別に政府が悪いというのではなくて、単に人間なんてしょせんそんなもんだということでしょう。
有事で敵に勝つには、どれだけ失敗を抑えることができたか、で決まるという。人間の認知能力や判断能力を過信してはいけないのですね。
産業の保護という愚策
ぼくは職業柄、日本のエレクトロニクス業界なんかでも仕事してるが、経産省の多額の税金が補助金として企業にぶち込まれる。それも日本では斜陽な事業に対して日の丸産業として維持しようとして。
でも、僕が知る限りではそういうのは全て失敗している。例外なく。それでぼくの飯の種の一部ではあるが、ふざけてるなと思うわけです。
フリードマンが本書で述べているように、経産省や企業側の言い訳は、雇用を守る、技術を守る、安全保障のためといったもので、でも最終的には頓挫する。
10年ぐらい前か、SAMSUNGががんがん世界で営業をし始めたとき、日本でも政府と一丸になって日本製製品を世界売り込もうとする機運があった。SAMSUNGの強みは、韓国政府とSAMSUNGが一枚岩になって世界へ進出しているから云々と言われていた。
でもですね、日本では国の援助がほとんどない状況でエレクトロニクス製品が世界を席巻した時代があったわけで、日本企業が韓国企業に負けていくのは時代の流れなわけですよ。国と一体になってやればいいだなんて、その残骸が日本でどれほど多く散らかっているか。どれだけ国と一緒にやることで流動性もなくなり、技術革新が遅れていったか。
こういうことでも、政府が市場に参入することがいかに駄目であるかがわかる。
関税の撤廃
いつの時代もそうなのかあと思う。関税が必要かどうかってのは結構難しい問題のようだけど、実のところは
どのグループも利己的な利益をむき出しに主張したりはしない。どのグループも例外なしに「公衆の利益」のためといったことや、国家の安全保障を促進するためにとか、雇用を意志しなければならないからといったことを表向には掲げる(66)ああーそのとおりだ。ここでも産業を保護する名目で使われる言い訳と一緒だ。
米や乳製品の関税が日本は高い。いかがなものかと思う。結局これも産業を守るのではなく、単に利権を作っているにすぎない。
外国産の食品が日本に大量に入ってくれば、さらに日本の食文化は豊かになると思うのだけどね。関税が消費者の利益を損ねているのは明白です。
小野善康さんなんかは、関税を撤廃してそれで損害を被る業界には現実的な対応策として補助金をだす、という。これもありですね。
社会保障は倫理的か
社会保障についてはフリードマンはほとんどを否定する。おもしろいことに、社会保障制度が人間の倫理にも影響することを述べていることで、実際のところ日本では社会福祉は政府がやるものだという意識が強くって、保障されても、まだ足りない、もっとよこせ、という結果になってしまっている。
本書で提案されている「負の所得税」は、ベーシックインカムよりもいい制度だと思うし、ベーシックインカムの考えとも矛盾はしない。
求められる平等とは何なのか。それは「機会の平等」であるべき。「機会の平等」とは、「能力に応じて開かれている人生」というもの。ただ「結果の平等」が声高に叫ばれる。
誰が「公平」を決定するのか。生産物でそれが決定されないとするならば、何で決まるのか。こういう状況で職業の選択にどんな意味があるのか。
誰をどの職業につけるか、誰かがそれをやれば、それは脅迫でしかない。
「公平な分け前」という理念の先駆でもある「すべての人にその必要に応じて」という理念と「人格的自由」の理念との間には基本的に矛盾がある(217)個人の決定に対して政府の介入が増えることを許容すれば、個人の自由は侵害され、責任もとれなくなる。家が洪水にあってそこに補償することは、その人が自己の責任においてその土地を選び、家を建てた自由と責任を侵害することになる。
フリードマンの指摘で示唆的だったのが、「平等」を求めている社会では犯罪率が高くなるというもので、というのも誰しもが個人の倫理意識が低くなり、法が軽んじられるようになる。また社会も低迷する。結果が同じならば何もしないにこしたことはない。
他人が他人のために使う
社会保障を自由という観点からとらえ直すべき。
上位90%が底辺の10%のために課税を投票でももって受け入れることと、上位10%に課税して底辺10%を助けることを80%の人が投票で決めることは、「自由」という信念からは支持できない。他人のために他人の金を使うことは、「自由」を侵害している。
まず隗より始めよ。
他人の金から徴収することをする前に、自らの所得と周りの水準を考えて、水準以上のものは誰かに自ら分配にまわせばいい。もしそんなことしても大海の一滴でしかないと考えるならば、それは他人から徴収しても各人の分担金も大海の一滴にすぎない。それに自らの選択でどこに寄付するかを決めるほうが価値があるだろう。
自発的に行うのと強制的に行うのでは、社会の構造が異なり、そして各個人の倫理も異なる。
なるへそ。
ぼくはリベラリストだけど、「リベラル」ではない。ぼくがいつも「リベラル」に感じる違和感の一つがこのあたりで、彼らは概して政府に何かしらの補償や援助を求めがちだが、でもなぜ個人レベルでそれをやらないのかが不思議だ。
確かに個人の寄付だなんて雀の涙かもしれないが、やるべきだとつねづね思っている。んで、ぼくの知っているある程度所得水準の高いインテリリベラルは、誰も寄付をポケットマネーからはしない。
大学教授より所得がぜんぜん低いぼくですら、たいした金額ではないが寄付や援助をしているというのにだ‼ ふざけたやろうだよ。
政府の非効率性と権威
行政が引き起こす悪影響は、担当している役人が悪いわけではない。一人ひとりの役人は有能であり献身的であるが、社会的、政治的、経済的圧力が省庁の運営を及ぼす。だからよく言われる役人悪人説や役人個人への非難はあまり意味がない。
問題は「制度」にある。
「市場の失敗」は起こるが、それを改善できるのが政府であると考えるのは誤っている。被害や利益の評価をなぜ政府が正当にできると思えるのか。
深刻な害を及ぼす、予期しなかった副作用を起こす薬を認可を与える場合、多くの命を救うし副作用がない薬を認可しなかった場合、前者を犯せばバッシングにあるが、後者をしても世に知られないので問題ない。認可制は政府のお墨付きを与えるため一気に広がる。もし認可制でないならばゆっくりと広がり、またその過程で副作用がわかるので、被害も少ないだろうと。
また、あらゆる職種で免許制があり、その言い分は「消費者を保護するため」というが、そんなわけがない。
商品の信頼はどこで担保されるのか。それは消費者が判断する必要はない。小売業者が個別で商品の質を判断できる。品質の保証してくれる機関でもある。
限定的な政府の役割
自由市場資本主義は、持たざる一般大衆に豊かさをもたらした。
貧弱な製品やサービスのすべては、政府や政府の統制下にある産業によって生産されたものだ(306)例として、郵便、鉄道、学校を上げている。
高等教育の必要性は国家の利益と一緒に論じられたり、労働生産性やイノベーションなどいろいろと語られる。これらは主張は正しいが、「高等教育に対して政府が助成金を与えることを正当化するような打倒な理由はけっしてない」(285)と言う。だからクーポン券であれば、納税者も自ら学校を選択できるようになり、税金と私立学校への費用という二重の重荷を背負わなくてもすむ。
貧困者に不利だというが、貧困者だって子供によい教育を受けさせたいと考えて、より良い選択自らできればいいし、多少出費が増えてもそれを払ってでも質の高い教育を受けさせる機会を奪うべきではない。
政府の市場への介入は許すな
政府はあんまり口出ししすぎると碌なことがない。
供給過剰を起こすならば、「政府にその財貨の最低価格を設定させ、この最低価格の水準をそうでない場合に発生したに違いない価格の水準より高い水準に置くようにさせればよい」(348)
供給不足お起こすならば、「政府にその財貨に対する最高価格を立法化させ、その価格がそうでない場合に発生したであろう価格の水準よりも低い水準になるようにすればよい」(348)
多くのことで、これはまかり通っていて、労働者の賃金にもある。最低賃金だ。しかしフリードマンはこの最低賃金を批判する。
最低賃金の設定は、弱者への二重の差別であるという。雇用者は高い賃金でスキルのない労働者を雇うことはしない。だから結局、弱者に労働市場が開かれない。
そして労働者の権利を謳う労働組合たちも勘違いしている。
ほんとうのところは強い労働組合がその組合員に対して獲得する賃上げは、主として他の労働者の犠牲においてである(371)賃上げは必然的に就業人数を減らすことになり失業率を上げることになる。
結局は、みなさん、自分の利益しか考えていないわけで、ある意味「自由」に自らの利益のために動いた結果、利権やくだらない法律、規則が生まれていく。
フリードマンが言う「自由」を守るのは非常にしんどいことであるのがわかる。