下記、抜き書き。
「また生死の運命共同性の実貫を分有しているという点においても、むしろ非合理性を本質としており、流通範囲も感覚的に自己が同一できるかぎりの集団を出るものではなかった。封建制の組織化と拡大は、思想史的にはこうした原初的なエートスの合理化の仮定であって、そこに君臣の「義」とか「分」とかいう儒教的カテゴリーが浸透してゆく契機もあるわけである。」(15-16)
「日本においても、伝統的権威や上長に対する「反逆」は事実問題としてはむろん古代からしばしばあったけれども、原理への忠誠をテコとして「反逆」を社会的、政治的に正当化する論理は伝統思想のなかには、この天道の観念委が二はなかったといってよい。……「君臣主従の義」という「合理主義的」範疇が封建的階層制のあらゆるレヴェルにちりばめられたとき、それはけっしてたんに臣下の恭順を一方的に義務づけたのではなく、同時に「君」もまたある目に見えない、自然法的規範に拘束されるという考えも社会的に定着させていった。」(22)
「このように恩賞の「跡」よりも「意」に重点をおいた分析は前述のような忠誠感の文脈のなかでは一見するほど「精神主義的」ではなく、存外にリアリスティックなのである。」(25)
「けれどもこのような背逆をあえてした鎌倉幕府が何故九代も続いたのか。これをたんに「時勢の変」という状況追随的説明に放置せず、さりとてその規範主義的判断を著しく超越的=非歴史的に陥らせないためには、どうしても歴史に内在しながら同時に、具体的な政治的現実に超越する原理が必要とされる。ここに天道思想に基づく民本主義的理念が介入して来るわけである。」(26)
「福沢は、このあわただしい転変のなかで人間の社会的適応のさまざまな姿を――一挙にルーティンを破られた社会的大群が激流に浮沈しながらそれぞれ自我の生き方と拠り所を必死に模索するさまを、痛切な灌漑をこめて凝視したのである。一方では、「数万の幕臣は静岡に溝瀆に縊るゝ者あり、東京に路傍に乞食する者あり、家屋敷は召上げられて半ば王臣の安居と為り、墳墓は荒廃して忽ち狐狸の巣窟と為り、惨然たる風景又見るに堪えず。啻に幕臣の難渋のみならず、東北の諸藩にて所謂方向を誤りたるものは、其主従の艱苦も亦云ふに忍びざるもの多し」という状況があれば、他方には、「当初捌く第一流と称したる忠臣が、漸くすでに節を改めて王臣たりし者亦尠なからず。唯王臣と為って首領を全うするのみに非ず、其穎敏神速にして勾配の最も急なる者は、早く天朝の御用を勤めて官員に採用せられたる者あり」という行き方もある。しかも一時は憤然として、「義を捨つるの王臣たらんよりは寧ろ恩を忘れざるの遺臣と為りて餓死するの愉快に若かず」と言い放った「東海無数の伯夷叔斉」も、さて首陽山を下って見ると周囲の光景が一変しているのに驚き、「嗚呼彼も一時一夢なり、是も亦一時一夢なり。昨非今是、過て改むるに憚る勿れとて、超然として脱走の夢を破り、忽焉として首陽の眠を醒まし、……昔日無数の夷斉は今日無数の柳下恵となり、……大義の在る所に出仕し、名分の存する処に月給を得て、唯其処を失はんことを是れ恐るゝのみ。……絶奇絶妙の変化と謂う可きのみ」。……少なくとも彼がここで忠誠の転移の問題をまさに転向の問題として、自我の内側から追跡していることはあきらかであろう。「天下の大勢」という客観的法則はあくあでも法則であり、「勝てば官軍」という事実はあくまで事実である。しかしこの法則なり事実が自我の次元において忠誠移転の根拠となり、口実となることに福沢は我慢がならなかった。いわゆる絶対的な名分論がもし純粋に自我に内面化されたものならば、それは「盲目」であり「愚鈍」であっても、こうした滔々とした転向は生まないはずである。とすれば「今の所謂大義名分なるものは唯黙して政府の命に従ふに在るのみ」。したがって万一、西郷の企てに成功したならば、……逆に謀叛もできないような「無気無力」なる人民に本当のネーションへの忠誠をきたいできるだろうか」(44)
自由民権運動は、よくヨーロッパの受け入りのようなに言われるが、
「生活手段の固有性の実感に支えられていたかぎりは、たんなる船来イデオロギーでなかったし、それが失われた固有県の「奪還」からでても、あるいは獲得した財産の「擁護」から発しても、ともに当地帯と社会との二元論に立った「抵抗」の発送を生みださずにはおかない。(49)
「ここで蘆花が神戸老人に託して亡びゆく封建的忠誠の純粋結晶を描こうとしていることは明らかである。その際とくに注目すべきことは第一に、「君臣の義」や「旧主の為を思ふ忠義者」の確信がけっして主人の意思に対する恭順や黙従ではなくて、まさに諫争にあることが、ここでは当然の理とされ……「夥しい恩」を受けながら「誰一人諫言申す者」がないことは。「御家」没落の確かな徴候なのである。……神戸老人に象徴されるような社会的にちりばめられた形で存在していた「諫争」の精神もまた、明治が半ばをすぎないうちにすでに稀少価値として映じていた、ということにほかならない。天皇制的な忠誠の集中がたんに封建的忠誠をネーションワイドに拡大したものでない……皮肉にもその伝統のなかのサムシングが大量的に社会感覚から消たばかりでなく、まさにそのこと自体を蘆花のように鋭く見抜く眼が社会的に少数になっていた。つまりここには二重の「脱落」があった。」(87)
「その推移とは別の面から言えば、幕末維新における忠誠観念のすさまじい激突と混乱をもはや自らの経験のなかに持たない世代が、日露戦争善後から続々と成年期に達していた、ということである。この見えない世代の交替の意味を無視して、平面的=概括的に「明治的人間像」を語ることは出来ない。そうして明治四十年頃から大正初期にかけての時代が社会過程のうえでも、さまざまな「思潮」の天でも、明治二十年前後につぐ第二のエポックをなしているというの右のことを背景において考えなければならない。(87)
アパシィ、つまり無関心と個人主義について論じている。非戦論ではなく無戦論へと変化していく。それは国家を無視したものであり、忠誠と反逆の双方とも違ったものであった。新しい世代は旧時代を否定する態度ではない。
この現象は急激な都市化と人口流動、そして体制の官僚化と組織の硬直化が背景にある。大学卒業者は司会者の閉塞感や慢性的な失業で、「余計者」知識人がでてくる。
徳富蘆花、山路愛山、田岡嶺雲、三宅雪嶺の忠誠と反逆の精神史を読み解く上で、単なる反体制者としての位置づけはできない。「維新における忠誠の相克から天皇制的な忠誠の「集中」に至る過程を辿り、その背景の下に、福沢の「痩我慢の精神」から、田岡の「固摒」あるいは彼のいわゆる「チョン髷主義」までの、抵抗と謀反の哲学」を読み取っていく。
丸山真男は権力論を非常にフーコーと同じようなかたちで論じている。
「徳川体制の凝固化は、支配者対被支配者、つまり武士対庶民の身分的=価値的隔離にもっぱら依存せずに、むしろ羞恥のように支配層のなかに驚くほど細分された階層関係を設定し、さらにそれを被支配層におし及ぼしていくことによって完成されたのである。これによって五倫五常の規範体系はたんに「士大夫」だけでなく社会全体をつつみこみ、忠も孝も義理も奉公も分限も、商家や村などあらゆる微細な社会圏にまでちりばめられる。それら大小無数の閉鎖的な社会圏がこうした権威価値で一つ一つリンクされ地固めされた。」(165)
「異質な社会件との接触がひんぱんになり、いわゆる「視野が開ける」にしたがって、自分がこれまでに直接に帰属していた集団への全面的な人格的合一化から解放され、一方で同一集団内部の「他者」にたいする「己れ」の個性がじかくされると同時に、他方でより広く「抽象的」な社会への自分の帰属感を増大させる」(178)
「権力政治に、権力政治としての自己認識があり、国家利害の問題として自覚されているかぎり、そこには同時にそうした権力行使なり利害なりの「元かい」の意識が伴っている。これに反して、権力行使がそのまま、道徳や倫理の実現であるかのように、道徳的言辞で語られれば語られるほど、そうした「元かい」の自覚が薄れて行く。「道徳」の行使にどうしても「元かい」があり、どうしてそれを抑制する必要があろうか。「利益線」には本質的に元かいがあるが、「皇道の宣布」には、本質的に限界がなく、「無限」の伸長があるだけである。」(228)
内村鑑三の「第二の宗教改革」(282)、そして「矛盾について」(291)。非戦論の内村が旅順沖海戦の大勝に喜んだこと。この矛盾こそが、内村、ひいては明治期の知識人の魅力であると。
歴史意識の「古層」について。結構難しい論考だと思われるので、別でまとめることにする。