2019/05/10

『デザイナー・ベイビー ゲノム編集によって迫られる選択』 ポール・ノフラー 中川潤訳 丸善

原書が出版されたのが2016年なので、最新というわけではないけれど、クローニングや遺伝子組み換えについての現状をしることができた。でもそれほど刺激的な内容ではなかった。全体をざっくり知るにはいいかもしれない。
まだまだ技術的に、生まれてくる子供の遺伝子をいじって、青い目、金髪、筋肉質な身体などの指定まではできないようだ。しかも技術的な難点もあり、いじってしまうと派生して他のどこかに影響を与えるかもしれず、そのあたりが未解決の模様。
CRISPR-Cas9という最新のテクノロジーによってかなり正確に遺伝子を変更できるようになっているらしい。ネットなんかで検索すると、2019年時点ですでにCRISPR-Cas9を第一世代とみれば第二世代へと移行しているよう。
本書で問われている生命倫理については、まあこんなところかといった感じ。特筆すべきところもないかと。自分の子供を病気への耐性や身体の強化などが一般的にあんれば、デザインしない方がむしろ倫理的に悪と見なされるようになるというのは、2002年の「ガンダムSeed」でナチュラルとコーディネータの関係なんかでもやってたし。
なかなかおもしろいのが、アメリカ、インディアナ州では1900年初頭から1970年代まで、「赤ちゃんコンテスト」というのをやっていたということで、「白人の教育を受けた丈夫な子ども」を理想としていたという。『Eugenic Nation: Faults and Frontiers of Better Breeding in Modern America1(Alexandra Minna Stern)という本があるらしい。誰か訳さないかな。
人種差別、障害者差別は優生思想とは関係なく存在するし、そもそもこの優生思想自体、人間が逃れることができない感情であったり、欲望であったりする。
内なる優生思想には、ぼくもある程度共感するし、理解もする。障害者が健常者の社会に適用しようと努力したり、健常者へ憧れをもったりなど、そこには障害をもっていることがマイナスであることが前提になっていて、障害をもっていてもいいんだ、というポジティヴな感情を否定している。それは仕方がないことなのか、克服?すべきことなのか、そうではなくて、そんあふうに思わせてしまう社会がいけないのか。
人は他人と自分を常に比較している。優生思想をもうちょっときちんと定義したほうがいいとは思う。内なる優生思想は人間一般がもっているもので、それは全て否定されるべきものかどうか。かっこよくなりたい、マッチョになりたい、スマートになりたい、頭が良くなりたい……いろいろと欲望があるけど、このあたりの欲望は優生思想なのか。大きく見ればそうだし、でもそう言い切ってしまうには違和感もある。
このような日常の欲望や憧れと社会構造の差別へ変わる感情との境界線を引けるような理屈があるものだろうか。感情だから、自分で律しなければならないのかもしれない。とするとだ、人間そんな立派ではないから、人間革命を求めるしかなくなる。

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