2018/01/30

ヒマラヤ山脈が隔てる二つの国――インドの外交政策

ヒマラヤ山脈が隔てる二つの国――インドの外交政策


12月の初め、中国の外務大臣Wang Yiは、国際関係に影響を与える領土問題を中国は容認しないと語った。デリーでさらに中国は徐々に別のより外交的ではない方法で、明らかにするつもりであることを述べていた。すなわち実際に中国が容認しないと述べていることは、インドの影響力の範囲のことだ。
世界で最も高い山脈でアジアから切り離されているため、インドはインド亜大陸で超大国となっている。これまでずっと敵対してきたパキスタンはおいておいて、アメリカがカリブ海諸国でしているような仕方で、小さな隣国にあたりまえのように影響力を行使してきた。インドの周辺諸国は時に融通のきかないインドに不満と怒りを露わにしてきたが、インドのやり方に関わらないことも学んできた。しかし、ここ最近、急激に進出している中国がインドの支配力に挑んでいる。
ここ数週を見てみよう。12月9日、スリランカは南岸にある戦略上要となる港を中国政府が主導する会社に99年間貸すことになった。同じ週にネパールでは2つの共産党が一緒になって議会選挙で圧勝した。この共産党はインドとは距離をとり中国とより親密な関係をもとうと働きかけてきたのだ。11月の後半には、反対派なしで国会が慌ただしく「緊急事態」として集められた後に、南アジアでパキスタンに次いで二番目で、モルディブは中国と自由貿易協定を承認した。毎年およそ6万隻の船が往き来する貿易ルートに位置し、インド洋にある海抜0メーターに近い島嶼群国家であるモルディブもまた島を中国の会社に貸し、さらに大規模インフラ事業をまた別の中国の会社に委託した。
アメリカのシンクタンク、Brookings InstitutionのTanvi Madenは、インドが以前から従来の影響範囲についての困難に直面していた、と述べている。しかし以前と違うのは、中国が向かってくる規模と速さだという。例えば2011年、モルディブの首都であるマレには中国の大使館はなかった。しかし2014年中国の指導者としては初めて習近平がモルディブを訪問し、その後、軍事、外交、経済の関係が休息に強くなった。亡命した前大統領Mohamed Nasheedは、現在のモルディブの債務の75%を中国が握っていると推計している。
モルディブの中国との自由貿易の協定の後、インドの外務大臣はただ冷たく、「親密な隣人として、モルディブが、「インド・ファースト」政策に従いながら、我々の懸念にきっと理解を示すと期待している」と述べた。しかし、インドの影響力を認める取り組みを再び宣言するのではなく、モルディブ政府は突然、前もって了承を得ることをせずにインド大使を会合をしたかどで、地方議員を更迭した。昔であればモルディブという人口40万人程度の国が13億人もいるインドをあけすけに無視したり無下にしたりしなかっただろう。インドの首相であるナレンドラ・モディは、厳しい選挙戦のなか地元であるグジャラート州で辛くも勝利を収めたが、モディの選挙綱領の中の一つが強行な外交政策であることを考えれば、このモルディブの侮辱行為はいっそう際立っている。
ネパールでも、中国の進撃は素早い。1950年代にはすでにネパールの支配層は、インドとの関係を一辺倒にしないように中国に援助を求めた。当時インドは内陸国であるネパールへのほぼ交通手段を牛耳っており、なおかつ王家に民主主義を認めさせようとしていた。the Carnegie Endowment for international PeaceのConstantino Xavierは次のように言っている。「しかし、ネパールを操るのに必要なのは、数箱のウイスキーだけで十分だったのです。」(訳者メモ:さて、このウイスキーで何を表現しているのか。さっぱりわからない)
それから数十日後、再度ネパール王が中国に援助を請いに行くと、インドは18ヶ月に及ぶ経済封鎖を行なった。それは言ってしまえば、ネパール王に北の隣国中国と親しくしないように迫ることだけでなく、複数政党による選挙を認めさせるようにすることだった。ネパール共産党(マオイスト政党)は、2008年に短期間だが10年に及ぶ内戦の後に政権を担うが、中国へ援助を求めに行っても、何も成果がなく手ぶらで帰ってきた。「山は二つに分けられる、と中国から言われたのです。言い換えればネパールはインドの支配下と考えられていたはずです。」とXavier氏は言う。
今や共和制となったネパールは、2015年に新たな憲法を制定した。インドではこの憲法は国境に沿っている低地の地域にとって不公平だと考えていて、再び強硬策を明らかにした。(訳者メモ:この低地の地域というのは、ネパール南部のマデシのこと。マデシはインドビハール州に近く、文化をみるとネパールであるよりインド文化圏にはいる。)しかし、新しい経済封鎖に直面してへこたれることなく、脅かされ、どうなるかもわからないネパール政府はそれでも意地を通した。独立を断固として主張するためにも、ネパール政府は中国といくつかの契約を結んだ。ちょうど選挙が終わった時、この政策はネパールの共産主義者にとって実にうまくことを運ばせた。共産党は中国に水力発電、道路、ネパール初の鉄道への投資を約束させた。この鉄道はカトマンズからインドへと走らせるのではない。山脈を越えて中国へと向かっているのだ。
ネパールのインドとの関係はかなり強いままだ。何十万ものネパール人がインドに出稼ぎにいっている。さらに最大の貿易相手国でもある。なおかつ歴史をみれば二つの国の軍隊は強い繋がりももっている。しかしインドは影響力を保つために単にこの遺産に頼っているだけであったが、一方中国は学問、シンクタンク、相互交流への投資に勤しんでいた。1960年代に遡ると、ネパールの使節が毛沢東に会ったことをXaiver氏は思い出す。「毛沢東は、ほんの50年後には、チベットからカトマンズまで鉄道が走り、中国はインドの支配力と肩を並べられるだろうと語ったのです。」
インドは中国の猛撃に直面しており、狼狽している。時には押し返して入るが、まさにそうなのだ。今年の夏、中国軍が急速な道路建設を阻止するために、インド軍は勢力圏にある小さな国であるブータンが領有権を主張する領土にやってきた(訳者メモ:インドのシッキム州に近いブータン西部のこと)。この介入は中国を阻止するものではなく、もう一つの隣国である中国とまだ外交関係を築いておらず、インドの援助に頼っている国や親しい同盟国との関係を試すものである。これは意図があったと思われる。中国はブータンと領土の交換によって領土問題の解決をはかろうと長い間ひっそりと議論してきた。インドにとって軍事的に脆く弱い場所で中国の勢力を強めることになるのではという不安から、インドではこの考え方を阻止してきた。
このような特定の争いでは、例えインドは力が及ばないにしても断固たる決意をもち、中国と肩をならべているようだ。インドの外交政策の立案者たちは中国との関係で他の弱さによく気がついていて、その弱点に取り組むために懸命に動いてきた。これまでまさに悠然と険しいヒマラヤ山脈に壁ような役割をもたせることに頼っていた。さらには中国の侵入する際に使うかもしれないため、道路建設を意図的にしてこなかった。それが変わったのである。インドは中国の急激に増す国境沿いのインフラ整備に追いつこうと猛烈な勢いで取り組んでいる。
しかし勢力圏を維持することは、難しい仕事だ。インドの経済力が中国の15分の1でしかなく、ごちゃごちゃした民主政治は政策実行を遅らせるが、このような事実を別にしても、要である組織上の制限に苦しんでいる。外交部全体では専門職がちょうど770人を数えるが、例えばアメリカでがおよそ13500人が外交職員がおり、比較しても少ない。隣国への援助が不効率な公共部門を通すために貧弱なものとなり、難しいものとなっている。そしてここ最近まで、中国の膨張に同様に懸念を抱いている他の国と一緒に問題に対処することを避けてきた。しかしこれら全てが変わってきている。巨大な像のような存在であるインドは覚えが悪いのかもしれないが、政府を動かすは困難である。
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The Economist December 23の記事。中国の急成長著しく、深センなどの発展は感動的なものだ。一党独裁で他民族国家でもあるのだが、中国の利点は、インドのように複雑な宗教やエスニシティがこんがらがっていないところであり、また地域で文化や言語は異なるが、長い歴史の中で共有できるものを多く持っている点だろう。中国はある程度アイデンティティを作り上げるのに成功したのだと思う。
東アジアではアイデンティティの統一しやすい歴史をもっているのかもしれない。羽田正氏が『東アジアとインド』で述べているが、江戸幕府、明、清、李氏朝鮮は「鎖国」を行っていた。国あり方が、インドや中東とは根本的に異なっていた。「鎖国」が一種の国民国家を醸成したようだ。
インドを見ていると民主主義というものが、その国の発展を阻止しているようにしか見えないのも事実だ。人は中国が一党独裁であることを安易に批判するが、インドと比較すると中国の方が、偶然一党独裁になったにすぎないが、優れているかもしれない。
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2018/01/10

『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』刈部直 新潮社

序章 「諸文明の衝突?」から四半世紀
ハンチントンの「文明の衝突」。冷戦以後の構図予想。儒学文明とイスラーム文明が結託し西洋文明に対抗すると予測。
「文明」の曖昧さ。
普遍性はないから、諸文明の中で行われていることは、その文明の中で処理すべきであり、例えばアメリカは東アジアや中東で政治的な介入はすべきではない、仮に非人道的な戦争が起こっていたとしても。
イグナティエフは、普遍的善悪を想定し、この倫理に反することがあれば積極的に介入すべきとする。
和魂洋才の罠。文物は西洋から、精神は伝統から、という見方は紋切型すぎる。事実、幕末維新の時代の知識人は西欧の哲学、思想にあこがれていた。
民衆不在の罠。貧しき人民は政府が行う文明開化を押し付けられていたと、戦後マルクス主義歴史学ではいう。しかし実際は、当時の民衆は文明開化を楽しんでいたし、十分適応していた。
「濃厚な道徳とミニマムな道徳との関係は、概念を広げれば、「文明開化」の時代、…群衆にもあてはめることができるだろう。彼らは、それが西洋という先進地域の産物だから崇拝したのではない。徳川時代に生き、その慣習のなかで培われた価値観に基づいて、鉄道や西洋建築が優れたものだと評価したのである。」37
つまり幕末維新の時代、近代西洋の思想は特に奇異ではなく、理解し共感できるものだった。

第一章「維新」と「革命」
「維新」は英語でrestoration で、復古主義を想起させる。イギリス史やフランス史では、この単語を「王政復古」を表す。
維新の由来について。『詩経』の「大雅」に収められている詩「文王」に由来。「周は旧邦なりと雖も、其の命、維れ新たなり」
文王は実際には王にはならず、武王が王になるが、その意味でも、王朝交代の意味を革命のようなものとは違うニュアンスで表現されており、なおかつ革命的な変革の意味もあらわされている。さらにこの「維新」には「惟神」、つまり「かむながらのみち」をも含意されているという。

第二章 ロング・リヴォルーション
二つの俗論。「勤王党」の思想が「維新」を導いたとする「古流なる歴史家」と「外交の一挙」すなわちアメリカのペリー艦隊をはじめとする西洋諸国からの圧迫を原因とみなす「或る一派の歴史家」。
江戸時代を中期へと向かう間に、商人や庄屋名主が力を蓄えていき、学問を身につけていく。儒学による為政者批判が作られていく。江戸時代の身分制とは、藩にもよるがそれほど強固な観念ではない。「学問・思想の面で「社会の大変革」が徳川時代の後半に着々と進行していた」69 「もしも「代朝革命」の目的だけが「維新革命:を導いたならば、新政府が版籍奉還や徴兵制施行を通じて、武士身分の解体にまで「社会的な変革」を進めることはなかっただろう」70  この論法はマルクス主義歴史学が用いたものである。しかし、福沢諭吉も『文明論之概略』で、門閥に縛られ、才能を発揮できない鬱屈が爆発し、維新革命を起こったと説いているところ、明治維新が黒船だけで説明できぬものがあるのは確か。

第三章 逆転する歴史
「文明」「半開」「野蛮」。19世紀に世界像は、この三つを論じざるを得ず、福澤諭吉もこの構図を採用していた。アジアでみられる多くの恥ずべき因習を厳しく批判することは、現代の多文化主義の時代からは考えられないことだが。福澤は進化、進歩を疑っていなかった。故に福澤は儒学に対して手厳し批判を続けた。儒学が古代では通用したが進歩した現代では通用しない、通用するのは西洋の諸学であるとする。
荻生徂徠は儒学を徹底的に統治のための学問としている。先王たちが長い年月をかけて作り上げてきた礼楽刑政を「道」とし、そこにこそ人類普遍の秩序があるとする見方だ。徂徠はこの古代中国の制度を理想とみなし、現代の状況に照らし合わせながら、その時代にあった治世を実現するべきであると説く。この古に範をとるのを尚古主義と呼ぶ。
この徂徠に影響を受けていた西周は、まさに儒学の言葉を使いながら、カントの「永遠平和」を語る。カントの「永遠平和」は、まさに遠い未来の理想を掲げたものであり、それは徂徠のみていた古代に理想を求めていた姿勢と変わらない。西周はカントの思想を徂徠と矛盾させることなく咀嚼していた。

第四章 大阪のヴォルテール
江戸時代は、大阪を中心にしたネットワークが出来上がり、経済社会を確立していった。このネットワークが工業を導入の定着を促進していた。経済的に潤っていた大阪では、富を学問に向けられ、懐徳堂のような学問所が設立される。日本は、朝鮮や中国とは異なり、朱子学はあくまで学問であり、科挙を通じて官僚となるためのものではなかった。当時、官僚は武士であり、身分によって固定されていた。つまり朱子学は当初、民間の私塾で広がり後年になってから政府公認の塾が開かれるようになる。そして、学問をするものは貴賤を問わないとしていた。
富永中基(1715年~1746年)は、孔子が生きた周王朝の衰退期に、当時の実力があった五覇の統治を批判するために堯、舜、文王、武王を理想化して論陣を張ったことを批判する。古に理想を求めること、自らの説を正当化することを「加上」と呼ぶ。仏教や儒学は、国柄や場所がかなり異なるものであり、日本にはそぐわない。神道は古に範を見出そうとするが、あまりに昔すぎるので習俗や慣習が異なる。そんなものは参考にならないと説いた。
このような一種の進歩主義は、やはち経済発展があたればこそのもの。

第五章 商業は悪か
なぜ農民は貧しいといった固定観念がうまれたのか。
水谷三公『江戸の夢』を参照に、公儀の命令による治水工事などを免れるために、飢饉を偽って報告していたりしていたという。また、反商業の立場により農民の生活に同情を寄せる目もある。
熊澤蕃山。岡山藩に仕えた儒者。上古は足ることを知る無欲な時代と想定し、それを現実世界に適用した人物。金銀の流通量を最小限にして、日用品を大名家が直接管理し、商工の勢力を強制的に奪う。武士たちも農業を行い、質素な自給自足社会ができあがる。毛主義ではなかいか。ただこの反商業は、儒学の前提でもある。利益拡大だけを追求するのは倫理にもとる。調和を求める利でなければならい。つまりは商業活動はやはり悪ではあるが、だからと言ってそれを排除したくない、だからそれを正当化できる理由を求めていた。
西川如見『町人嚢』では、貴賤の差別を否定していて、誰でも学問を通じて貴くなれるという。そして自律した市場での商業活動、競争を肯定し、この富を増やすことこそが、天地を調和へと導くという。
八代将軍吉宗の時代、徂徠の助言のものと緊縮財政が敷かれる。この背景には、農村からの人口流入、道徳の頽廃、武士階級の没落などがある。商人の勃興によって、立場が逆転してしまった時代でもあった。そこで自給自足型、現物流通へと舵を切るべきと徂徠は言う。徂徠の弟子、太宰春臺も『経済録』で基本的には商業活動を抑制すべきとするが、「今」では金銀が流通している状況なのだから、それに適応すべきとする。

第六章 「経済」の時代
吉宗の時代にキリスト教関係以外の漢書洋書の輸出が解禁になった。
山片蟠桃(1748年~1821年)は自らを儒者と位置付けていているが、儒学や神道などを批判している。『夢ノ代』で、古事記や日本書紀にみられる怪異を妄信として批判する。彼の論理の根幹にあるのは、当時ようやく日本で読まれるようになった西洋天文学だった。彼も古代の統治の方法を現代に持ち込むことを良しとはしわなかった。また経済についても、統制経済などもってのほかとして、自由主義経済を謳う。山片の場合、「経済」という言葉は、経世済民の意味よりも現代的な意味あいが強くなっている。海保青陵なども武士が金銭を卑しむ風を批判したりしていた。この時代、経済は発展していき、ロシアからは通商を求められるなど時代は、単なる古代の思想を求めるだけでは足りないところにきていたようだ。

第七章 本居宣長、もう一つの顔
宣長も単純な商業批判をしない。彼自身、商人の家の子でもあり、また商業が多くの富をもたらすことを認めているが、宣長の批判は、商業が発展することで富をどこまでも求めようとする心ではなく、統治者が華美を自制する姿勢を見せるべきであるとする。たとえ緊縮を唱えようとも自由を謳歌する商人はそれに従わないのだから、統治者が自ら見本となるべきとする。賄賂もそうで、贈る側も贈られる側も喜んでそれをする。善悪を論じても意味がない。「ありのまゝ」の心の動きを表現することは、他者理解となる。「物のあはれを知る」とはそういうことだという。

第八章 新たな宇宙観と「勢」
山片蟠桃同様に本居宣長も西洋天文学を高く評価していた。だから宣長は仏教の宇宙論を手厳しく批判していた。服部中庸の『三大考』では、西洋天文学かすると荒唐無稽なものだが、地球の自転などについて、知識を持ったうえで書かれている書物であった。
山片は西洋の天文学を学んだが、その興味は暦法や天体運動の予測に限るものであり、宇宙創造の始めと終わりや、無限と有限といった問題は「不測」として扱わなかった。逆に宣長や中庸はそこに踏み込んでいった。それが天皇を中心とした宇宙論ではあったが。

第九章 「勢」が動かす歴史
頼山陽に『日本政記』によると、日本の歴史において、封建・郡県・封建と変遷しており、おの変化は「勢」によって説明される。そしてこの図式が多くに影響を与えた。逸話が紹介されていて、伊藤博文は頼山陽を好み、この図式の後に再び郡県が実施を考えていたようだ。

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儒教が武士階級ではなく商人から需要がはじまったというのは、なかなかおもしろい指摘だった。明治維新が突発的あものではなく、江戸300年間で培ってきた思想的背景が西洋思想の需要を促し、西洋思想を異質なものとしてではなく、当時すでにあった価値観から見て評価しうるものだると判断したからこそ積極的受容していった、というのものなかなかおもしろい。現代でもそうだけど、異文化を受容する際、自らの文化背景をもって判断を下すもので、全く異質で理解不能なものものは受け付けることはできないものだ。そういったところから見ても、幕末明治の知識人が西洋の哲学思想をどう見ていたのかを考える際に、短絡的に憧憬のみを語ることや当時の人々の「なんて斬新なんだ」のような驚愕を誇張して語ることは、いかがなものなのかと考えさせる内容だった。 

2018/01/08

クープランのルソン・ド・テネブル François Couperin Trois Leçons De Ténèbres

François Couperin
Trois Leçons De Ténèbres • Motet Pour Le Jour De Pâques
Judith Nelson
Emma Kirkby
Jane Ryan
Christopher Hogwood
L'Oiseau-Lyre , DSLO 536, 1978




少し前、クープランの「ルソン・ド・テネブル」のレコードを発見する。聴いたこともなかったのだが、380円で売っていたから買ったのだけれど、これがなかなかすばらしい。
この曲についていろいろと調べたかったのだが、日本語ではあまりよい情報がないため、ライナーノーツを訳す。なんとまあ訳しにくい英語だこと。英文の画像も貼り付けておく。今回、この曲と出会っていろいろと勉強になった。英語版のWikipediaなんかでは下記を参考にできた。英語版しかないのが残念だけれども。
Leçons de ténèbres:
Canonical hours:
Martins:

この曲は非常に静かな曲で、修道院で流れていたらさぞかし雰囲気があるものだろうなあと思う。非常にカトリック的といってもいいかもしれない。18世紀初期にはまだこのような曲が作曲されていたのだなあと思う。
しかし、なぜエレミア哀歌をテキストに採用しているのかがいまいちよくわからない。イエスの死から復活までの三日間を、なぜエルサレムの荒廃への嘆きとだぶらせているのだろうか。

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「頭や体、足で拍子をとることは下品なことだ。一つの対象をじっと見続けたり、ぼんやりと眺めたりせずに、人はハープシコードの前で安らぎという気品を持つべきだ。他のものに夢中になっていないかのように、仮に何か対象があっても、集まった仲間たちを見なさい。難しい顔をすることについて、スピネット(小型のチェンバロ)やハープシコードの譜面台の上に鏡を置くことで、この習慣を自らやめさせることもできよう。」
これはフランソワ・クープランのL'Art de toucher Le Clavecin(1717)の冒頭からのもので、この助言には単なる演奏指導以上により広い重要なことがある。ここに含意された節度と抑制という考え方は、クープランの音楽に溶け込んでいて、教会のために作られ、今も残る彼の音楽を支配している。ジョン・ホーキンス(1719−1789、作家)の『歴史(General History)』に書かれているようなコレッリの行動は、クープランには当てはまらない。
「彼(コレッリ)がヴァイオリンを弾いている間、いつも顔は悶え、目は炎のように輝き、眉は苦痛で歪んでいるかのようだ」
コレッリの演奏は優美さでも有名であるため、おそらくこの報告は少しは詩的誇張がある。というのもヘンデルがイタリアに滞在した際に、彼はコレッリがあまりに抑えた演奏をしていたので、ある激しさをもつパッセージをどのように演奏してほしいかを自ら示さねばならなかったほどだからだ。平静さを保ちつつ、この偉大なるヴァイオリニストは次のように答えた。「親愛なるサクソン人、この音楽はフランススタイルだ。私は知らないのだよ」
フランス・スタイルとイタリア・スタイルの違いは、グルックとピッチンニやブラームスとワーグナーの論争が後の世代にとってそうであるように、ルイ14世の治世の間、多くの議論の動機であった。「Paralleles des Italiens et des Rransois' (1705) でラグネットは次のように書いている。
「イタリア人が私達の音楽を退屈で無感覚にさせるものであると考えていることに不思議ではない。彼等の感覚からすれば、 一本調子で味気ないものとみえるだろう。例え私達がフランスのアリアの性質を、イタリアのアリアと比較して考えたとしてもだ。アリアにおいてフランス人は、柔らかさ、安らぎ、流麗さ、そして統一性を目的とする。…しかしイタリア人は最も大胆なカデンツァや最も不規則な不協和音をあえて行おうとする。つまり、彼等のアリアは常軌を逸していて、彼等は世界のどの国で作曲されたものとも似せようとしない。…イタリア人は不快で異常なあらゆることをあえてする。そして冒険をする権利を持ち、成功すると確信している人々のようにそれを行うのだ。」
太陽王ルイ14世の周辺でフランス文化生活が変化して以来、王の趣向は非常に影響力があった。音楽はすべての芸術と同じように、「朕は国家なり」という言葉の延長にあった。その主な目的は、王政の栄光や王の趣味を反映することである。というのもの王の壮麗さに伴う単純な調べが尊ばれるべきだったのだ。
しかし18世紀初頭までに、太陽王の芸術への態度は変わってきた。彼の栄光は陰りをみせ、マントノン公爵夫人の影響下にあったからだ。ルイはヴェルサイユ宮殿の壮麗さに関心を失い、1680年前半に生活をし始めたパリから東に数マイル離れたつまらない宮殿からも遠く、小さいがより家庭的なマルリー宮殿へと心を移していった。シャルル・ルブランの絵画の英雄的なスタイルに代わって、より内省的で脆さがあるヴァトーが取って代わり、そしてたとえ王が壮麗さや儀式を愛することを決して全面的に放棄しなかったにしても、自らの壮麗さへの思いは減じていった。
王はもちろん王室の仕事を采配していて、同じように音楽の自らの選択で雇っていたことだろう。1693年、王はフランソワ・クープランをthe Chapell Royaleで四人のオルガニストの一人に任命した。彼等の役割は音楽を提供するだけでなく演奏指導も行い、そしてたとえ時代が変わってもChapelleは完全な栄光を保持することである。音楽家の総数は、88人の歌手が2つにわかれ別々に活動し、19人の楽器奏者から成っていた。荘厳ミサは日々行われ、2つの大きなモテットを含んでいた。一つ目は約15分間続くが、この2つのモテットはきまってソリスト、合唱、オルガン、オーケストラのために作曲された。奉献式の間には、小さな編成で歌われる短いElevation(これは何?)も含んでいる。
18世紀前半の教会音楽のこの壮大なスタイルで最も賞賛された作曲家は、ミシェル・ドラランド(1657-1726)で、彼は1704年にthe Chapelle Royaleの音楽の運営指揮を完全に引き継いだ。25年後の彼の死後に特別に書いた大きなスケールのモテットのうちで42曲が王の費用で出版がなされた。
クープランの今も残る教会音楽とは完全に対照をなす。事実、全ての音楽がソロのために作曲されており、ときに小さな編成で、ガンバとオルガンを組み入れたアンサンブルを伴っていた。ドラランドと比べて、彼の音楽は小さなものだったが、しかしそれは驚くほどの緊張感があり、ウィルフレッド・ミュラーが「親しみ深い精神性、感情の純粋さ、そして好奇心」と呼ぶものが表現されている。この三つのルソン・デ・テネブルはクープランが生涯で出版した唯一の教会音楽である。これは彼を雇っていた王家のために書いたのでなく、女子修道院のために作曲された。そしてこの曲は、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(1636-1704)がポート・ロイヤルの修道女のために9つで一組の曲を作曲したことをもとにしている。さらにイタリアの作曲であるカリッシミのイタリア・オペラの伝統を受け継いでいる。クープランのメリスマ的な声部(シラブルの対語。一つの音節に複数の音符をあてること)と和声的な書法が、いわばパリの娯楽作品とは全く異なるフランス・スタイルのもつ雅さ、柔らかさなどの特徴と融合しているのである。
このTenebleの務めは、もちろんそのために書かれているのだが、聖週間の最後の三日の朝課(Martins)と賛課(Lauds)に行われる。第二回バチカン公会議の時代までには、公の典礼の一部であることを終えてしまったのだが、たしかに最近までは非常に重要で意義あるものであった。この務めの歌が歌われる時、それは前夜に行われるものだった。Tenebleの名前はおそらくこの務めが執り行われるに従い広がる闇について言っているものだ。この務めの殆どの時間、唯一の光は三角形の枠に上にある15本のロウソクからのみで、各詩篇と聖書の朗読(lesson)の終わりに一つ一つ消されていき、最後に詩篇50、ミゼレーレ(詩篇51)、キリストの地獄への下降の歌と共に、完全な闇の中で終了する。それぞれの日、三つの聖書からの引用(lesson)が読まれるのだが、クープランの場合最初の一日目の一連の音楽だけが現在残っている。(初版への前書きで、もし望まれるならば、完成させると言っている。また「L'art de toucher」の第二版(1717)では続きを作曲しているため忙しいと述べている。しかし残りのものは出版もされず、草稿すら発見されていない。)
詩は予言者エレミアの哀歌(ラメント)からとられている。まずインキピット(Incipit、ラテン語で「ここより始まる」の意味)で始まり、クープランは伝統に従い、ヘブライ語のアルファベットを置いている。これらアルファベットは大いなる悲痛さ、哀歌を表現するかたちで各連の前に置かれている。各務め(lesson)は聖なる都市の民に向けられたキリストの言葉「エルサレムよ、主の下に立ち返れ(jerusalem convertere ad dominum deum tuum)」で終わる。このラテン語のテキストは数多くの「小休止(petittes pauses)」で区切りをつけられている。そしてクープランは、フランス・バロック音楽ではあまり使われない緊張のあるアリオーソ・レチタティーヴォが持つイタリア風の叙情性のパッセージを挟み込ませることで、多様性をもたらしている。凝った声部の装飾音は、全て注意深く音が配置されており(all carefully notated)、当時の慣習をみても、もはや純粋に装飾的ではなく音楽を構築させている要素(structual)で、多くの装飾音が不協和音やパトスに付されている。全体を通して、全てに慎みがある。それはクープランが深く大切にしていたものである。ここにイタリアスタイルとフランススタイルの2つがまさに統一されている。
最初の2つのルソンはソロのために書かれていいて、三番目が二重唱とこの二重唱が生み出すextra scope(意味が全くわからない)が、徐々に教会を暗闇へと包まれるその場にふさわしい(correct)儀式の中で、劇的に音楽の効果を高めることだろう。人は予想するように、豊かな言葉や絵画性、多くの象徴がある。しかし決して少しの過剰にならない。クープランがこのような感動的で、音楽的、劇的な終わり方を作り出すために採ったこの古典的な平衡感覚は驚くべきものである。
「復活祭のためのモテット」の素晴らしさは対照的である。Chapelle Royaleの曲であったが、今ではちょとした教材になっている。しかしながら、生き生きとしたこの2つの声部の音の連なりは喜びを表現するのに威勢のよさは必要条件ではないことを表している。高音のソプラノのパートは、キリストの復活や霊魂の再生(spiritual rebirth)のキリストの言葉を讃えることと織り交ぜ、寄り添い進んでいく。非常に細かく規律正しくあるために、テネブルに劣らず生き生きと宗教的な情熱を伴っている。
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2018/01/04

漁場や生態系をもっと知ろう gone fishing

gone fishing

by Richard Conniff

Scientific America, November 2017 の記事の要約。


放流は多くの納税者が好む数少ない政府の政策の一つだ。水路への魚の放流は釣り師にとってノーマン・ロックウェルの絵のように昔から魅力がある。ちょっと助けてやれば、どんな湖も川も、どこにでもいる子供が(または大人が)、釣り糸を放ることができて、まさに夕飯のおかずを釣り上げるかもしれない、そんな場所になると思われている。
放流はまた年に257億ドルに値する娯楽のための釣りの経済効果の根幹をもなしている。孵化場から地方の湖に未熟な魚をもっていくことは、1800年後半から政府の政策であった。そして1950年台からは、何千という規模で空輸され遠く離れたあらゆる湖に放流されていっている。
しかし無差別の放流は次第に環境にしてきたこれまで中で愚かしいこととのようにみえる。というのも放たれた魚はもともと居た種に取って代わることがあるからだ。
もちろん放流が脅威にさらされていた種を立ち直らせるのに役立つこともある。しかし現在まで孵化場や放流もまた、川や湖を発展のために犠牲にすることを容易にしていた。例えばダム建設で、鮭や鱒への負の影響があると思われるが、孵化場を作るからとごまかされる。結果取り返しのつかないところまで破壊されてしまう。そして次第に気づくのだ、孵化場の魚はなく、野生の魚ではないとだめなことを。
国や州、釣り師たちは放流について再考をし始めていて、場合によってはこの破滅的な影響を和らげようとしている。例えば外来種を釣り放題にしたりとか。
この放流による不作為の影響への懸念は、当初からいろいろと問題になっていた(have been around)。17世紀のヨーロッパで再び放流するために、稚魚を飼育する試みが始まった。そしてこれは北アメリカへ、水路で魚が取り尽くされていくにしたがって、伝わっていった。ロバート・ルーズベルト(叔父はセオドア)が議会に放流をけしかけ、減少していく漁場や荒れ果てた水路を回復させるべく農業の潜在性の調査を行う。そして大陸横断鉄道にカワマスを西から東へと持っていった。1910年早くも影響が出始める。11本かそれ以上の体重で、地方の釣り師たちが好んで釣っていたイエロースロートマス(yellowfin cutthroat trout すげー名前)が、ニジマスとんぽ交配やその他の釣り向けの魚たちとの競争のなか、消え去ってしまったのだ。あまりに多くを取りすぎてしまったこととともに、同じような要因でギンマスは釣り尽くされ、1885年に新種として初めて紹介されたが、1939年には絶滅したと考えられている。とんでもないことだが、1950年オレゴン州は故意的にミラーレイクヤツメウナギを毒でもって大量死させた。なぜならこのヤツメウナギが外来種のマスを餌にしていたからなのだ。1989年の研究によると、外来種は20世紀を通して北アメリカの20位上の魚の絶滅の要因として示唆されている。そして絶滅の割合は21世紀に入ってもなお25%まで上がり続けているようだ。
これは北アメリカだけで起こっていることでなく全世界的な問題なのだ。シエラネバダのキングキャニオン国立公園では、高所にある湖でこれまで見たこともないニジマスやカワマスが放流させれ、それらが固有種であるカエルがオタマジャクシのときに食べられてしまうというのだ。そしてこのような外来種が全体の生態系を壊していく。例えばガータスネークはイエローレッグカエルを食べて生きているが、外来種の魚がこのカエルを食べてしまい、カエル不足に陥ったり、フィンチはカゲロウを食べているが、外来の魚がカゲロウをたべてしまったりといった感じだ。
だがカルフォルニア魚及び野生生物事務局は放流についていかなる変更をも拒絶していた。というのもの放流が良いこととして認識されているからだ。また放流は釣りや猟のライセンス料によって行われていたこともある。今では放流は多くの湖では行うことをやめ、固有種の放流へ移行してきている。
「適切な数で、適切な時期に、適切な場所で、適切な種を活用する、これが生態系でベネフィットと効果を得られるのである。他の州の人がきいたら驚くだろう。そしていづれ我々に追いつくかもしれない。
しかし、釣り師にとっては受け入れがたいものがあるだろう。カルフォルニアが放流をやめることを公にした際、San Francisco chronicleのアウトドアに関するコラムで、「人はそれぞれ、好きな湖を持っている。どの湖で放流をやめるかは問題ではない。怒らせてしまった。地方の釣り師の考えは釣りたいところで釣り続けたいということ。変化を受け入れる自然保護の観点を持っている釣り師は、その他の9000ある湖のどれかに行けばいいと言うかもしれない。」大切なのは、政府が彼らに理解してもらい変化に対応してもらうように機会を設けることだ。といってもこの動きは非常にのろい。
固有種の復活は、早い。イタリアのアルプスにあるグラン・パラディーゾ国立公園の湖では、カワマスを取り除いたら、死に絶えたと思っていた無脊椎動物が繁栄を突然謳歌した。「残っていた卵」が再び孵ったのだ。人間は淡水に生きる種に殺虫剤から気候変動まで多くの影響を与えている。両生類は3600万年前からいて、生き残っている。もし私達が障害を除いてあげさえすれば、これらの種に生きつづける機会を与えることができるのだ。

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要約という割にはかなりの分量を訳してしまった。
『外来種は本当にあるものか?』(フレッド・ピアス著、草思社)なんか興味深かった。この本は、「外来種の侵入を防ぐことは完全にできないし、果たしてそれ自体適切なことかどうかなんて誰にも答えられない。エコロジストに対して一番納得がいかないことは、生態系を静的なものとして見ていることだ。なぜもっとダイナミックなシステムだと見ようとしないのか。外来種が入ってたっていいじゃない。固有種がなくなってもいいじゃない。そもそも地球の歴史ってそういうもんでしょ。生態系が崩れるとかなんとかいうが、そんなものエコロジストの頭のなかにある仮想の生態系にしかすぎないだろう。」といった感じ。
おそらくこのScientific Americanの記事を書いている人、それほど外来種を悪者にしていないかもしれない。この本を読んで、他の文献をあさってわかったことがある。それはエコロジストや環境保護を主張するメディア(例えばナショジオ)と、生態学者や生物学者では考え方に根本的な違いがあること。外来種は本来的には悪者ではない。それは多くの学者が共通認識として持っているようで、では外来種が悪者になる時はいつか。それは人間が環境を利用する上で邪魔な存在になるときだいうこと。要するにだ、害虫・害獣になっては困る。外来種が日本の生態系に溶け込めても、それによって蒙る被害によって、外来種の善悪が決まる。まあ善悪なんて別に生物学者は決めてかかっていないけれども、あくまで人間社会にとってどうなのかといった部分で善悪を評価すればだけど。そして生物多様性が重要なのは、エコロジストが主張するような地球愛ではなく、人間と環境との関係で考えて言っていることだ。
ピアスの著作は、主にエコロジスト批判の書であり、実際の生物学者の多様な考えを紹介しているわけでないので、一見すると生物学にたいする偏見や誤解を助長しかねない部分もあるが、まあエコロジーに食傷気味な人にとっては溜飲を下げる本であることは確か。
今回の記事では、あくまで放流によってカワマスやニジマスが生態系を変えてしまった、ということまでしか書かれていないのが残念。ナショジオなんかでもそうなんだが、それが人間社会とどう関係してくるのかを書かない。この記事だけ読むと釣りを楽しんで、釣った魚を食べて幸せでいいじゃないと思ってしまう。エコロジーの話になるとなぜこうも記事の質が落ちるものなのかね。それはナショジオもそうだ。日本もメディアは軒並みバカなので「エコ」しか言わないし。
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gone fishing はイディオムなんだが、訳しにくい。現実を見ない人、夢想家、現実の忙しさから逃れてのんびりしている人、みたいな意味だが、記事では釣りと絡めている部分があり、まあ難しい。

2018/01/02

ヒンドゥー教とは何か Defining Hinduism

Defining Hinuism 'The Economist' September 23RD-29TH 2017

Sect drive 宗派の争い

中世の詩人はが現代インドで最も強い政党にとって頭痛の種を蒔いている。
午後の祈りに招集され、8500名の学生が花崗岩でできた台地の陰に建てられている巨大なアーケードにそって、長蛇の列の中、足を引きずりながら歩いている。裸足で、おのおの白いルンギー、赤の肩掛けの布を身に着け、そして額には横一直線に三つの灰をつけている。大きな岩に書かれているスローガンは彼等に次のことを思い出させる。「励むことが祈りであるWork is worship」や「一人の神が異なる名を持つ」だ。これらは12世紀に生きた哲学者で行政官であったBasavaからの引用だ。
ITの集積場であるバンガロールから約70kg離れたSiddaganda mutt(修道院)で教える聖人は、シヴァ神とBasavaを崇めており、Basavaは一神教とでもあった。これが彼等をリンガーヤット(Lingayat)たらしめている。しかし、彼等はヒンドゥー教でもあるのだろうか。
この宗派はヒンドゥー教の特徴を多く持っているが、社会正義に異常なまでにこだわっている。最も尊敬されている信徒は、修道院(mutt)の長であるShcakumara Swamiで御年110歳である。ほとんどの時間をシッダガンガ(Sidaganga)にある花崗岩でできた寺院の医務室のベッドで横たわって生活している。しかし、彼は「歩く聖者」で知られており、かつては人生を人里離れた地への旅に費やし、説教をし、貧者の代弁者として施しをせがんでいた。
9月10日、尊師と彼の指名した後継者が、リンガーヤットであり国民会議派(Congress party)でもある地方政府のM.B. patilの訪問を受けた。Patil氏は、この偉大な預言者がリンガーヤットがヒンドゥー教とは異なり、独自の宗教であると宣言されるはずだということにParil氏に同意していたと言って去っていた。同じ日の夜、ヒンドゥーナショナリストのインドの首相ナレンドラ・モディの所属するインド人民党(Bharatiya Janata Party)の公使が、そのような判断を控えるように説得した。以来、絶え間なく続く政治家による巡礼の旅が行われている。双方の代表者は、すべてリンガーヤットなのだが、静かにSwamiの刻一刻と迫っているその瞬間を待ちわびている。(翻訳がうまくいかないのだが、要するにだ、国民会議派とインド人民党の議員たちが尊師に会いにいっていて、争奪戦がはじまっているということだ)
ヒンドゥー教はこれといって明確な宗教ではなく、多くの派閥、宗派がある。一つの宗派が独自の信仰をもつその時を、文化人類学者は見たいと思っている。(直訳:ある分派が独自の信仰になるのはいつなのかという疑問は文化人類学者を忙しいままにさせる。)関係のない人にとっては大して問題にはならない。しかし、リンガーヤットはカルナータカ州(Karnataka)の人口の17%を占めていて、そこにSiddagangaがあり、2018年早々に選挙がある。この州は、近年の国中でのBJPの一連の勝利の後も、国民会議派(Congress)によって掌握されている最後の州なのである。
数十年間、ほとんどのリンガーヤットはBJPへ組織票として投票してきた。カルナータカ州では、この政党をB.S. Yeddyurappaが主導していて、彼はリンガーヤットで2008年から2011年までのスキャンダルを起こしていた政府を先頭に立って指揮をしていた。しかしコミュニティは今ではバラバラになったようで、いくつかの修道院(mutt)はマイノリティ宗教としての立場やヒンドゥー教の中で一つカーストとして数えられることを要求している。8月にはヒンドゥー教ではない宗教の集まりがあり、20万人の行進者を促した。
モディ政権の唯一つの法令は公にリンガーヤティズムを単なる宗派から一つの宗教に格上げすることだろう。しかしBJPの政治理念はヒンドゥーナショナリズムであり、ヒンドゥー教の連帯を損なう些細などんなことも政党が反対することを義務付けている。汚れきった選挙戦もまた大切だ。BJPは、懐疑派や南インドの州出身の最も低いカーストから選挙戦を勝ち取ろうと必死だ。彼等はヒンディー語を話す北部の人たちを文化帝国主義と非難していて、国政を押さえ込もうとしている。一方で国民会議派はカルナータカ州のBJP支持者の間の分裂から明らかに利益を得ているのだ。
ヒンドゥー教の多くの改革運動のように、リンガーヤットはカースト制度の中で異なった存在だ(つんとしている)。同様の衝動が仏教、ジャイナ教、シーク教を含むインドを起源とする宗教の発展を支えている。Basavaは、虚栄心と富から生まれたあらゆる繋がりを放棄するように信仰者に求めている。信仰の探求者、S.M. Jaamdarは、Basavaをマーティン・ルターに、そしてBasavaの詩をカトリックを根本的に改革することを求めたルター95か条の論題になぞっている。「もっとも、200年先に書かれているがね。」と言っている。リンガーヤットのきわめて異端的な社会正義への献身は断続的な脅威にさらされていると言う。別の学者の言葉を引用すれば、「ヒンドゥー教は海であり、リンガーヤットは島である。海は島を侵食するものだ。
このような考えが暴力的な激情を呼び起こす。Jaamdar氏の考えを同じに持つ同僚である、M.M. Kalburgi氏は2015年に銃弾に倒れた。別の十字軍犠牲者でリンガーヤットであるジャーナリストのGauri Lankeshは8月にリンガーヤティズムははっきりと異なった信仰であると考えるべきと論じた論集を出版したが、その後一ヶ月もしないで暗殺されてしまった。
Kankesh氏もまた無神論者で実直な左翼であった。彼女の見方は自らの敵をいたるところで作り出していた。殺人を起こさせる動機についての理論なんてものはいくつもある。しかしBasavaやヒンドゥー教の意味について議論することはもはや学問ではない。Siddagangaの歩く神は、インド独立後、最初の選挙が行われたときにはすでに中年の聖人で、現在の政府が自分の信仰をどのように分類するかを気にしていないかもしれない。しかし彼の若い弟子たちは被選挙権を持つものとして彼等の前には長いキャリアが待っている。

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とまあ、訳してみたけれどよくわからない。今回も誤訳が多いことでしょう。リンガーヤットってなんだかよくわからないが、記事から察するにヒンドゥー教の改革集団のことか。Wikipediaから少し書き出すと以下。残念ながら日本語版無し。英語版では結構長くて訳すのが面倒。
リンガーヤットはシヴァ派の一派で12世紀にBasavaという哲学者で行政官であった者が創り広めた。リンガヤーティズムは一神教であり、シヴァ神への献身を説く。Veerashaivismとも呼ばれる。南インド、特にカルナータカ州で多い。
Basavaはブラフミーが行う祭祀や寺院での礼拝を否定し、小さなリンガを通してシヴァ神への直接、個人的に祈ることをよしとした。記事でも宗教改革者ルターの名前がでているように、Basavaはルターよりも早い時期に宗教改革を成し遂げた人物として知られているようだ。
Basavaは性別や社会的差別を否定した。性別に関係なくシヴァ神のリンガやシヴァ派(Ishtalinga)の首飾りを付けることを許している。男女区別なく、経済的基盤なども関係なく、全ての者が精神的な話題や世俗的な話題を話し合えることを奨励した。
神学がどのようなものかなど、Wikipediaには書いてあるが、ちょっとよくわからないとこともあるし、あまり深入りするとすごいことになりそうだからやめておく。ただこのリンガーヤットがヒンドゥー教の一派なのか、それとも全く別の宗教なのかということについて、Wikipediaで項目をたてて、しかも今訳したThe Economistの記事を紹介もしている。
まあそもそもヒンドゥー教をヒンドゥー教と一括りにする事自体が無理があるだろう。日本だって、天理教や大本教などは、現在では神道の亜種の扱いを受けているが、そもそも国家神道なるものへの反逆として起こったルサンチマンの宗教だ。神道っぽいけど神道かといわれたら違うでしょ。創価学会は仏教だけれども仏教ではないかもしれない。宗派が違えば、すでにそれは信じる宗教が違うと考えてもいいとは思う。
ヒンドゥー教自体が、そもそも体系があるものではないし、一緒くたにしていいものではないだろう。「ヒンドゥー教」という名称自体、イギリス植民地時代に命名されたもので、いわゆるイギリス人が「発見」したものだ。各地方で信仰されているアニミズムを総称として使ったものが、いつのまにかナショナリズムを刺激するところまで来ているっていうんだから、なかなか興味深い。まあ日本の神道も同じ道を歩んできたのだけれども。
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