期待していた分、がっかりな内容。もっと倍音そのものを詳しく論じているのかと思いきや、西洋文化と日本文化の比較が際立っていた。倍音の声音と非倍音のそれとでは人間の受ける感じが異なるというのは、まあいい。でもそれを歌手や芸能人の声質を類型比較し論じているところは眉唾物だろう。しかも著者は非整数倍音なる概念を取り入れてきた。
しかも西洋文化は非整数倍音を少なくして、和音をつくりやすくしているだとか、日本文化は倍音の揺れを楽しむ文化だとか、なんじゃそりゃ。この人は倍音を理解しているのか。非整数倍音なるものを新たに定義づけるのなら、もっと丁寧に論じるべきだろう。必ずしも倍音は整数倍ではない。つまり、そもそも著者が整数倍音と非整数倍音を分けることがナンセンスだ。
また、日本人には虫の音を楽しむ文化があるが西洋にはない、みたいな安易な日本文化特殊論を語っているが、んなバカなことがあってたまるか。西洋でだってコオロギや蜂の音を楽しむ詩歌の例は普通にあるし、映画とか見ればわかるように、庭で黄昏たり、自然のなかでキャンプする際のシーンなんかでは、チロチロ虫が鳴いているだろう。そもそも西洋語だって虫の音にしろ自然の音をオノマトペで表現できる。たしかに日本語のほうが多いけど。
日本語話者は左脳の言語野で処理するから、自然の音は言語と同じように理解するとかなんとか。現在の脳科学では右脳左脳といった区分を機能で区分すること自体が否定されていると思うのだけれどもね。
密息なるもにについても書いていて、江戸時代の日本人は密息で自然に呼吸できたと。笑わせるなよ。なんだそれ。呼吸というのは無意識に行われる生命活動であって、それは心臓の鼓動や内臓の働きと同じで生物にとって自然な働きの一つだ。文化によって呼吸が違うなんてあり得るわけがない。この手の話はうさん臭くてやってられない。
密息を会得することで尺八の演奏に有利になるだろうが、江戸時代の日本人が行っていたかどうかとは別ものだろう。フルート奏者は、吹きながら鼻で息できるのは訓練の賜物だし、だからって西洋人は鼻をピクピクさせながら呼吸していたと一般化できないだろう。
久しぶりに読んだ、駄本。まったくもって評価できなし、評価する気もおきねー。
倍音は楽譜では表現できないとか、んなのあたりまえであろうよ。西洋の楽譜だって全てをカバーしているわけではない。だからこそいろいろな解釈がほどこされる。例えばチューニングがどうなのか、テンポは何が最適か、演奏方法やスタイル、アーティキュレーションや装飾音符など。そんなものすべてを楽譜に書かれているわけではない。日本の楽譜が特別なのではなく、西洋でもそうなのだ。
今年一番の駄本。
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