2017/11/11

『「音楽の捧げもの」が生まれた晩――バッハとフリードリッヒ大王』ジェイムズ・R・ゲインズ /松村哲哉訳  白水社

「宇宙のハーモニーというのは、バッハの時代の哲学者や科学者、神学者たちの共通する考え方の一つである。たとえばニュートンの場合、このような秩序ある世界が「自然発生的な要因」のみでできあがったとはとても考えられなかった。そこで彼は、「強力で不死の主体的存在は、……この世界の指導者というだけでなく、すべてを支配する至上者として君臨している」という結論に達した。ニュートンのいう主体的存在とは、ルターのいう天上の対位法作家であり、この作家の生み出す声部は、多くの惑星が描く軌道と同じように幾重にも積み重なってハーモニーを奏でるのである。

単純な旋律の周りを、三つ、四つ、あるいは五つもの声部が生き生きと動き回るような音楽を耳にすると、私たちは驚嘆を禁じ得ない。……それは天上の舞曲を思わせる。

天上の舞曲が何にもまして崇高な響きを聴かせるのはカノンだった。カノンはもっとも厳格な対位法が適用される楽曲であり、曲全体がたったひとつの旋律的なフレーズからできている。このフレーズはさまざまな間隔を置いて。そしてさまざまな調性に変化しながら繰り返し現われ、さらにリズムや店舗が変わったり、旋律の進行が後ろから前へ、裏返しに、上下逆になったりする。少なくとも理論的には永遠に演奏を継続できる。アンドレア・ヴェルクマイスターは、宇宙と対位法の類似性をルターよりさらに明確に指摘している。

天空はしっかりと回り続けている。よってひとつの星が今のぼっていったかと思うと、またその方向を変え、今度はさがっていく。……われわれはこうした天空や自然界に見られる動きを音楽のハーモニーに取り入れた。つまり一番上の声部が一番下の声部に、または真ん中に来ることもあれば、それが一番上に戻ることもある。……[カノンの場合]どの声部も旋律は同じであり、ほかの旋律がつけ加えられることもない。」65-66

バロックまでの作曲法は、個人の感情を表現するために理論を使うのではなく、特定の感情を喚起させるため(アフェクト)に作曲法を用いていた。それがフィグーラであり音楽修辞学である。
「「音楽によって説教する」……彼らは自分たちを、個人的な考えや感情を「表現」する芸術家ではなく、ひとつの任務を与えられた専門家」101
啓蒙主義がもたらしたものは、世界は客観的に観察できるものという錯覚であり、自らが見えるものだけが信じれる世界であるという高慢な考えである。そしてエモーショナルな個人的な表現を尊ぶ運動が起こり、音楽は大いなる連鎖から剥ぎ取られ、極めて個人主義的なものへと堕した。共同体の悲しみ、共同体の喜び、共同体の慈悲を奏でるのではなく、私の感情を奏でる音楽へと変貌する。

「ハルモニア(調和)は理想であると同時に現実だった。……宇宙は「予定調和」によって神がコントロールしており、宇宙はこの予定調和にもとづいて神が創造し、定着させたものだという……神は最大限の完全性を備えている。」142

芸術は理性か感性か。
「人間の努力がつくりだしたもののなかで、ほかのいかなるものとも共通点を持たない音楽の日は、概念的な言語を必要としない。つまり言語による説明を求めないし、それが提供されることもない。目に見えないものが明白で、偉大な宇宙の力が常に正常に機能している世界からやってきた音楽だからこそ、バッハのように遠く離れた時代の作品であっても聴く者を深い感動へと導けるのだろう。バッハの音楽は何か声高に論じようとはしないが、豊かな響きが聴く者を震撼させるポリフォニックなクレドであれ、……その作品に耳を傾ければ、この世界が単に時を刻むだけの機械ではないことを確信できるのだ。」327

多様性による統一。
音楽は哲学であり、科学であり、数学であり、神学であり、そして宇宙論を語り得る。19世紀から連綿とつづく、ロマン主義の音楽がいかに窮屈であるか。この存在の大いなる連鎖が紡ぐ音楽が、現代の孤絶した音楽、音楽のための音楽、芸術のための芸術、という偏狭な思想のもと、非常に魅力的に映る。芸術のための芸術が、どのように作品を評価し得るのか疑問に思う。漠然とした抽象的な「芸術」は概念的ではない。芸術は芸術を語れるのか。むしろ哲学、数学、神学が、芸術を語ることでようやく芸術は評価されることを可能にする。19世紀のロマン主義はこの存在の大いなる連鎖から音楽を剥ぎ取る運動のことだ。

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トリオ・ソナタはギャラント風で書かれているが、教会ソナタ形式で書かれている。つまりフーガーを伴う。フリードリヒ大王が好んでいたギャラント風に教会ソナタをちいれるという皮肉。「音楽の捧げもの」自体、10のカノンが含まれており、フリードリヒは、カノンをサーカスの曲芸のようなものとして嫌っていた。啓蒙主義時代の哲人王はバッハの音楽を理解しようとしなかったが、啓蒙主義ののちの世代の芸術も理解しなかった。
んーーフリードリヒ大王の時代の精神史とはなんであるか。



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