丼池銀座、北久太郎通でガタ政こと駒田政吉は、いとはんに十二年ぶりに会う。戦中、手代として働いていた鳩仙堂の老主人から娘桃子との結婚をすすめられる。戦争に若いものは全員招集され、行末もわからない、そこで政吉に店をついでもらおうということになった。しかし政吉は事故にあい、びっこをひくようになり、結婚の話も流れ、居たたまれなく政吉は店をやめる。その後、政吉は丼池で「台」をもち、繊維を扱うようになる。
「おんどれ、今に見てくされ」
政吉は、紙くずのように捨てた主人と裏切った桃子への反発心で、一心不乱に働き、ガタ政と呼ばれるようになる。
大学教授とあだ名される床屋の主人が引抜屋の娘の縁談をもってくるが、政吉は承諾しない。大学教授は桃子の話をする。桃子は学生と駆け落ちをしたが、男が甲斐性がなく、生活は失敗する。そして実家に戻るも親は死に、従兄夫婦が家督をつぎ、しかたなく一緒に住んでいるが、落ち着かないから職をさがしているという。
ある日、政吉は床屋に行き、顔を剃ってもらっていると、それが桃子だと気づき、髪も切らず床屋をでる。
床屋の帰り道、亀屋伊予の前を通ると、商人の勘でこの店が潰れたことをさとる。政吉がいずれ潰れると予想し、その後店を買おうとしていた。しかし予想より早く買う資金がない。そこに大学教授が現れ桃子のことを話す。じつは桃子には資産があって、結婚する際はそれを一緒に政吉に譲る心づもりだと。
政吉はそれを聞いて激怒する。
「が、がしんたれ! おのれは、このわいを何と見くさった。丼池のあきんどは、金にゃア、汚い。金のためなら、馬の糞でも舐めてやるが、魂まで金で売買せんぞう。……ええか、よう聞きさらせ。わいは、な。ほんまを云えば、いとはんが大好きやったンじゃ。今でも、好きで、好きでたまらンわい。そやが、……そやがそんな話を聞いた以上、もう嫌じゃ。死んでも、嫌じゃ。帰ってくれ。帰れ! 塩オ、まいたるぞ」
大学教授は、そこで話したことは全部嘘だという。
「ハッハッハッ、とうとう、泥オ吐きよった。儂の知恵に負けたか。」
桃子はそばでやりとりを聞いていた。政吉は、仲人料をとられた、とつぶやく。
とてもいい作品。テンポもいいし、なんてたって関西弁のリズムがいい。谷崎潤一郎の関西弁もいいが、彼のはしっとりしているが、司馬さんのはいきいきとしていて、猥雑さがたまらない。それに丼池の描写も、現代日本にはないドブ板なかんじもいい。
小説としても、構成がかなりしっかりしていて、無駄がない。最後のオチも文句なし。
引抜屋というのがでてくるあたりも、1950年代の大阪町工場の喧騒な感じがでている。しかし、司馬さんはよく引抜屋なんて知っていたな。今では線引をする仕事は技術力が問われていて、そんじょそこらの町工場の域を越えているのだけれど、今ある会社なんかもともと町工場からスタートした。今でこそ技術力の日本とか言っているけど、当時は「引抜屋」でしかなかったのだ。最近の工場のやつらは、そういう歴史を知ってか知らずか、傲慢なものだよ。こういうちょっとしたディテールが小説の世界観を作り上げていくのだな。
長篇作品とは異なり、練りに練ったのだとわかる。司馬遼太郎が、巷で言う歴史小説家とはイメージが全く異なるものだろう。まさに小説家だったことがうかがえる。えてして司馬さんを歴史家と見なすことがあるが、それは司馬さんにとって非常に不幸なあり方なのだと思う。
司馬遼太郎は小説家であって、歴史家ではない。
『坂の上の雲』みたいな駄作を書かないで、こういう作品をいっぱい書けばよかったのに。
「おんどれ、今に見てくされ」
政吉は、紙くずのように捨てた主人と裏切った桃子への反発心で、一心不乱に働き、ガタ政と呼ばれるようになる。
大学教授とあだ名される床屋の主人が引抜屋の娘の縁談をもってくるが、政吉は承諾しない。大学教授は桃子の話をする。桃子は学生と駆け落ちをしたが、男が甲斐性がなく、生活は失敗する。そして実家に戻るも親は死に、従兄夫婦が家督をつぎ、しかたなく一緒に住んでいるが、落ち着かないから職をさがしているという。
ある日、政吉は床屋に行き、顔を剃ってもらっていると、それが桃子だと気づき、髪も切らず床屋をでる。
床屋の帰り道、亀屋伊予の前を通ると、商人の勘でこの店が潰れたことをさとる。政吉がいずれ潰れると予想し、その後店を買おうとしていた。しかし予想より早く買う資金がない。そこに大学教授が現れ桃子のことを話す。じつは桃子には資産があって、結婚する際はそれを一緒に政吉に譲る心づもりだと。
政吉はそれを聞いて激怒する。
「が、がしんたれ! おのれは、このわいを何と見くさった。丼池のあきんどは、金にゃア、汚い。金のためなら、馬の糞でも舐めてやるが、魂まで金で売買せんぞう。……ええか、よう聞きさらせ。わいは、な。ほんまを云えば、いとはんが大好きやったンじゃ。今でも、好きで、好きでたまらンわい。そやが、……そやがそんな話を聞いた以上、もう嫌じゃ。死んでも、嫌じゃ。帰ってくれ。帰れ! 塩オ、まいたるぞ」
大学教授は、そこで話したことは全部嘘だという。
「ハッハッハッ、とうとう、泥オ吐きよった。儂の知恵に負けたか。」
桃子はそばでやりとりを聞いていた。政吉は、仲人料をとられた、とつぶやく。
とてもいい作品。テンポもいいし、なんてたって関西弁のリズムがいい。谷崎潤一郎の関西弁もいいが、彼のはしっとりしているが、司馬さんのはいきいきとしていて、猥雑さがたまらない。それに丼池の描写も、現代日本にはないドブ板なかんじもいい。
小説としても、構成がかなりしっかりしていて、無駄がない。最後のオチも文句なし。
引抜屋というのがでてくるあたりも、1950年代の大阪町工場の喧騒な感じがでている。しかし、司馬さんはよく引抜屋なんて知っていたな。今では線引をする仕事は技術力が問われていて、そんじょそこらの町工場の域を越えているのだけれど、今ある会社なんかもともと町工場からスタートした。今でこそ技術力の日本とか言っているけど、当時は「引抜屋」でしかなかったのだ。最近の工場のやつらは、そういう歴史を知ってか知らずか、傲慢なものだよ。こういうちょっとしたディテールが小説の世界観を作り上げていくのだな。
長篇作品とは異なり、練りに練ったのだとわかる。司馬遼太郎が、巷で言う歴史小説家とはイメージが全く異なるものだろう。まさに小説家だったことがうかがえる。えてして司馬さんを歴史家と見なすことがあるが、それは司馬さんにとって非常に不幸なあり方なのだと思う。
司馬遼太郎は小説家であって、歴史家ではない。
『坂の上の雲』みたいな駄作を書かないで、こういう作品をいっぱい書けばよかったのに。