2017/11/30

Bach, The Violin Concertos, Zino Francescatti, 2530 242


Johann Sebastian Bach
The Violin Concertos
Zino Francescatti, Régis Pasquier, Festival Strings Lucerne, Rudolf Baumgartner
Deutsche Grammophon ‎– 2530 242, 1972



フランチェスカッティによる「二つのヴァイオリンのための協奏曲」。これがなかなか素晴らしい。テンポは非常に遅い。モダン楽器での演奏だが、これはこれでよく響いている。ロマンティックな演奏スタイルで基本的に好みではないのだが、古楽演奏の対極にある演奏で、今まさに聴くと逆に新鮮だ。この21世紀にこんな演奏されると、辟易してしまうものだけれども、レコードの素晴らしいのは、それは「記憶」であるため、距離をもって接することができる点だろう。そのため、新鮮かつ好意的に感じられる。シェリングのよりもいいと思う。
最近あまり古楽スタイルで聴くことが少なくなっており、購入してから2か月程度経ち、手に取ってしまうのがこのレコードになってきた。

2017/11/27

Wilhelm Kempff, Klaviersonate Nr. 31 As-dur Op. 110, Klaviersonate Nr. 32 C-moll Op. 111, LPM 18 045/ベートーヴェン ピアノ・ソナタ31番、32番 ヴィルヘルム・ケンプ





Beethoven
Klaviersonate Nr. 31 As-dur Op. 110
Klaviersonate Nr. 32 C-moll Op. 111
Wilhelm Kempff 
Deutsche Grammophon, LPM 18 045


ヴィルヘルム・ケンプの一回目のモノラル録音。
これを友人宅にて大音量で聴いた時、ケンプが目の前で演奏しているかのようだった。スピーカーはタンノイだった。僕が持っているONKYOのスピーカーはいい音がでると確信しているのだが、上を見ればきりがないようで。
二回目の録音では31番の第一楽章冒頭からケンプの演奏に引き込まれ、レチタティーヴォの第三楽章の嘆きは、本当に嘆き語っていたし、32番も16分の9拍子というなんともリズミカル?な拍子で歌われる第二楽章なんかも、情感豊かなもの。
しかし、一回目のこの録音はちょっと趣が異なり、演奏はあっさりしている。新即物主義的ななにかか。
ということで、僕の好みは二回目の録音。

『仏教思想のゼロポイントーー「悟り」とは何か』魚川祐司 新潮社

第一章 仏教は正しく生きるための道ではない。労働や生殖を否定している。世の流れに逆らう生き方となる。ブッダの目標は解脱・涅槃に至ること。

第二章 心が汚れていること「有漏(うろ)」。煩悩がなくたって汚れない状態「無漏(むろ)」。盲目的な慣習的行為を永久的に差し止めることが、悟りへの道となる。
mindfullnessは、一つ一つの行為に意識を行き渡らせ、無意識な行為を防止しようとする「気づき(sati)の実践。
諸行、つまりあらゆる現象は無常である。全ての現象が原因(条件)によって成立している。そしてかならず消滅する。これが縁起。
「苦」は、英訳でunsatisfactoriness。つまり常に満ち足りていない状態。
「無我」は「己の所有物ではなく、己自身でもなく、己の本体でもない」
すなわち諸行は無常であり、本体は存在しない。言葉を変えれば、本質なるものは存在しない。存在論の否定となる。故に「無我」なのである。
業とは、「行為」「作用」、さらにはその結果もたらされる働きのこと。
衆生が煩悩と業のはらたきによって、苦なる輪廻的な生存状態に陥る次第のことを、「惑業苦(わくごっく)という。
四諦は、苦諦・集諦・滅諦・動諦をいう。
生は苦であり(苦諦)、その原因は渇愛であうり(集諦)、それを滅尽させることであり(滅諦)、その方法が八正道である(動諦)。

第三章 仏教において出家するとは、俗世間からの脱出を意味する。俗世間の善悪を否定しないが、それを捨てること、そこから解放されていることが、解脱となる。つまり、「優れた人物」となるための道を説いているのが仏教ではない。たとえ阿羅漢になっても実社会では役立たずであるかもしれない。世俗の善悪や判断基準から離脱することが重要となる。一種のルサンチマンか? 故に仏教は世直しとは無縁となる。

第四章 「無我」と言う時、否定されているのは、「実体我」
「常一主宰」である。これは、つまり全て自らの身体をコントロールできるという幻想。
ブッダは非存在を主張しない。沈黙する。無記。
時間とは何か、空間は有限か無限か。霊魂とは何か。如来は存在するか。などの形而上学的な問にたいして無記をとおす。
「「私」と呼ばれる認知の場のどこかに、常住で単一で主宰する権能をもった実体我が存在していると考え、それに執着して苦の原因を作ることがあってはならない。だからゴーダマ・ブッダは、その認知の場を形成する諸要素の一つ一つ、例えば五蘊を列挙して、それが全て「我ではない」ことを指摘した。」91
輪廻とは幼虫から蛹になり、蛾となるようなもの。幼虫と蛾は同一といえるが、異なるとも言える。
「無我だからこそ輪廻する」。移りゆく姿は、縁起によって引き起こされる。それは連続していていること。現象が生起し、継起し、滅尽する。そして新たに生起し・・・といったプロセスが輪廻となる。何が輪廻するかという問いはナンセンスとなる。
もし輪廻ががなければ、単なるニヒリズムに陥る。修行する意味がなくなる。輪廻を前提としない修行は、無意味だ。なぜなら死ねば、すべてが終わると考えられるから。解脱への最短への道が自殺ということになる。

第五章 世界は認知によって形成される。この世の苦や輪廻から解放されるということは、この世界の外にでることではなく、「想と意とを伴って、この一尋の身体のいおいて」実現されるものである。
「世界の終わり」とは、認知を終わらせることではなく、「戯論寂滅」である。119
イメージ、物語は苦である。これから解放されること、あいのままの現象をみること、それが「世界の終わり」へと導く。
自らの煩悩に気づくこと、世界の現象に意識を行き渡らせることで、それを物語の発展させたり、執着することもなくなる。

第六章 解脱・涅槃は曖昧で抽象的なものではなく、具体的かつ、明確に達成し得るものであると、ブッダは説いている。
煩悩の流れに気づくことは重要だが、それだけでは足りない。その流れを根絶することも必要とされる。「根絶できた」という宣言をするには、なにかしらの経験が必要となる。それが「智慧」である。
「「悟り」の内容は「三明」であると言われる。「衆生死生智」「漏尽智」「宿住随念智」。
如実知見は概念的思考や日常意識を、禅定の集中力によって越えたところに認知されるものだから、そこで生じる智慧というのは、思考の結果だということはあり得ない。」139
解脱は理性や意思の操作外であること。
「生起が諸行であり、不生が涅槃である」
「五蘊の滅尽は常である涅槃である」
「五蘊の滅尽は楽である涅槃である」
全てが無常なのではない。涅槃は常である。涅槃は原因や条件によって形成されたものではないので「無為」といわれ、無常ではない、常となる。
「現実存在」する苦から目を背け、それを概念操作で「なかったこと」にしてしまうのではまったくなくて、苦の現実をありのままに知見し、その原因である渇愛を残りなく滅尽させることで、それを正面から乗り越えるためには、不正であり無為である涅槃の覚知を必要とする理由は十分にあること、そして、ゴーダマ・ブッダ自身もその領域の存在について語っていた」156
「涅槃とは一つの経験です。」159

第七章 慈悲について。「慈・悲・喜・捨」の4セットで慈悲。捨は、心の動きを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことをいう。なので悟ってから出ないと本当の慈悲はもたらされない。単なる利他的行動が慈悲ではない。それは「不仁」の境地。これは、非常のこと。
悟った後、ブッダは衆生に語ることをしなかったが、あわれみの心をもって、理解できるものには「不死の門」を開くことにした。
では、悟った者の中に慈悲が存在するとはどういう状態か。利他行動は物語なかの行動である。智慧と慈悲の併存。これは矛盾するものが併存していると考えられるが、そう思考してしまうこと自体が、物語のなかで考えていることになっている。
無意味と口にすることが、新たなる意味を生成している。これは人間のものつ根源的な欲望なのかもしれない。
「一部の利他行の実践へと踏み出すのも、もちろん「遊び」ということになる。彼らは「必要」だからそれをするわけはないし、「意味がある」あらそれをするわけでもない。「ただ助ける」ことにするのである」176

第八章 略。

以上。
テーラワーダ仏教の骨格がわかる。俗世間と出世間のかかわりなど、私なんかは大乗仏教に親しんでいたので、テーラワーダ仏教が結構冷淡に見えなくもなかった。
ただ、悟りとは何かが非常に概念的に理解できるものだというのが面白い。あと一歩はやはり智慧が必要だが。
第七章での「遊び」の解釈は面白い。悟ったからと言って優しい人間になるとか、そういうのが悟りでも涅槃でもない、それは自己の究極的な境地で、それに達した人にとって、世界の見え方が平静にみえ平等にみえる。そこには利他的な行動を起こすことへの欲望もなく、単なる自由意志として存在する。極言すれば、「遊び」だと。

2017/11/11

Joan Cererols, Vesper Beatae Mariae Virginis, Escolaniai Capella de Montserra, AMS 3526

Joan Cererols(1618-1676), Vesper Beatae Mariae Virginis(Marienvesper)

Escolaniai Capella de Montserrat
Ars Musicae Barcelona (Ensemble mit historischen Instrumenten)
Leitung: Ireneu Segarra
AMS 3526
1980年録音

Salve Regina(Antiphon)
Dixit Dominus(Ps. 109)
Laudate, Pueri(Ps. 112)
Laetatus sum(Ps. 121)
Nisi dominus(PS. 126)

Magnificat
Ave maris stella(Hymne)
Ave regina Caelorum(Antiphon)
Alma redemptoris mater(Antiphon)
Regina Caeli(Antiphon)

モンテヴェルディによる「聖母マリアの夕べの祈り」とは違う。ジョアン・セレロールスの作曲。モンテヴェルディのものと間違えて、このレコードを購入する。詳細は日本語でも英語でもネットには上がっておらず、わからない。ライナーノーツを訳す。しかし、なんと訳しにくい文章であること。いくつか全く意味がわからない箇所もあり。ラテン語の部分は、あっているかどうかわからない。致し方ない。いずれわかるときが来るかもしれない。
もし誰かこのブログを見てくれて、僕の訳の誤りとかを指摘してくれる日がくるかもしれない。そのためにライナーノーツの英文を上げておく。言い訳がましいが、ひどい訳で申し訳ない。

***
4つの詩篇が一つに統合されていて、細部には思いもよらない多様性がある。例えばDixit Dominus(主は仰せられる)は、対位法による開かれた構造(open-textured)の二声で始まり、一方ではLaudate,Pueri(ほめたたえよ、しもべたちよ)では、ホモホニックなコーリ・スペツァティで始まりながら、Laetatus sum(私は喜んだ)はソプラノのソロによって歌われる。テキストがソロの高音域に振られる場合、2つの聖歌隊は音楽による解釈を歌うことになる。さらに音を多様化させ、より動的な鋭さを達成するために、詩篇の節の各部分は幅のある抑揚によって締めくくられている。そのテキストの意味を最大限に引き出すためだ。
セレロールスは常に新しい音楽の波を自らのスタイルと交わらせながら、「音楽で祈る方法」としてだけ用いるのではなく、詩篇の特定の言葉における象徴的な解釈によって強化される何ものかと融合させる。その安らぎは印象深い。例えば、詩篇109のex Sion, dominare, tecum principium, non paenitebit eum(シオンから, 治めてください, あなたは王となった, 悔やまれたことはない)。そして詩篇112におけるsuscitans(立ち上がる)において、伝統的な民族舞踊の倍音を伴う歓喜の三拍子はとても効果的である。一方では、詩篇121は短調で幾分メランコリックな雰囲気であり、詩篇作者の目が「山を登る」を思い起こさせる。(?? 意味がわからず。英文を読解できず) 詩篇126の始めは見事な対位法であり、それは最後のSicut erat(ありしごとく)の中で繰り返される。もっとも印象的な箇所はVanum est vobis(主が建てたもうものでなければ)で、旋律とポリフィニーには本来の感覚が満ちていて、モンテヴェルディの1610年の有名なVespersを思い起こさせる。
Mary, star of sea(Ave maris stella)に対する聖歌の感動的な場面はまた、当時のいたって普通のグレゴリア聖歌の伝統の注目すべき一例である。セレロールスは第一、四と最後の節のみでポリフォニーを採用し、他の節はユニゾンで歌われる。しかし、これらの節は単旋律聖歌(グレゴリオ聖歌、上声部と通奏低音)の引用を含んでいるが、これらの単なる合唱の節に対する本当の演奏スタイルは困難なくして再構築できない。厳粛に抑制された聖歌は修道院の聖なる礼拝で瞑想にふける雰囲気のためのものなのは明らかである。つまり、最初と最後の節は直接、単旋律聖歌の旋律にもとづいていて、4番めの節はより自由なポリフォニーの様式で書かれている。
4つのマリアのアンティフォン(交唱歌)は、典礼の年の四旬節に対応している。降臨祭(Advent, Alma redemptoris mater(救い主の麗しき母))から聖霊降臨節Whitsuntideと降臨祭(Salve Regina, 元后うるさしき母)の間の数週間だ。技術的な理由のた、このレコードの両面の間で、この配列は分けざるを得ない。しかし、モンテセラート(カタルーニャの山)の音楽の伝統がアンティフォンSalve reginaにあると考える特有の重要性に、特別な関心が払われていた。数世紀の間、厳粛なの多声音楽のSalveは、黒い聖母(the Black Madonna, the Virgen morenata、カタルーニャのモンテセラートにあるベネディクト修道院にある聖母像)の前で、モンセラート修道院聖歌隊(Escolania)によって、午後一時に日々歌われてきた。
この4つのアンティフォンの様々な特徴は典礼のおのおの雰囲気によく合っている。降臨祭Avent(Alma redemptoris mater)と四旬節と受難節Lent and passionitide(Ave regina caelorum)のための厳粛なアンティフォンの聖歌は、喜びのアレルヤを伴った復活祭のアンティフォン(Regina caeli)の喜び表している簡潔さと対称的である。Salve Reginaの中で、第二声部は、反響を第一声部と共に歌う。まるで修道士の天井桟敷の上の身廊(nave)の他方の端で立っているかのように。作曲者はおそらく純粋に音楽の効果と同様に象徴的な効果を念頭においていた。夕べの祈りvespersと終祷complineは一日の終わりを告げ、まるで聖霊降臨節Whitsuntideと降臨祭Aventの間で長くゆったりとした数週間が時から永遠への移行のように、そしてキリストの再臨parousia(Second Coming of Our Lord)を長く待ちわびていることかのごとく、象徴していると言えるかもしれない、
*****


Antonio Vivaldi Le Quattro Stagioni Societa Corelli, RCA ITALLIAN, LM-20026

Antonio Vivaldi
Le Quattro Stagioni
Societa Corelli, RCA ITALLIAN, LM-20026

録音時期は不明だが、1962年以前。ジャケットに書き込みあり、1962年に贈物と書かれている。MONOの録音なので購入する。古い演奏スタイルだけど、軽快で躍動感が素晴らしい。近年の演奏には見られない即物的かつロマン主義的な残滓あり。かつてのバロック演奏とはこういうものだったと思わせる録音。

Pergolesi, Stabat Mater, Claudio Abbado, 415 103-1



PergolesiStabat MaterMargaret MarshallLucia Valentini TerraniLondon Symphony Orchestra • Claudio AbbadoDeutsche Grammophon, 415 103-1



アバドのスターバト・マーテル、一回目の録音。二回目の録音では、ピリオド演奏にかなり接近しているものだが、一回目の録音ではオーケストラは大編成で、雅で厳かな雰囲気を作りだし、重厚な美を響かせている。二回目ではリュートを使ったり、編成を少人数にしたりと、アクが抜けたような、こちらも好演奏だったが。どちらが良いかというのは好みの問題になる。どちらがより「再現」されているかといえば、二回目になるが、しかし古楽イデオロギーを取り入れるのもいいが、やはり一回目の演奏のほうが聴く人間を深く感動させるものだと思う。最終的には、音楽はアーノンクールが言うように、どのようによりよく響かせることができるか、それが問題なのだろう。一回目のほうがより響いている。

しかし、このスターバト・マーテルなんか聴くと思うが、ペルコレージの時代にはマリアに、なんというか、人間性を見ようとしていた時代だと感じる。神性を見るのでなく、自らをイエスに投影し、マリアへの愛を謳っている。この曲はマリアの悲しみを謳っているのだが、そうではなくイエスの母への愛を謳っている。ペルコレージの母への慈しみに溢れている。ここには聖母マリアという神格化された像は見えない。

Goldberg Variation BWV988(Clavierubung IV), Wilhelm Kempff, MG2210


Goldberg Variation BWV988(Clavierubung IV)
Wilhelm Kempff
Deutsche Grammophon, MG2210, 1969

初めてケンプのバッハを聞いた。ここまで優しさに溢れた演奏はない。冒頭のアリアはでは、装飾が除かれ、すっきりとしたものとなっている。これまで聞いてきたゴルドベルグ変奏曲とは、全く異なった曲の印象を与えている。リヒターの厳格さではなく、グールドの孤独ではなく。バッハの音楽を、おそらくは現代的なやり方で蘇らせた一枚と思う。チェンバロではなく、ピアノで弾くことの意義が見いだせる。チェンバロは、ゴルドベルグ変奏曲を一種のカテドラルのような構造物のごとく宇宙を奏でるが、ケンプのピアノはヒューマニズムを語る。ぼくはヒューマニズムが嫌いだけど、こんなヒューマニズムならいいなと思う。

Suiten Für Violoncello Solo Reine Flachot Wijnand Van Hooff, INT 192.514


Johann Sebastian BachSuiten Für Violoncello SoloReine FlachotWijnand Van Hooff, INT 192.5141972

レーヌ・フラショーによる無伴奏チェロ組曲。2枚組だが1枚しか入っていない。1、3、4番のみ。だから安く購入ができた。録音時期は不明。第一番のプレリュードは颯爽と駆け抜けるようなテンポ。朗々と響かせる演奏ではない。おそらく60年代後半から70年代前半の録音だが、ロストロポーヴィチやヨーヨーマのような、旋律に没入していくようなタイプの演奏ではない。有名曲でもあるので、多くの演奏を聴いてきたが彼女のような疾走感を味わえる演奏は無縁だった。なぜこの曲を弾くチェリストはみな似た演奏になってしまうのでしょうか。ビルスマの最初の録音に顕著だった、まさに舞曲を連想するようなものに近く、それに加えて爽やかさがある。

Symphony No6 in F Major, OPUS68 (PASTORAL) Erich Kleiber, DECCA, LXT 2872



Beethoven
Symphony No6 in F Major, OPUS68 (PASTORAL)
Erich Kleiber
The Concertgebouw orchestra of Amsterdam
DECCA, LXT 28721953N

エーリッヒ・クライバーの名演。ベートーヴェンの交響曲はやはりリズムや躍動感がよくて、ジョージ・セルのように流暢に流れる演奏は退屈だ。この曲は知人の家で、タンノイのスピーカーで大音量で聴いたが、音が塊で迫ってくるような、これこそモノラルといった音で、しかも第一楽章などは舞踏曲のような躍動感で忘れがたい。これまで聴いた6番のなかでは、これこそ6番だと思わせてくれる唯一のもの。

Maurice Ravel Bolero, Rapsodie espagnole, Pierre Dervaux Command, CC11007 SD/ラヴェル、ボレロ、スペイン狂詩曲、ピエール・デルヴォー、コロンヌ管弦楽団


Maurice Ravel
Bolero, Rapsodie espagnole
L’Orchestre des Concerts Colonne 
Pierre Dervaux
Command, CC11007 SD

ピエール・デルヴォーによるボレロ。スペイン狂詩曲は、僕はどこが良いのかよくわからない。ボレロはまさに倍音を極力排除しようとしたモダン・オーケストラのための音楽のようなもので、ボレロなんかを聞くとアーノンクールら古楽器演奏家が主張する、その作曲された時代の楽器やオーケストラ編成を採用することがその曲を良く響かせることだ、というのがよくわかる。奇をてらう演奏ではなく、しかし華やかさをきちんと演出していている。こういう演奏がなぜもっと名演として評価されていないのか。カラヤンやブーレーズなどの超有名指揮者のものは、それはそれで特徴的であるが、デルヴォーのような職人が評価されず、忘れられていくのは悲しいもの。
デルヴォーはハンブルグ国立交響楽団とも共演しているようだが、こちらは演奏が遅いようだ。未聴だが、見つけたら聴いてみたい。

Mozart, Requiem, Nikolaus Harnoncourt TELDEC – 6.42756


Wolfgang Amadeus Mozart
Requiem
Rachel Yakar, Ortrun Wenkel, Kurt Equiluz, Robert Holl, Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Concentus Musicus Wien, Nikolaus Harnoncourt
TELDEC – 6.42756



アーノンクールは二度、レクイエムを録音しているが、これは最初の録音。古楽演奏が当たり前になっている時代でもあるので、演奏の斬新さは、おそくら発売当時ほどのものではない。カラヤンやベームのような重厚で厳かなものではなく、シンプルな演奏になっていると思う。テンポは若干早め。一つ一つの楽器の個性がよくでている。ソプラノはシュワルツコップのような派手ではなく、素直な歌い方でよい。激しさと静けさのコントラストが明確にでている。ちょっとアクが強いものだけれど、カラヤンより遥かによい。

『イノセントデイズ』 早見和真 新潮社

メディアで繰り広げられる犯人像と実際の人物とは違うのだということは、多くの人が共有している事実だと思われる。このあたりを小説で書くことで、読者は愚民どもの上に立ったと錯覚できるものにできあがっている。周りの人間はメディアに踊らされた愚民で、自分は客観的にものを見ているといった思い違いだ。

描き方がすべてにおいて中途半端と言わざるを得ない。
まず第一に幸乃がなぜ不幸なのかが中途半端だ。たとえば友人の罪を被った際、少年院だかどこかに送致されるが、ここでの生活が全く書かれていないため、中学時代から一気に20代になっており、いつから幸乃はこんなに卑屈になり、心を閉ざしてしまっているかがよくわからない。そこで身を守る術、心を閉ざす術を学んだと書かれているが、幸乃がそうする必然性がどうもわからない。友人の罪をかぶったのだって、自分からだった。にもかかわらずこの小説では、「友人の裏切り」として描いている。
幸乃自身が、多くの人に裏切られたと言っているが、小説に書かれている裏切りは継父や祖母ぐらいで、我々読者には「多く」とは言えない。

次に、登場人物の書かれた方が中途半端。祖母はなぜ幸乃を必要としたのか、よくわからない。
翔はなぜ忘れていた幸乃を急に手助けしようとしたのか、よくわからない。
翔の誕生日がなぜ敬老の日に設定されているのか、よくわからない。
姉陽子が幸乃の事件をどう考えていたのか、よくわからない。涙がでなかったと書かれているが、どういうことなのか。陽子の気持ちが宙ぶらりんのままだ。
産科医の翔のじいさんの回想以降、じいさんは何度か登場するが、幸乃のことを知らないかのような感じだが、それではじいさんの孫が翔である必要性がなくなってしまう。この関係が全く生かされていない。
とまあきりがないのでやめておく。

整形した意味がよくわからない。もう一度やり直すためということだけど、なんだかね。「整形シンデレラ」というコンセプトがあって、そのあと理由を考えた感じかな。
桜の花びらのこと、それに塗りつけられた匂いのこと、何にも説明がない。小説のなかで、花びらも匂いもなにも出て来やしないのに突然すぎる。伏線がまったくない。こういうのが多い。

さらに、真犯人について。これはミステリーでたまに見かけるが、全く物語の中心とは関係ない人物が、突然犯人でしたというやつです。
この小説はミステリーではないが、ちょっと微妙な読後感でしょう。幸乃の冤罪ありきでむりやりとってきたようなやり方だ。
いただけないのは幸乃がこの事件をすべて引き受ける際の覚悟というか思いだ。なぜこの事件の罪を引き受けたのか。中学生のころの場合は、ある程度それがあった。未来がないと思うしかない自分が傷害と窃盗の罪を負い、ただ一人の友人を助けたいというか、そうするしか道がないと思わせるものがあった。ただ、この話の要である事件を引き受ける理由、縁というか、そういうものがない。

最後に、せっかく途中まで群像劇のような運びをしてるのだから、最後までそれを貫くべきだった。
メディアがしている報道のリンチ、未来を見ることができない人間の絶望、よいテーマなのに描き方が中途半端なため、表層的な作品となっている。

『ヨーロッパの帝国主義 生態学的視点から歴史を見る』 アルフレッド・W・クロスビー、佐々木昭夫訳 筑摩書房

『ヨーロッパの帝国主義 生態学的視点から歴史を見る』 アルフレッド・W・クロスビー、佐々木昭夫訳 筑摩書房

第三章 ノルマン人と十字軍
「東方ではヨーロッパ人は高度な文明をもった人口稠密な地に植民地を建設しようとした。フランク人の帝国主義の勝利の数十年を持ち、聖地に十字軍が存在した期間は、我々の時代にアルジェリアとインドをヨーロッパが支配した期間と同じくらい続いた。だが、十字軍国家は最終的に失敗に終わった。ラテン・キリスト教のファナティシズムをもってしても、土着の諸民族の数での優位を消し去ることはできなかった。とくに疫学的環境が侵略者の敵として作用する場合には、ヨーロッパ人は数で優った現地人を一時的に征服はできても、永久に支配下に置くなどということはとてもできない。」135

第四章 幸多き島々
「中世とルネサンス期にヨーロッパが植民地の獲得を目指した記録を手短に分析してみると、故郷ヨーロッパの境界をはるかに越えた遠い天地にヨーロッパ人が移住して植民地建設に成功するためには、次のことが重要であるとわかる。まず、将来有望な移住地は、その土地の様子や気候がヨーロッパのどこかと似ているような場所になければならない、ということである。ヨーロッパ人と、彼らとの共生しあるいは彼らに寄生する仲間の動植物は、真に異国風の土地に適応するのは不得意だが、適切な土地ならそこを次第に変えて新型のヨーロッパをつくりあげるのはきわめて巧みだった。第二に、将来有望な植民地は旧世界からできるだけ遠く隔たった土地になければならない。そうすれば、ヨーロッパ人と彼らの動植物を餌とするように進化してきた肉食動物や病原菌がいないか、少ないからである。その上遠いということは、その土地の原住民が馬や牛のような大型の家畜を全く持っていないか、もっているとしてもごくわずかであるという事を保証してくれる。つまり侵略者のほうが原住民よりも幅の広い動植物の家族に支えられていることになり、この利点はすぐれた軍事技術などということより、少なくとも長い目で見たときにははるあに重要だった。また、遠い距離ということは、新着者が不可避的に持ち込むことになる病気に対して、原住民が無防備であるということを確実にする。」183

第六章 達し得るが捉え難い土地
「アフリカはヨーロッパ人の手の届くところにある貴重品だった。だが、うっかりつかもうつすれば手に火傷をしてしまう。…アフリカは豊かで、人の気をそそり、しかしどうにもならない」232
「多湿のアメリカが人種的に混交の地になることを決定した最も重要な因子は、病気だった。」アメリカでは、疫病で黒人が大量に死んでも、さらに補充されていった。アフリカでは家畜をふy足すことも作物を増やすことも困難だった。アフリカにはヨーロッパ人の侵入を防ぐものがあった。

第七章 雑草
「オオバコやそのたぐいの植物がなぜ地球の全体を覆い尽くしていないのか、このあたりでひとつ説明しおく必要があるだろう。精力的に移住していく植物、つまり雑草はほとんどいかなる自体が起こっても生を保てるが、ただひとつ成功だけはだめなのだ。乱された土地を引き受けたとき、雑草は土壌を安定させ、焼けるような太陽光線を遮る。あれほど強壮に強かったのに、その場所を他の植物にとって前よりも住みよい場所に変えていく。雑草は植物界の赤十字ともいうべき存在で、生態博的異常事態に対処できるのだ。」277 そしてその後死滅する。この雑草の繁殖と土壌の改良によって、アメリカはネオ・ヨーロッパとなった。ヨーロッパの雑草が、アメリカの風景を一変させているのだ。

第八章 動物
雑草のように、いつのまにか、牛、豚、イヌ、猫、ねずみなどがはびこり、ヨーロッパ化することとなる。

第十二章 結論
「都市化、工業化、人口増加が加速されたとき、イギリスは一世紀半も前に自給自足をあきらめ、一八四六年には「穀物法」を廃止し、外国から輸入する穀物への関税を撤廃した。」470
ヨーロッパの帝国主義が、なぜうまくいったのかを生態学の視点から捕えている。これは結構衝撃的な内容で、歴史の見方を変えるもの。例えば、なぜ産業革命がイギリスだったのか、なぜスペイン・ポルトガルのような小国が世界に植民地を建設できたのか、なぜドイツ、日本は大国になり得なかったのか。そして現在のドイツが新たな帝国主義といわれる理由も見えてくるものだ。
自由主義と共産主義の戦いで、自由主義が勝利したが、多くの識者は共産主義の独裁制や計画経済に原因を帰そうとする。しかし、もともと共産主義国家となった地域はどこも、当時貧しいところばかりで、自由主義の雄であるアメリカ、イギリスの生産性には程遠かった。この事実がかなり歴史の分岐点を決するようなものなのかもしれない。

『「音楽の捧げもの」が生まれた晩――バッハとフリードリッヒ大王』ジェイムズ・R・ゲインズ /松村哲哉訳  白水社

「宇宙のハーモニーというのは、バッハの時代の哲学者や科学者、神学者たちの共通する考え方の一つである。たとえばニュートンの場合、このような秩序ある世界が「自然発生的な要因」のみでできあがったとはとても考えられなかった。そこで彼は、「強力で不死の主体的存在は、……この世界の指導者というだけでなく、すべてを支配する至上者として君臨している」という結論に達した。ニュートンのいう主体的存在とは、ルターのいう天上の対位法作家であり、この作家の生み出す声部は、多くの惑星が描く軌道と同じように幾重にも積み重なってハーモニーを奏でるのである。

単純な旋律の周りを、三つ、四つ、あるいは五つもの声部が生き生きと動き回るような音楽を耳にすると、私たちは驚嘆を禁じ得ない。……それは天上の舞曲を思わせる。

天上の舞曲が何にもまして崇高な響きを聴かせるのはカノンだった。カノンはもっとも厳格な対位法が適用される楽曲であり、曲全体がたったひとつの旋律的なフレーズからできている。このフレーズはさまざまな間隔を置いて。そしてさまざまな調性に変化しながら繰り返し現われ、さらにリズムや店舗が変わったり、旋律の進行が後ろから前へ、裏返しに、上下逆になったりする。少なくとも理論的には永遠に演奏を継続できる。アンドレア・ヴェルクマイスターは、宇宙と対位法の類似性をルターよりさらに明確に指摘している。

天空はしっかりと回り続けている。よってひとつの星が今のぼっていったかと思うと、またその方向を変え、今度はさがっていく。……われわれはこうした天空や自然界に見られる動きを音楽のハーモニーに取り入れた。つまり一番上の声部が一番下の声部に、または真ん中に来ることもあれば、それが一番上に戻ることもある。……[カノンの場合]どの声部も旋律は同じであり、ほかの旋律がつけ加えられることもない。」65-66

バロックまでの作曲法は、個人の感情を表現するために理論を使うのではなく、特定の感情を喚起させるため(アフェクト)に作曲法を用いていた。それがフィグーラであり音楽修辞学である。
「「音楽によって説教する」……彼らは自分たちを、個人的な考えや感情を「表現」する芸術家ではなく、ひとつの任務を与えられた専門家」101
啓蒙主義がもたらしたものは、世界は客観的に観察できるものという錯覚であり、自らが見えるものだけが信じれる世界であるという高慢な考えである。そしてエモーショナルな個人的な表現を尊ぶ運動が起こり、音楽は大いなる連鎖から剥ぎ取られ、極めて個人主義的なものへと堕した。共同体の悲しみ、共同体の喜び、共同体の慈悲を奏でるのではなく、私の感情を奏でる音楽へと変貌する。

「ハルモニア(調和)は理想であると同時に現実だった。……宇宙は「予定調和」によって神がコントロールしており、宇宙はこの予定調和にもとづいて神が創造し、定着させたものだという……神は最大限の完全性を備えている。」142

芸術は理性か感性か。
「人間の努力がつくりだしたもののなかで、ほかのいかなるものとも共通点を持たない音楽の日は、概念的な言語を必要としない。つまり言語による説明を求めないし、それが提供されることもない。目に見えないものが明白で、偉大な宇宙の力が常に正常に機能している世界からやってきた音楽だからこそ、バッハのように遠く離れた時代の作品であっても聴く者を深い感動へと導けるのだろう。バッハの音楽は何か声高に論じようとはしないが、豊かな響きが聴く者を震撼させるポリフォニックなクレドであれ、……その作品に耳を傾ければ、この世界が単に時を刻むだけの機械ではないことを確信できるのだ。」327

多様性による統一。
音楽は哲学であり、科学であり、数学であり、神学であり、そして宇宙論を語り得る。19世紀から連綿とつづく、ロマン主義の音楽がいかに窮屈であるか。この存在の大いなる連鎖が紡ぐ音楽が、現代の孤絶した音楽、音楽のための音楽、芸術のための芸術、という偏狭な思想のもと、非常に魅力的に映る。芸術のための芸術が、どのように作品を評価し得るのか疑問に思う。漠然とした抽象的な「芸術」は概念的ではない。芸術は芸術を語れるのか。むしろ哲学、数学、神学が、芸術を語ることでようやく芸術は評価されることを可能にする。19世紀のロマン主義はこの存在の大いなる連鎖から音楽を剥ぎ取る運動のことだ。

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トリオ・ソナタはギャラント風で書かれているが、教会ソナタ形式で書かれている。つまりフーガーを伴う。フリードリヒ大王が好んでいたギャラント風に教会ソナタをちいれるという皮肉。「音楽の捧げもの」自体、10のカノンが含まれており、フリードリヒは、カノンをサーカスの曲芸のようなものとして嫌っていた。啓蒙主義時代の哲人王はバッハの音楽を理解しようとしなかったが、啓蒙主義ののちの世代の芸術も理解しなかった。
んーーフリードリヒ大王の時代の精神史とはなんであるか。