2020/06/16

『トマス・アクィナス――理性と神秘』 山本芳久 岩波新書

トマス・アクィナスの著作はおそらく生涯読むことはない。なのでこういうアンチョコ本は教養として役に立つ。でもこの本はただアンチョコではないのがよかった。

「知性的な実体」を神や天使、「理性的存在」を人間としていて、この「知性」とは「全体を把握する直感的な理性のことである。『知性認識する(intelligere)とは、可知的な〔知性によって理解可能な〕真理を端的には表すこと」である。
人間なんてしょせん観察と考察でもって、ようやく真理に到達できる存在にすぎない。
とはいっても人間にも「知性」があり、「善」を志向することは、理性の働きによってではなく直感的な「知性」の働きで、人間は「知性」と「理性」を持ち合わせていることになっている。
ただし、「理性」の限界というのがあり、「永遠」だとか「時間の始まり」だとかは、理性で論証的できるものではない。
「神秘」を理性だけで知ることはできない。
神に隠された「神秘」は啓き示されることによって、その「神秘」に触れることのできた人々と神との新たな積極的な関係が築き上げていくきかっけとなる。人間の理性の力のみでは到底知ることができず、神のみが知っている神秘を、神は人間と共有することを望み、そのことによって人間と神との新たな関係性が紡ぎだされていくのだ。(46)
そうした「神秘」を決定的な仕方で人間に開示してくれた存在こそ、イエス・キリストにほかならないのである。(47)
神学の基本的な姿勢といっていいのかな。世界全部を認識できないけど、そのとっかかりを作ってくれたのがイエスであるってのは、そうなのかーとなるんだけど、単純に新約聖書を読んでも、どうしたらそこまで深読みできるのかがいつも不思議なんですよね。

「愛」の定義は難しい。
passioは「受動」と「情念」の意味があり、外的な刺激によって感情が生まれてくることがよく表れている。トマスは情念の根底には「愛」があるといい、旧友や家族について、外的な刺激で揺さぶられる感情によって、悲しんだり喜んだり怒るのは、まさに「愛」ゆえであるとなる。
そして「愛」の定義を言えば、「欲求されうるものが気に入ること」というふうになっており、それぞれのものに固有の「欲求される可能性」を示していて、欲求を顕在化しているかしていないかは人それぞれ、変化していく。これは趣味の問題でもあるけれど、ただし趣味は「最善」に収斂されていくものでもある。
この「最善」の話というのは、ある種のエッセンシャリズムで、「最善」なんてないだろうと、ポストモダニストのぼくは考える。この「最善」への志向ってのはどこか郷愁を誘うものがあって、そして危うい。

トマス・アクィナスといえば、やはりアリストテレス。
アリストテレスは「賢慮」「正義」「勇気」「節制」の四つの徳(枢要徳)を重視し、トマスははそれを引き継いでいる。
人生において、訓練を積み重ねていくことで、整えられた情動を有することができ、それは「節制」という徳を有することである。
「無感覚」であることは、喜びや快楽に無関心であることで、それは「節制」に反するし、そして欲望をコントロールしたり、我慢する意志は良いことだが徳ではない。「節制」というのは訓練によって獲得できる徳となっている。
そしてこの「節制」は理性だけでなく、「親和性による認識」でも得ることができ、つまり、躾、欲望充足の在り方を習慣によって、自然に感じられるようになり、自ずと人柄が形成されていく。
「訓練」といえば、フーコーを思い起こさせる。

宗教にとっては信仰問題は重要で、とくに「理性」を重んじるなら、「理性」で「信仰」をどう捉えるのか。ただ単純に信じればいいというのではなくて、それだと単に迷信になるのかな。
「信じる」ということは、「知る」ことと対立したり矛盾したりするのではない。むしろ「信じる」ということ自体が、「知る」ことの一つの在り方であり、また、何かを深く「知る」ための大前提ともなる……常に他社を疑い、確実な証拠なしには誰のことも信用しないという人がいたとすれば、その人は、理性的で健全な判断の持ち主と見なされるのではなく、むしろ、過剰で不合理な疑いに陥ってしまった不健全な判断な人物とみなされるであろう。」(115-116)
信仰は徳である。なぜなら「徳(virtus)」は「力」であり、「信仰」は事柄をみる「力」だからだ。神を認識するには間接的にしかできない。神は隠れたぼやけたものだが、「人間は、現世における自らの『知性の受容力』を超えたものが存在するということを確として承認する――すなわち信じる――ことができる」。
「徴」としての奇跡は必然性がないが、だからこそ積極的な意義があり、信じるかどうかは人間の自由意志によるとなる。誰かに説得されたり、外的な要因だけで信仰をするのではなく、「恩寵によって内的に動かす神」が重要となる。
人間は、恩寵の助けによってはじめて、「永遠の生命につりあった功徳ある業」を生み出すことができるようになる。こうした業を生み出すためには、たしかに恩寵の助けが必要だが、助けを受けたうえで業を実際に為し遂げているのは、自由意志に基づいて行為する行為者自身にほかならないのだ(156)
人間は神から与えられるばかりではない。与えられた力は人間固有の力として内面化していく。だから信仰についても人間の意志や知性だけでなく神の恩寵も必要となる。
そして、幸福というのは神から人間に与えられるという一方向のものではなく、双方向からのもの。
キリスト教といえば隣人愛だが、しかし自己愛が隣人愛の先立つとトマスは述べている。
んーこのあたりはわかりづらい部分で、簡単に言えば自分に満足というか余裕がなければ、人を愛せないってことなのかな。

トマス・アクィナスは書く営みから「神秘」を獲得し、晩年は「沈黙」する。
単に輝きを発するよりも照明する方がより大いなることであるように、単に観想するよりも観想の実りを他者に伝える方がより大いなることである(2)
と言いつつ、
「レギナルドゥスよ、私にはできない。私が見、私に示されたことに比べると、私は書いたすべてのことは藁屑のように見えるのだ」。(39)
なんとも感動的。
かなり散漫なまとめだけど、まあいいや。

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