2017/12/20

『アップデートする仏教』藤田一照 山下良道 幻冬舎

「非想非非想処」 パオ・メソッド
思いの過剰 思いの手放し
気づくこと
「ともあれ、実際に呼吸瞑想をしていてわかるのは、シンキングがあるせかいで呼吸に気づくのは、実は不可能なんだということです。…なぜわれわれが気づくこととシンキングを混同しそうになっているかというと、やはり気づくこととシンキングというのを結局同じ次元のものと受け取っていたからです」121
つまり呼吸に気づいているというのは、シンキングとはの他にある。
ティック・ナット・ハン『Transformation and Healing(『ブッダの〈気づき〉の瞑想』)のなかで、マインドフルネスとは、シンキング・マインドが落ちたところで理解されている。主体と客体に分けていた世界から離れれたところにある。
そんなことができるのか?

ヴィパッサナーの目標は「無常・苦・無我」を観察すること。だがさらに咲があり、精神的なもの(ナーマ)や物質的なもの(ルーパ)が生じない世界へと入っていくことが究極の目標。つまり生滅が終わった世界。つまり涅槃。
ここで難題がでてくる。涅槃の状態、もしくはヴィパッサナーしている時の認識しているものは何か。それはシンキング・マインドではないはず。肉体とシンキング・マインドに還元できないもの。決して見えなかった自分の本質を見えるようになること。
青空。「形の歩くもと、形のない青空。シンキング・マインドと肉体でできた自分を雲とすると、いままではずっと自分は雲だと思って生きてきた。ヴィパッサナー瞑想を始めてからも長い間、雲である自分が、別の雲を客観的に観察するのがヴィパッサナーだと思い込んできた。だけど、あるとき雲が一斉になくたってしまった。青空だけになってしまった。だけど不思議なことに、青空だけになった青空をきちんと認識できているわたしがいた。もしわたしが雲だったならば、雲がなくなってしまった後の青空を認識できないはずなのに」130
「道智」「果智」アビダンマを参照。
「青空だけになって、しかも認識できたとき、その時に「じゃ、わたしって誰?」という根源的な問を発すると、…私は青空なんですよ。…そして青空であるわたしの中に、当然もちろん雲も浮かんでくる。だから雲もわたしの一部である。…いまはわたしは本質が青空であり、その中に雲が浮かんでるということになる」131-132
そして慈悲が重要となる。エゴと慈悲。悪しき習慣(ハビット・エナジー)を断ち切るために慈悲を養う。「わたしが幸せでありましょうに」。慈悲の瞑想の最初。これがエゴを完全に断ち切ることばとなっている。なんのこっちゃ。ここがちょっとわかりにくい。
面白いのが、大乗仏教圏では、この慈悲の瞑想に違和感をもつこと。山下良道氏もチベットで、抵抗をかんじていたと行っている。大乗仏教には慈悲の瞑想はあrが、やはりなんか違和感があるようで。
ニミッタ(nimitta)、光。見ようと思って見るもではないらしい。
「座禅にしてもマインドフルネスにしても、技術の習得みないな枠組みでしかとらえられていないところに致命的な問題がある」197
セラピーとしてのマインドフルネスの限界。座禅とエクササイズとでは、気付きの質が異なる。それhが何であるのかがわからなければ、本当の瞑想とはならない。
「体の微細な感覚を見る」
四念処 身と受と心、そして法。法(ダルマ)はそのとの世界のこと。
山下良道氏、テーラワーダでは、シンキング・マインドしか想定していない。

ティック・ナット・ハン氏は、おそらく大乗的な発送から、主と客のはなれた非二元論こそが、ヴィパッサナーといっている。

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