2019/05/02

『新復興論』 小松理虔 ゲンロン

マスメディアやSNSでは極端な言説ばっかりになっている。ちょっと人権派っぽい発言をすれば「パヨク」だし、ちょっと天皇を擁護すればウヨクだし。いつからかこんな感じになってしまったな。かつては極論を闘わせる「朝まで生テレビ」だとかをよく見ていたが、いつのまにかどうでもよくなって久しい。政治的なネタにたいして、ほんとどうでもいいと思うようになっていってしまった。その契機が、僕にとっては東日本大震災後のメディアや知識人たちのあり方だった。討論番組をみれば、極論が横行していた。一人一人のコメンテーターや知識人は、おそらくそんな単純な思考はしていないとは思うが、テレビという媒体によって、極論へと編集されていく。そして極論を楽しめなくなったし、その極論がなんちゃってではなく、まじめな言説として広まっていっている。そんな議論を多くは望んでいないにも関わらず。
小松さんは、「中庸」の立場で本書を書かれていて、言ってしまえば退屈な内容なのかもしれない。原発推進、反原発を強く押しだしているわけでもないし、放射能の安全性や危険性を声たかだかに叫んでいるわけでもない。だから、刺激的な内容でもなんでもないのだけれど、でもそれがいま多くの、どっちつかずで過ごしているマジョリティの心に、真摯に訴えかけてくるものがある。
「観光客」として福島と接するをコンセプトに編まれている。どうしても外部である人間が語ることをはばかれる復興を、当事者なんて誰もいない、いやみんなが当事者だということで、お役所的な復興ではないものを提示している。不謹慎でもいいじゃないかという精神がやっぱり必要なんだな。まじめに考えることもいいけど、まじめに考えないで行動することが、正義をふりかざざした言動をかわすきっかけにもなる。眉間に皺寄せていればいいってもんでもない。
第三部のいわきの芸術運動については、僕は全く知らない世界でもあるのでおもしろかった。蔡國強の回廊美術館、UDOK. 玄玄天のこと。
草の根なんていうとカビの生えた言葉で余計なものもついてくるけど、まさに草の根というか、意図せずして「場」ができあがっていく。それが僕らが社会とつながる接点になる。一昔前ならそれが会社であったかもしれないが、現代ではそれもむずかしい。
震災とは関係なくできあがっていく場、それが地域の文化を作り上げられていく。表側の観光ではなく裏側の観光をとおして芸術が生みだされていく。炭鉱やソープランド、そして原発が芸術へと昇華していく。
文学や芸術が、どうも軽んじられ、得てして金儲けか反権力かどちらかでしかないようなものが横行しているなかで、芸術や文学のあるべき姿が福島の土地で出来上がっていく芽が多くあるようだ。
ただし、少し冗長な内容であることは否めない。また福島をバックヤードとして位置づけるというのも、わからんでもないけど、地方はだいたい同じだ。下請け孫請け会社が地方の工業団地だけではなく街中には今でも多くあり、名も知れない中小零細企業がひしめき合っている。むしろ日本の地方は、東京、大阪、福岡などの大都市のバックヤードといっていい。

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