2020/06/26

『日航123便 墜落の新事実――目撃証言から真相に迫る』 青山透子 河出書房新社

またもや積読していたものが文庫落ち。なので急ぎ読んだ。

「後部圧力隔壁修理ミス」というのが公式の事故原因となっているが、これはアメリカ側の先行報道によって作られたものだとしている。修理ミスであれば、「仕方がない」ですむし、でもトランスワールド航空800便墜落事故というのがあって、こちらは軍事訓練での誤射という見解もあるらしい。Wikipediaでは陰謀論のくくりにされているけど。

被害者の遺体が完全な炭化まで進んでいたこと、二機のファントムが航空機を追っていたにもかかわらず、墜落現場が不明と報道され、救助活動も(意図的に?)遅れていたこと、しかもこの二機のファントムは調査書には記載がないこと、航空機と並行して飛んでいた赤い円形もしくは円錐形の物体のこと、など不自然なことが多い。

著者のとりあえずの結論としては、武器によって誤射かどうかわからないが、撃たれたのかもしれないというもので、真実は闇の中になってしまっている。
これも仕方がない。資料がないし、返却もされないし、改竄だってさてているから。
陰謀論と片付けるのは簡単だが、被害者や関係者からすれば、要らぬ詮索をされてしまうのも仕方がない。情報が正直に公開されないからだ。

ただし全体的にノンフィクションとしての出来はあまりよくない。もう少しゲル状燃料(ガソリンとタールの混ぜ物)とジェットエンジンとの燃焼比較などの検証がもっと欲しかった。
他に米軍や自衛隊の事故当時の行動の詳細なども、もっと詳細があってもいいと思う。
ノンフィクションとしての強度が足りなかったかな。だから批判が出やすいものになってしまっている。

Wikipediaではかなーり詳しいく書かれているが、ただ2020年6月26日時点での記事は、上記の疑問に対して記述がない。唯一、脚注に一件あるのみ。
これはどうなっているのか。他のことはかなり詳しく書かれているのに、青山さんへの批判もなにもないし、参考文献に記載がない。
なんかいろいろと勘繰ってしまいますねー。

2020/06/25

『死を悼む動物たち』 バーバラ・キング/秋山勝訳 草思社

「死を悼む」とはなんでしょうか。近しい人の死に直面して、「悼む」のはなぜなのでしょうか。
「悼む」のは人間だけではなく、多くの哺乳類にも同様の本能があるようです。
感情というのは本能であって、人間が後天的に獲得するものではないし、人間以外の動物が感情を持っていないわけでもない。
「動物は本能で生きている」という認識は当然間違っておらず、そもそも悲しんだり、怒ったり、笑ったりするのも本能だということです。

社会生物学的に見ると本書で上げている事例は、なんら実験によって裏付けられるものではないし、単に死に対して行った行動を人間が自ら感情を動物たちに投影しているにすぎないと見られかねない。
科学的根拠はないのだけれど、でもですね、科学的根拠ってなんかなくても、見てればわかるというもんです。

動物たちは機械的にあらゆる行動を起こしているわけではない。様式は人間と異なるにせよ、動物たちは目的、意図があり行動している。さらに外部からの刺激で怒ったりだってするでしょう。
動物に感情がないというのは、一種のデカルト主義でしかなくて、他者が思考や感情の存在証明も原理的は不可能なのだから、結局は独我論でしかないわけです。

「悼む」というのは人間を含めて機械的な感情として本能に埋め込まれているものにすぎないのかもしれない。「悼む」ということは、複雑でもなんでもない感情なのだろう。
人間も「悼む」ことするが、じつは大したことのない感情かもしれない。

2020/06/24

『メディアと自民党』 西田亮介 角川新書

高木徹氏の書いた『ドキュメント 戦争広告代理店――情報操作とボスニア紛争』とを読んだとき、ぼくらが考えている「メディア」の理念がどれほど間違っていたのかを思い知った。その後、テレビで報道されるニュースに対して、信用なんかできなくなったし、何か裏があるんじゃないかと勘繰るようにもなった。
メディアというのは、世論を操作する技術だということを思い知った。

『メディアと自民党』を読んで驚いたのが、小泉政権のころまで自民党ってそんなにメディア戦略をもって政治をしていなかったことだ。
あんまりメディアを操作するということに、良くも悪くも、あんまりいい印象がなかったのかな。
これはちょっと驚きでして、もっとどす黒い何かがあると思っていたのに。
けっこう安倍政権になって自民党がメディアに頻繁にでてくる印象はあった。それは討論番組にではなくバラエティ番組に安倍ちゃんが出演したり。
でも、けっこうソフトなやり方なんだよね。本書読んでいても、なんかけっこうフツーな広報で、巨悪がない感じ。むしろ巨悪は電通だとかに感じちゃう。
アメリカのマスメディアの方がもっと世論操作が露骨と考えると、日本のメディアって真面目だったのかもしれませんね。
本書、資料的価値が高い、珍しい新書でときどき見返すことになるかな。出典が明確だから、それもとてもいい。

笑っちゃたのが小泉内閣の郵政民営化のとき、小泉政権の支持者である、「(政治について)具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」を「B層」と位置付けていたこと。しかも小泉は政治はデータではなくて広報であることを知っていたこと。
ぼくは当時、学生ながら小泉さんはかなりおもしろい人物に見えたし、郵政改革もよくわからないけど、心のなかでは応援してましたよ。
『TVタックル』や『そこまで言って委員会』『朝まで生テレビ』なんかを見て、政治の勉強だと思っていた当時が恥ずかしい……。

西田さんは指摘しますね、オールドメディアが自民党に圧倒されていると。悲しいですね。
2020年の現在、その傾向はますます強くって、そしてマスメディアがますます広報の場になっているが、しかしまあメディアってそんなもんだと思うしかない。
んで、もっと悲しいのが、どこからどこまでが自分の考えで、どこから広報の影響なのか、自分自身でわからないことだ。

2020/06/23

『消費低迷と日本経済』 小野善康 朝日新書

菅直人政権のブレーンにして、消費税増税の提案者である小野先生ということで批判的だったけど、安倍政権に変わり早7年が経ち、なんだか経済は良くなったとかいうこともなくはないが、かといって失われた20年は30年になり、なんだかなーといった感じ。
かれこれ十年ぐらいい前に、小野先生の著作『金融』(岩波書店)、『貨幣経済の動学理論――ケインズの復権』(東京大学出版会)を読んでいるが、あんまり覚えていなかったけど、今回『消費低迷と日本経済』を読み、記憶が蘇ってきた。

小野先生の考えは、つまり消費がある基準を下回る状況、需要が非常に低いときには、金融緩和してインフレを期待させても消費は上がらず、消費者は消費をせず資産を増やそうとする、そしてデフレになるというもの。
デフレ下では貨幣へのフェティシズムが発生するし、企業は効率化や生産性向上を目指し物価は安くなる傾向があり、さらにその影響で雇用環境や失業者が増加していって、さらにデフレ、とスパイラルに陥る。

生産性と効率化とは言うけれど……
ずいぶん前から日本の生産性の低さが問題になっているが、それに対する解決策がIT化というのだから、バカバカしいとは思っていた。よくFAXがやり玉に挙げられるが、FAXを使用することで生産性が落ちるとか意味がわからない。そもそもの問題の本質はそこではないだろう。
生産性の低さ、というのは本質的には賃金の安さからくる。単純にいえば給料を上げれば生産性は向上する。
たしかにこれまで日本の企業が作り上げてきた構造が、韓国や中国など新しい構造に負けることはある。これらの国では一週間でできることが日本では一か月以上かかるとかね。かなーり深刻でぼく自身も、融通のきかなさには辟易するわけですが。
だから、ここで問題なる生産性というのは労働者が、1時間で生み出せる価値の問題であって、給料を上げてやれば必然的に価値が上昇するから生産性があがるけども、給料を上げるためには売り上げが欲しいから一か月かけないで一週間で仕上げられるように効率化が必要になる。
だけど、ぼくが仕事をし始めてから20年近くになるが、正直かなり巷で言う「効率化」は進んだ。メールもいまじゃデフォルトで使うし、外回りしていても携帯でやり取り出来て超便利。
製造工程、生産管理でも改善が進み、ブルーカラーの人数が減る一方です。
でも、給料は増えていない。ぼくの場合は転職で給料アップしているが、日本全体では増えちゃいない。
なんでですかねー。

供給側の話ばかりの現代
とまあ日本は苦しんでいる。成熟社会となり、洗濯機にしろテレビにしろみんな持っている状況で、消費が思うように回復しない。各企業が行っている効率化は、消費者の消費意欲を高めるものではない。もしそれによって雇用が失われるならば、逆に企業にとっては消費減退となり、さらに苦しくなり、そしてさらに効率かして……というスパイラル。
そして効率化によって、他社より安い製品ができても、需要が増大しないならば従来のパイのなかでのシェア争いになるだけで、日本経済全体にとってはプラスでもない。
だから重要なのは需要でって、供給ではない。
基本的な前提として、日本は生産能力が余っていて、単純に需要が不足してる。

税と再分配
まず、日本の資産の半分を保有する高齢者に年金という現金を渡すのではなく、クーポンに変えること。現金を貯蓄にさせないため、だけど老後も不安なく生きていけるように。
そして少子化や人口減自体は問題ないとする。むしろ人口が多ければ生産性が低くなる。これはおもいしろい指摘ですね。

配偶者控除をやめる。ぼくもこれはなぜ続けているのか疑問で、配偶者控除をしている家庭って基本的に配偶者がそれほど働かなくてもやっていける家庭ってことでし。共働きしないとダメな場合、配偶者控除は受けられないし配偶者控除を受けられない家庭のほうを税免除してあげる方がいいと思うのだけれど。いづれはこちらは撤廃の方向だとは思うけど。

んで、重要なのは女性が労働市場にでることは大賛成ですが、けど需要が伸びないなかで、企業は効率化を推し進め、結局労働市場のシェアを男女が取り合うということになっている。雇用機会がなけりゃどうしようもない。

増税して財政支出を増やす。そうして雇用を守れ、そうすれば消費は増える、ということ。

インフレターゲットへの批判
ぼく自身、インフレターゲットに期待を寄せていた。民主党政権のときから多くの人がやれやれといっていたし、安倍政権になって岩田規久男さんが日本銀行副総裁になったりでとっても期待しておりました。
最初はどこからインフレターゲットを聞いたのか。クルーグマンからだと思うから山形浩生あたりかな。高橋洋一かな。
大胆な金融緩和が効果がるのは、お金の増大が物の購入に結びつくときで、日本の場合は消費に回らず蓄財となってしまった。株価は上がったが、資産が増えても消費が増えないから給料が上がらない。
インフレ誘導は、一時的な景気後退の際には使える。でも長期低迷している日本では使えない。

増税という選択
んで、ここからが小野さんがなぜ増税へと行くかがわかる。小野さんは、日本が長期の不況にあり、需要が著しく低い。そのとき需要を回復させるには財政出動を必要とする。で、その原資をとるために増税を唱えるわけだ。そしてこの消費意欲が低い状況で、消費税を数パーセント上げたところで、一時的な買い控えはあるにせよ、長期的には影響がない。
これね、ぼくもそうかもなぁと最近では思う。
ぼくは経済学の理論的なことはわからないのだけれど、消費税増税で景気が悪くなるってのは、たしかに2%上げれば、本来市場でこの2%分は流れていたお金の流れがなくなるのだけれど、小野さんがいうように財政出動すればいいし、それに2%の増税で消費意欲は減退するのはするけど、そもそもお金を使おうとしない今日この頃、どれほど影響があるのでしょうね。


現在、NISAとかiDeCoだとか少しづつ広まっているが、この動きもどうなんでしょうね。
所得税を減額されるというメリットがあるけど、でもさ、払えよ所得税。小野さんも言うように公共サービスは無料ではない。よいサービスを受けるためにはそれなりの出費が必要なんだし。
それにだよ、資産を増やすっていうのも、ぼくの哲学からしても受け入れられない。小野さんが言うように、これは「貨幣へのフェティシズム」でしかない。
また、iDeCoOだとか信じられないのが、元本は保証しないし、それに現在の株価が正常なのかどうかぼくは判断できないというのがある。株を政府が買って、株価維持をしている状況ですから。本当に政府はNISAとかiDeCoを勧めてもいいと思っているのかな。
ここ二十年、三十年という月日で、政府は株価を面倒みるつもりなのかな。それって健全なのか。

望ましい財政支出とその効果
小野さんの提言は下記。
1 生産力増強や金儲けではなく、国民の質の向上に結びつく。
2 民間の製品の代替品ではない。
3 安定した雇用創出を継続的に保証する。
これらの特徴を備えるものとしては、芸術・観光インフラ・教育・医療・介護・健康などがあろう。(152)
さらに小野さんは乗数効果を重要視していない。10万円をばらまいたところで、
あるのは10万円を分け合った各生産者が消費者としてお店に行く効果、つまり通常の乗数効果だけだ。10万円を一人で受け取ろうが数人で分け合おうが、また、働いてもらおうが一時金で受け取ろうが、合計金額が同じである以上、乗数効果を通した消費拡大の合計も同じはずだ(175)
となる。
さらに小野さんは乗数効果の存在自体を疑っている。
保有している金融資産と将来の所得の見通しで人々の購買力は決まる。現在、日本では所得は変わらず、金融資産の保有額が伸びている。つまり資産もっている状況でにもかかわらず消費が伸びないのだから、これ以上資産を延ばすようなことをしてもだめ。
しかも、乗数効果の計算自体、現実にありそうな貯蓄率を使うと非現実的なほど大きくでてくる。つまり貯蓄率がゼロだったりすれば、回ってきたお金は全て消費に回されるから景気への刺激が大きいとなるはず。
でも現実の政府の数字は、0.2と低い。
つまりあんまり乗数効果を論じても意味ないようです。

ちょっと勘違いしていた小野さんへの認識
小野さんは、菅直人のブレーでもあり、増税派でもあるから、「大きな政府」よりに思えて、保護主義的みたなのが、関税撤廃を主張する自由貿易を推しているし、人為的な為替操作も市場を歪めるだけだけだというし、なかなかいい感じ。
関税撤廃については、まさにすべき。本書でも乳製品を例にとっているが、はっきりいって日本でチーズだとかバターとか高いですよ。
貿易の本義は生活を消費者の生活を豊かにすることであるし、外国産の米だってぼくは欲しいわけ。それは安いからではなくて、料理の幅が広がるからですよ。
小野さんは、生産者が苦境に陥るならば補助金で補填すればいいという。このあたりが現実的な解でしょう。
成熟経済は成長経済とは違い、内需が停滞して、企業の稼ぐ場が失われてしまう。安易に不満を回避しようとすると、外には保護主義、内にはばらまき財政に向かう。自体は悪化するばかりだ。解決には、政府がきちんと公的サービスを増やし、消費者もみずから内需を増やすしかない。(192) 

2020/06/17

コロナ騒動について

いまのうちに現在のコロナ騒動について、ぼくなりの考えを書き留めておく。忘れないためにも、後日自分の考えが変わったりしたときのために。

まず、ぼくは新型コロナウイルスの蔓延で都市封鎖も外出自粛も反対の立場。
その理由は、社会は感染症を受け入れてきたのにもかかわらず、なぜ新型コロナは「やばい」と考えるのかがわからないからだ。日々発表されている数字を見ても、別に恐怖ではないはずだ。感染症はコロナだけではない。

飲食、接客商売もすべて行政の指示を無視すればいい。
政治や行政はバカだとかなんとか言う割には、なぜ行政が作成したガイドラインに応じるのか、意味がわからない。
北九州の小学校でクラスターが発生したとき、テレビで防護服を着た人たちが消毒液を散布している映像を流したが、なんと感性のない連中だろうと思った。学校関係者も同様でなぜ消毒液の散布を指示し許したのか。それによって子供が受ける印象を考えなかったのか。感染した子供への影響だとかも考えないのか。そんな感性の持ち主が学校を取り仕切っている。消毒液の散布なんかいるのかよ。本当に効果があるのかよ。
接客業やライブハウスのガイドラインを見てもわかるだろう。一読、バカがつくったのがわかる。そんなものに従うことはない。

いや、行政側もわかっているのかも、意味がないことを。でもやらなきゃやらないで、うるさいし、いい塩梅で適当な感じでとりあえず作成したり、対処すればいっかというところでしょうか。でも、それが世に広まって基準になったりするんで、ああーといった感じ。
ぼくが通っているジムではマスク着でないとだめだが、従業員もジムでマスクしたって意味がないことぐらいはわかっている。でも、やらないとなんかダメっぽいので仕方がなく対策をやっている感じですね。みんなハアハアしながら運動して、汗を拭いて、その手でベタベタ器具に触って、水を飲みたいからマスクの着脱は何度もして、またその手で器具触って……みたいな(笑)。
ガイドラインと現実とはかくもかけ離れたものでして、通常では、基準作りは現実に沿ったもので考えるべきだし、しかもジムしろレストランにしろ、多種多様な営業がなされている。飲食業だって形態はいろいろ、お店の間取りはいろいろ、一律のガイドラインを提示すること自体が不可能です。
ガイドラインは「指針」であって、「要請」でも「強制」でもないのだから、守る必要はない。

PCRをもっとやれというのも正直何を言っているのかよくわからない。ふつうは症状がでたら、確認のために検査をする。でも新型コロナでは無症状の人にまで広げている。理由は感染を広げないためだという。
そもそも無症状の人がどれくらいいるかもわからない状況で可視化することもできないのだし、クラスターを追うことにいかほどの意味があるのか。クラスターを潰したって潰したって、無症状の人が感染させるかもしれないなら意味ないだろう。
ウイルスはゼロにできない。しかももうすでに誰が感染しているのかわからない状況。クラスター潰しの意味はあるのか。
ちなみに、新型コロナの特徴は「無症状」が多いとかいう言説があるが、んなばかな。インフルエンザだって無症状はいっぱいいる。一般的にウイルス保持、菌保持していれば症状が必ずでると考えているのかな。バカが多いことだ。

気持ち悪いのは、医療従事者への、スパーだとか小売店、インフラ関係者への感謝とかいうやつ。
社会というのは、いろいろな人が支えあって出来上がっている分業社会なんですよ。
見えないところで、誰にも感謝されない職業なんて山ほどありまして、結局、医療従事者とか小売店というのはわかりやすいからにすぎない。あらゆる仕事を支えている裏方の裏方だっていっぱいあるのだよ。防護服をつくるため、資材、機械、メンテナンスその他もろもろ、多くの人が関わっている。
分業社会では、なくなってもいい職業もあるけど、なければならない職業というのも同時にないのだ。すべてが代替可能なのです。

公共空間で意味もなくマスクをしていることに反対。
ぼくは電車でもマスクしない。なぜかといえば、それがぼくの倫理だから。
おそらく周りがしているからなんとなくしている、しないと気まずいという理由で、マスクをするという人も多いはずだ。外に出れば、猫も杓子もマスクしているのが異常に思える。
少しづつだけど、マスクをしなくてもいいんだという人を増やす意味でも、ぼくはマスクをしない。
周りの人に感染させるかもしれないだって? そんなもの社会生活をしていれば当たり前のことじゃないか。風邪だって誰かからもらってくるものだ。それで死んだって誰の責任でもない。それが人間の社会だろう。いちいち責任論を持ち出すな。

とくに欧米では、けた違いの死者がでているが、これはなぜなのかが疑問。欧米とアジアを比較すると明確で、衛生観念の違いで説明できる範囲を超えている。BCG仮説、遺伝、人種などの説明が有効かと思う。
アジアの政策が優秀なのではなくて単に欧米の上記の理由以外での社会構造などもあるかとも思う。
アジアが特別なのではなくで、欧米諸国が異常なのだ。

西浦教授は責任があるだろう。彼が日本におけるバカ騒ぎの引き金の一つだからだ。たしかに政治家が煮え切らなかったところもあるだろうが、でもその煮え切らなさがよかった。
西浦さんは良心に則り8割削減を訴えたのはわかるけど、その良心が問題でもある。科学者のコミュニケーション問題も明らかになった。西浦さんは国民を信頼しすぎている。国民の8割はバカであることを忘れてはいけないし、個人とは別に集団心理というものもあることを知らなかったのはまずい。

安倍ちゃんはメディアでの政権批判に負けることなく、のらりくらりと対策を緩やかにやっていた。意図していなかったのかもしれないけど、ぼくは安倍ちゃんは真の政治家だと初めて思った。世論に負けることなく舵取りをしていたからね。
いま現在も、はっきりとしないコロナへの姿勢は、ぼくはかなりいい感じだと思う。
こういう時、生き生きと何かを語る人間は信用すべきではない。そういった面でも安倍ちゃんは冷静だし、記者会見で原稿を読みながら語るなんて悪くないと思う。
総理大臣に勇気づけてもらいたいとか、もっと安心感がほしいとか言っちゃってる奴は民主主義の敵だから選挙権を取り上げるべきだ。

感染して、死んでも、諦める。ぼくらはこれまで病気とそうやって共存してきた。
インフルエンザで肺炎が多くなっても都市封鎖も外出禁止もしなかった。
感染症対策をやめろというのではない。過剰に騒ぐなというだけ。日本政府がコロナに関する感染者や死者数を仮に誤魔化していたとしても、大した数ではないだろう。
ミクロで見れば個別の悲しみは存在する。肉親がコロナにかかり肺炎になって死んだとかね。でもね、そんなミクロな話だけでマクロを語るな。ミクロな話を続ければ、我々の社会は消滅しますよ。

コロナが未知だからっていう奴もいるが、バカ言うな、未知のウイルスや病原菌なんてコロナだけじゃない。しかも未知なものなんか、ウイルス以外にも山ほどある。
そもそも未知のものを恐れるって、思考としてだめですね。
知らないのに怖いって、それはバカということです。ぼくはコロナウイルスを知らないから怖くないのです。

ということで、ぼくのスタンスはコロナなんてどうでもいいと考えている。
コロナ騒動は間違いなくマスメディアの罪だ。朝から晩までコロナを報道する。しかも内容は暗いBGMに暗いナレーションで……。
テレビの報道は、醜悪だった。
んで、よくわからないのが、そんなワイドショーや報道番組の影響力が、こんなにも大きいということだ。
いや、大きいと錯覚しているのかもしれない。
Twitterを見れば、コロナを怖がっている人やワイドショーを鵜呑みにしている人を簡単に見つけることができる。冷静に考えれば、こんなのただのノイズなんだが、SNSの恐ろしいところは、「世論」を形成していると錯覚してしまうところだろう。リツイートが100ぐらいあれば、なんか集まった感があるし、でもそんなの類は友を呼ぶで、大したことはないんだけれど。
SNSやメディアの少数の意見が循環し、増幅している感じでしょうか。まどか☆マギカの「円環の理」みたいな。

ぼくは自民党支持でもないし安倍ちゃんを基本的には支持しないけど、バカな野党のポピュリストがトップでなかったことに良かったと思っている。

2020/06/16

『トマス・アクィナス――理性と神秘』 山本芳久 岩波新書

トマス・アクィナスの著作はおそらく生涯読むことはない。なのでこういうアンチョコ本は教養として役に立つ。でもこの本はただアンチョコではないのがよかった。

「知性的な実体」を神や天使、「理性的存在」を人間としていて、この「知性」とは「全体を把握する直感的な理性のことである。『知性認識する(intelligere)とは、可知的な〔知性によって理解可能な〕真理を端的には表すこと」である。
人間なんてしょせん観察と考察でもって、ようやく真理に到達できる存在にすぎない。
とはいっても人間にも「知性」があり、「善」を志向することは、理性の働きによってではなく直感的な「知性」の働きで、人間は「知性」と「理性」を持ち合わせていることになっている。
ただし、「理性」の限界というのがあり、「永遠」だとか「時間の始まり」だとかは、理性で論証的できるものではない。
「神秘」を理性だけで知ることはできない。
神に隠された「神秘」は啓き示されることによって、その「神秘」に触れることのできた人々と神との新たな積極的な関係が築き上げていくきかっけとなる。人間の理性の力のみでは到底知ることができず、神のみが知っている神秘を、神は人間と共有することを望み、そのことによって人間と神との新たな関係性が紡ぎだされていくのだ。(46)
そうした「神秘」を決定的な仕方で人間に開示してくれた存在こそ、イエス・キリストにほかならないのである。(47)
神学の基本的な姿勢といっていいのかな。世界全部を認識できないけど、そのとっかかりを作ってくれたのがイエスであるってのは、そうなのかーとなるんだけど、単純に新約聖書を読んでも、どうしたらそこまで深読みできるのかがいつも不思議なんですよね。

「愛」の定義は難しい。
passioは「受動」と「情念」の意味があり、外的な刺激によって感情が生まれてくることがよく表れている。トマスは情念の根底には「愛」があるといい、旧友や家族について、外的な刺激で揺さぶられる感情によって、悲しんだり喜んだり怒るのは、まさに「愛」ゆえであるとなる。
そして「愛」の定義を言えば、「欲求されうるものが気に入ること」というふうになっており、それぞれのものに固有の「欲求される可能性」を示していて、欲求を顕在化しているかしていないかは人それぞれ、変化していく。これは趣味の問題でもあるけれど、ただし趣味は「最善」に収斂されていくものでもある。
この「最善」の話というのは、ある種のエッセンシャリズムで、「最善」なんてないだろうと、ポストモダニストのぼくは考える。この「最善」への志向ってのはどこか郷愁を誘うものがあって、そして危うい。

トマス・アクィナスといえば、やはりアリストテレス。
アリストテレスは「賢慮」「正義」「勇気」「節制」の四つの徳(枢要徳)を重視し、トマスははそれを引き継いでいる。
人生において、訓練を積み重ねていくことで、整えられた情動を有することができ、それは「節制」という徳を有することである。
「無感覚」であることは、喜びや快楽に無関心であることで、それは「節制」に反するし、そして欲望をコントロールしたり、我慢する意志は良いことだが徳ではない。「節制」というのは訓練によって獲得できる徳となっている。
そしてこの「節制」は理性だけでなく、「親和性による認識」でも得ることができ、つまり、躾、欲望充足の在り方を習慣によって、自然に感じられるようになり、自ずと人柄が形成されていく。
「訓練」といえば、フーコーを思い起こさせる。

宗教にとっては信仰問題は重要で、とくに「理性」を重んじるなら、「理性」で「信仰」をどう捉えるのか。ただ単純に信じればいいというのではなくて、それだと単に迷信になるのかな。
「信じる」ということは、「知る」ことと対立したり矛盾したりするのではない。むしろ「信じる」ということ自体が、「知る」ことの一つの在り方であり、また、何かを深く「知る」ための大前提ともなる……常に他社を疑い、確実な証拠なしには誰のことも信用しないという人がいたとすれば、その人は、理性的で健全な判断の持ち主と見なされるのではなく、むしろ、過剰で不合理な疑いに陥ってしまった不健全な判断な人物とみなされるであろう。」(115-116)
信仰は徳である。なぜなら「徳(virtus)」は「力」であり、「信仰」は事柄をみる「力」だからだ。神を認識するには間接的にしかできない。神は隠れたぼやけたものだが、「人間は、現世における自らの『知性の受容力』を超えたものが存在するということを確として承認する――すなわち信じる――ことができる」。
「徴」としての奇跡は必然性がないが、だからこそ積極的な意義があり、信じるかどうかは人間の自由意志によるとなる。誰かに説得されたり、外的な要因だけで信仰をするのではなく、「恩寵によって内的に動かす神」が重要となる。
人間は、恩寵の助けによってはじめて、「永遠の生命につりあった功徳ある業」を生み出すことができるようになる。こうした業を生み出すためには、たしかに恩寵の助けが必要だが、助けを受けたうえで業を実際に為し遂げているのは、自由意志に基づいて行為する行為者自身にほかならないのだ(156)
人間は神から与えられるばかりではない。与えられた力は人間固有の力として内面化していく。だから信仰についても人間の意志や知性だけでなく神の恩寵も必要となる。
そして、幸福というのは神から人間に与えられるという一方向のものではなく、双方向からのもの。
キリスト教といえば隣人愛だが、しかし自己愛が隣人愛の先立つとトマスは述べている。
んーこのあたりはわかりづらい部分で、簡単に言えば自分に満足というか余裕がなければ、人を愛せないってことなのかな。

トマス・アクィナスは書く営みから「神秘」を獲得し、晩年は「沈黙」する。
単に輝きを発するよりも照明する方がより大いなることであるように、単に観想するよりも観想の実りを他者に伝える方がより大いなることである(2)
と言いつつ、
「レギナルドゥスよ、私にはできない。私が見、私に示されたことに比べると、私は書いたすべてのことは藁屑のように見えるのだ」。(39)
なんとも感動的。
かなり散漫なまとめだけど、まあいいや。

2020/06/15

『女帝 小池百合子』 石井妙子 文藝春秋

ぼくは前回の都知事選では小池百合子に票を入れた。増田寛也とかなり迷った。で、どうして小池にしたかと言えば、やはり地方自治体の政治ってのは国政よりも注目度が低いなかで、「ドン」だとかいっぱいいて云々というので、まあ小池が一番だろうと、増田では改革はないだろうと、まあそう考えた。けど蓋を開けてみたら、都政は何か変わったのかな。ぼくはどうも小池に騙されたようです。

学歴詐称とアラビア語について
本書、全面的にはうなずけない。とくに小池百合子の留学時代を描いたところはあまり感心しない。
まずは小池のカイロ大学の卒業については、カイロ大学が卒業していると主張しているなら、もう仕方がないと思う。首席かはともかく卒業しているというなら、もう「信じる」しかない。
アラビア語については今現在アラビア語がしゃべれない事は当然だし、文語(フスハー)が稚拙だとしても正直どうでもいいこと。
同時通訳を本当にしていたのか、など経歴詐称をしている可能性もあるけど、たしかに大きな問題だとは思うが、本書がいうようにエジプト側、中東関係者と小池が「利害一致」しているならな、とことん追求していってほしいとは思うが、今のところ大きな争点にはなりにくいでしょう。

「名誉男性」小池
女を武器に男の世界でのし上がったというのは間違いないが、でもそれは男社会で構成されている政治の世界では仕方がないし、田嶋陽子さんの批判、「父の娘」だとか「女性蔑視の女性」または「内面は男性化されている」というのは、わからないでもないけど、この手の批判はあんまり有効ではないと思う。
このフェミニズムの批判は危うくって、男が女社会に溶け込もうとすれば男性性は変わるし、つまり環境によって自らのアイデンティティは変容していくってのはフツーのこと。確かなアイデンティティなんて幻想で、それは外的環境にあわせていくこともある。
それに「名誉男性」として振る舞わなければならないところに悲哀もないわけではない。

同居人の証言
留学時代については同居人の証言でほぼ出来上がっているのはかなり微妙でしょう。その証言の信憑性の裏付けがなくてもいいけど、それだけで強引に小池の人間性に方向づけするのはいただけない。
同居人の証言は断片しか本書にはないが、拾って読むと、同居人の小池への同情というか共感もないわけではないような感じもする。
それに小池が留学時代に遊びばかりしていた、というのこれが本当でも別段いいでしょう。留学したら羽目をはずしたいし。勉強ばかりするのも、遊びをするのも、嗚呼青春ですよ。

本書における小池観
全面的にこの著作の記述が本当であるとすれば、小池百合子はすげー人物であることは否定できない。本書での小池の人生観にはまったく同意はしませんが。
確固たるビジョンと政策をもって一国の主を目指す人がどれだけいるのかどうか。信念をもって政治家をやっている人もいるだろうが。
それに、そのような上昇志向自体は否定できないものだし、たまたま政治家という職業を選んだにすぎないところもあるし、そういう人が選挙で勝ってしまってよくないというなら、それは選挙民のせいでしょう。だって民主主義なんだから。
小池が、細田、小沢、小泉と渡り歩いてきたのだって、政治家としてどうかとは思うが,
世渡り上手だと関心こそすれ非難しようとは思わない。
土井たか子や野田聖子ら女性議員への敵視もそりゃべつにいいでしょうよ。ぼくだって世渡りしている人間なので、ある程度共感しますよ。

政治家としての小池
ただし政界進出からの記述については、これから都知事選があることもあり、読んでおくべき箇所である。
水俣病のこと、アスベストのこと、普天間基地のこと、豊洲のこと、これらすべてについて小池は何もしていないどころか、停滞させ混乱させ、解決困難な状況にしている。
小池が政治家としてなしたことは、クールビズとか受動喫煙防止とかくだらない政策だけなのかもしれない。
今回のコロナ騒動でも小池は醜悪だった。「ロックダウン」という言葉を使い、メディアに餌をまきやがった。マスメディアのバカっぷりは今始まったことではないが、あまりに扇動的な報道に嫌気がさす。小池はメディアの使い方を知っている。まさに日本のゲッペルスだと思う。
コロナの状況は豊洲のときも同じだ。騒ぎまくって、結局なにも残らなかった。
動物殺処分ゼロにしろ、これは絶対に嘘だし、統計方法や基準や概念を変えれば簡単にゼロは達成できる。
電柱ゼロだって、別に小池独自の政策でもなく東京では約30年にわたって行われてきた事業なわけで。んで、小池になって何か変化がおきたのか。
いろいろな政党を渡り歩いきたというのは、やはり人間として信用できるかどうか難しい。政党というのは会社とは違って自らの信念を投影するものだし、転職とはわけが違う。これだけでも政策を実行するよりも、名を売る方に重点を置いている感じは否めない。

本書を読み、小池は事を実現するにあたって組織を動かすということを知らないのかもしれない、もしくは関心がない。
ぼくはしがない会社員だが、計画を実現させるにあたっていかに組織を動かしていかなければならないかはある程度はわかっている。口で活きのいいことを言えば物事が動くわけではない。
協議し、悪口を言われ、オペレーション基準を作成し、そして悪口を言われ、妥協し、仲間からは日和見主義と陰口を叩かれ、どうにかこうにか組織を動かし、動きを監視し注意し、そして悪口を言われ、何とかプロジェクトが終わってから、なんとなく評価される。
ぼくは民間だから法的な障害はないし、公正さも重要ではないのでまだやりやすいが、都政となれば配慮すべきところや事務手続きはかなり多いものと想像できる。
小池はこの「地道さ」や「地味さ」をすっとばしている。
ビジョンを語ること自体は悪くないが、それを政策や計画に落とし込んでいく作業がなければ、実効性がない。そういう面からすれば、小池はアウト。
政治はビジネス同様に結果責任で考えるべきであり、生き生きとした言葉を連ねる政治家は信用できない。

総評
んで、この本の評価は、中の中。小池の取り巻きについても記述が少ないし詰めが甘い。秘書の水島明宏や野田数だとか、トンデモな人物が取り巻いているということしか言ってないような感じだし。
とにかく内容はおもしろいが絶賛できるほどではない。小池像があまりに単純だし、あまりにこの単純な小池像に沿った話でまとまりが良すぎる。
人間は矛盾の塊なのだから、こういった一貫性をもった人物像はありえないし、描き方、追求が薄っぺらい。
とはいいつつ、小池が何をやってきたのか、平成史としてはおもしろかったでございます。

蛇足
現在では小池が再選確実と見なされているが、本当にそうなのかな。小野泰輔氏や宇都宮健児氏が都知事選でどれだけ伸びてくるか。けっこう反小池はいるはずなんだが、選挙で世論がどうなっているのかわかるから愉しみだな。
トリビアで「トルコ風呂」を「ソープランド」に変えたことに一枚噛んでいたとは。

2020/06/04

『古文書返却の旅―戦後史学史の一齣』 網野善彦 中公新書

良書。
1950年、水産庁が漁業改革の面目で資料保存のために東海区水産研究所内に月島分室をつくり、のち財団法人日本常民文化研究所月島分室になる。宇野脩平はソ連のアルヒーフを目指していたという。
1954年、水産庁は時節柄、予算を打ち切り、月島分室には日本各地から集めた膨大な古文書残ってしまう。

宮本常一なども古文書を借りたまま返却をしなかったというのはなかなか興味深い。
日本歴史学の裏面史をみることができて、そして史学というのはけっこう地味な学問であることがよくわかる。古文書を集めて、修復し、目録をつくり、整理して、写真をとって、写本をつくって…となかなか地道ではないですか。
ぼくなんかあくまで歴史学の成果の表面しかなぞっていないものからすると、これは好きな人間じゃなきゃできないなと感じ入る。
みんな借りたものが返せず、心に傷を負っていたのもいいですね。
それと網野が水産庁の中央水研に資料の保存、整理などをする分室をつくる過程をみていると感動的で、行政を動かすだけでなく、行政側も積極的に動いていく過程というのがみえる。
組織を動かす、組織と仕事をするとは何かを見ることができると思う。網野さんもとうに「観念的な左翼」ではなくなっていたでした。
古文書の修復も、この返却作業から広がっていたという。東京大学史料編纂所の中藤靖之から技術を学んでいったという、なんとも地味じゃないですか、いいですねー。

古文書返却の歴史とは日本史学の歴史でもあることがよくわかる。そして網野史学の形成が垣間見られる。
網野の本はかなり影響力が大きく、歴史だけでなく哲学だとか文学などにも及んでいる。そして網野の史学の強みというのは、古文書を解読という基礎から成り立っているので、そんじょそこらの歴史アンチョコ本とは違う。
ぼくらは安易に網野史学を使うことは危険を伴うが、網野の場合、この基礎があってこそもの。

学問の地味さがいいですね。

2020/06/01

「おお、大砲」司馬遼太郎短篇全集四

和州高取の植村藩の中書新次郎はブリキトースという家康の大阪の陣で使った大砲を管理する役目をもつこになる。さらに新次郎は金峰古流という小太刀剣法皆伝をもち、そのシルシに独鈷と「洞川行坐山林絵図」を譲り受けていた。
新次郎は次男のため家を継げず、京へいき蘭学を学ぶ。平山玄覚という浪人が訪ねてきて、金峰古流のシルシを譲ってほしいといわれる。新次郎は了承するが、後日試合をすることになる。しかし、新次郎は高取に帰ることになる。
帰った早々、妙と婚儀を行うことになり、ブリキトースを管理する笠塚家に婿入りをする。使い方を口伝で、しかも他の大砲方は秘法ということで何も教えてくれない。仕方がないので、自分で研究していく。新次郎はすでに蘭学をおさめていたこともあり化学のいろはをしっていた。
天誅組が高取に攻めてくることになり、新次郎は大砲だけで蹴散らしていく。他の大砲方は使い方もとうにわからなくなり、またはひびがはいっていたり使い物にならず、新次郎のみの大砲で天誅組を追っ払う。
遠目でみると天誅組のなかに玄覚がいるのをみる。
明治になり、洋館の工事現場で玄覚をみつけ、大砲を撃ったのは自分であることなどを語る。その後二度と会うことはなかった。
「侍のころは、ばかばかしいことが多かったな」

司馬さんが好きそうな話です。新次郎という近代主義的な人間と、旧弊に取りつかれた能無したち。
このあたりぐらいから、司馬遼太郎の近代主義者的なところが前面にでてきている。
ブリキトースという「古代兵器」を神仏のように拝むだけで、発展させることもせず、無為にすごしてきた江戸時代。
平和とはこういうものだろう。