2017/12/26

『階段を下りる女』  ベルンハルト・シュリンク

『階段を下りる女』  ベルンハルト・シュリンク 松永美穂 訳

これは、ぼくにはちょっと理解しがたい内容だった。まあ、ほくが考えたことを書いておく。特に各センテンスの前後のつながりもなく、メモ程度のもの。

絵に閉じ込められている若い時代の女性は永遠にそのままの姿を保っている。しかし実際は余命いくばくもなく年老いた女。病のために一人でトイレにも行けず、ときにはベッドで糞尿を垂れ流してしまう。この老人というものの実存。
絵を返してほしいとせがんでくる元夫二人。結局戻ることがないと観念し、二人は女のもとを去っていく。
女の過去。秘密警察のようなことをやっていたのか。このあたりがよくわからないところ。
最後、知らない間に海に落ちてしまったのか、女がしなくなってしまった。すべては焼かれてしまい、女が望んだベッドの上で死ぬことはかなわなかった。
男と女が共謀して絵を奪った昔、女は男を愛していなかった。そして、それは年老いてからも変わっていない。絵をシドニーの展覧会に出品したことは、元夫二人をおびき寄せるためであったが、おまけで付いてきた男が最後まで残ることになる。
最後に一度きりのセックスをする。それは老人同士のセックス。
階段から下りてくる年老いた女。その姿は、過去の若い時分の姿かたちとは違うが、しかしまさに彼女であること。そして男は、果たして絵の中の女を愛しているのか、それともこの年老いた女なのかと考えるが、まぎれもなく年老いた女を愛していることがわかる。
昔、なぜその道を選ばなかったのか、選んでいたらどうなっていたのか。無駄な思念。

この小説は、ちょいと難しく、というよりもこの小説が描いている世界を感じることは、難しいかもしれない。僕は正直、なんのことやらと言ったところだろうか。いずれわかる時が来るのだろうか。

2017/12/20

『アップデートする仏教』藤田一照 山下良道 幻冬舎

「非想非非想処」 パオ・メソッド
思いの過剰 思いの手放し
気づくこと
「ともあれ、実際に呼吸瞑想をしていてわかるのは、シンキングがあるせかいで呼吸に気づくのは、実は不可能なんだということです。…なぜわれわれが気づくこととシンキングを混同しそうになっているかというと、やはり気づくこととシンキングというのを結局同じ次元のものと受け取っていたからです」121
つまり呼吸に気づいているというのは、シンキングとはの他にある。
ティック・ナット・ハン『Transformation and Healing(『ブッダの〈気づき〉の瞑想』)のなかで、マインドフルネスとは、シンキング・マインドが落ちたところで理解されている。主体と客体に分けていた世界から離れれたところにある。
そんなことができるのか?

ヴィパッサナーの目標は「無常・苦・無我」を観察すること。だがさらに咲があり、精神的なもの(ナーマ)や物質的なもの(ルーパ)が生じない世界へと入っていくことが究極の目標。つまり生滅が終わった世界。つまり涅槃。
ここで難題がでてくる。涅槃の状態、もしくはヴィパッサナーしている時の認識しているものは何か。それはシンキング・マインドではないはず。肉体とシンキング・マインドに還元できないもの。決して見えなかった自分の本質を見えるようになること。
青空。「形の歩くもと、形のない青空。シンキング・マインドと肉体でできた自分を雲とすると、いままではずっと自分は雲だと思って生きてきた。ヴィパッサナー瞑想を始めてからも長い間、雲である自分が、別の雲を客観的に観察するのがヴィパッサナーだと思い込んできた。だけど、あるとき雲が一斉になくたってしまった。青空だけになってしまった。だけど不思議なことに、青空だけになった青空をきちんと認識できているわたしがいた。もしわたしが雲だったならば、雲がなくなってしまった後の青空を認識できないはずなのに」130
「道智」「果智」アビダンマを参照。
「青空だけになって、しかも認識できたとき、その時に「じゃ、わたしって誰?」という根源的な問を発すると、…私は青空なんですよ。…そして青空であるわたしの中に、当然もちろん雲も浮かんでくる。だから雲もわたしの一部である。…いまはわたしは本質が青空であり、その中に雲が浮かんでるということになる」131-132
そして慈悲が重要となる。エゴと慈悲。悪しき習慣(ハビット・エナジー)を断ち切るために慈悲を養う。「わたしが幸せでありましょうに」。慈悲の瞑想の最初。これがエゴを完全に断ち切ることばとなっている。なんのこっちゃ。ここがちょっとわかりにくい。
面白いのが、大乗仏教圏では、この慈悲の瞑想に違和感をもつこと。山下良道氏もチベットで、抵抗をかんじていたと行っている。大乗仏教には慈悲の瞑想はあrが、やはりなんか違和感があるようで。
ニミッタ(nimitta)、光。見ようと思って見るもではないらしい。
「座禅にしてもマインドフルネスにしても、技術の習得みないな枠組みでしかとらえられていないところに致命的な問題がある」197
セラピーとしてのマインドフルネスの限界。座禅とエクササイズとでは、気付きの質が異なる。それhが何であるのかがわからなければ、本当の瞑想とはならない。
「体の微細な感覚を見る」
四念処 身と受と心、そして法。法(ダルマ)はそのとの世界のこと。
山下良道氏、テーラワーダでは、シンキング・マインドしか想定していない。

ティック・ナット・ハン氏は、おそらく大乗的な発送から、主と客のはなれた非二元論こそが、ヴィパッサナーといっている。

2017/12/09

人はオピオイドでは死なない。無知だから死ぬのだ。

人はオピオイドでは死なない。無知だから死ぬのだ。


Scientific American, November 2017, ‘People are not dying because of opioids’

最近、オピオイドが関係した、多くは白人の姉妹兄弟たちの死が大きく話題になり、ドナルド・トランプはオピオイドの問題を国家の緊急危機だと断言している。そして多くの時間と労力とお金をオピオイドにつぎ込むと誓っていた。なぜなら「未曾有の深刻な危機」だからだと言うのだ。
これは間違いだ。1960年代後半にヘロイン危機が同様の流行のなかで繰り広げられていた。しかし、メディアではヘロイン中毒者の顔は黒人で、貧しさが漂い、自分の地域の人達を養うためにケチな犯罪を繰り返すことを生業にしているといった感じだった。一つの解決策は使用者を締め出すことだったが、特にニューヨークの悪名高きロックフェラー薬物法の可決後はひどかった。2000年代初頭までに、この法の下で有罪判決を受けた90%以上がラテン系や黒人で、彼らが代表するほんの少数の使用者と比べても不釣り合いだ(out of proportion to the fraction of users they represented.)。
オピオイド危機が緊急事態と宣言することは主として法執行のための予算を増やすことになり、ありきたりな人種差別を助長させる。最近の国のデータは、ヘロイン密輸のかどで有罪判決をうけた80%以上が黒人かラテン系で、たとえ白人が他の集団より高い割合でオピオイドを使っていても、同じ人種集団の中で個人売買によって薬物を入手していたとしてもだ。
大統領はオピオイド危機を「世界的な問題だ」とも言っている。そんなわけない。オピオイドが次第に利用可能になっているヨーロッパやその他の地域全体をとおしても、アメリカと同等の比率で人は死んでいない。大きな理由として中毒者を犯罪者とは見ずに、社会の公衆衛生の問題として見做しているからだ。
確かに単にオピオイドの大量摂取で死ぬことはある。しかし、これはオピオイド関連の死の内で少数を占めるに過ぎない。多くはオピオイドと他の鎮静剤(アルコールなど)やアンチヒスタミン剤(プロメタジンなど)、またはベンゾジアゼピン(サナックスやクロノピンなど)を併用することが死亡してしまう主な原因だ。
人はオピオイドで死ぬのではない。無知だから死ぬのだ。
フェンタニルのような合成オピオイドが少なからずあるがそれはヘロイン同様に気分の高揚を生み出すが、かなり多くの成分からなっている。悪くすると、いくつかのメディアの報道によれば、不法ヘロインはよくフェンタニルが混ぜてあり品質が落とされているようだ。もちろん、これは問題で、死に至るものだ。というのもヘロインユーザーは、その物質がヘロインだけであることは疑っていないのだ。
ある一つの解決方法は、無料の出所不明の薬物純度検査を行うことだ。もしあるサンプルが混ざりものを含んでいるなら、使用者は報せがくる。このサービスはすでにベルギーやポルトガル、スペイン、スイスのような国で存在していて、まず目標として使用者を安全にさせることだ。行政は、ストリートドラッグを没収したどんな時でも、このテストをすべきだし、潜在的に危険な混ぜ物が入っているならば、使用者に知らせるべきだ。加えて、オピオイド過剰摂取への緩和剤であるナロキソンはもっと十分に製造されるべきであり、救急サービスにだけでなくオピオイド使用者やその家族や友人にも利用可能であるべきだ。
ほとんどのオピオイド使用者は中毒にならない。もし白人で、男性で、若く失業しているなら、そしてもし同時に精神障害を持っているならば、使用者が中毒になる可能性は増すのだ。だからこそ、単純にオピオイドを撲滅させるような非現実的な目標に集中するのではなくて、治療に向かう患者の綿密な評価、これらの要因に特に注意することは重要なのだ。
スイス、オランダ、デンマーク、ドイツのような多くの国では、オピオイドの治療はヘロインを日常的に注射することを含んでいて、それは糖尿病の治療で、患者の医学的、精神医学的な問題を扱いながら、日々インスリン注射をしているようなものだ。患者たちは職を持ち、税金を払い、長生きをして、健康的で生産的な生を送っている。しかし、アメリカではこのようなプログラムが議論されてこなかった。
20年間、初めてヘロインを試すアメリカ人の人数は、あまり変わっていない。ヘロインの使用は特別、オピオイドの使用は一般的というのは意味がない。これは薬物使用を支持しているのではなくて、経験的な証拠から現実的な状況判断だ。政治家からの無知な言説でオピオイド危機に取り組むことと公的な金を不適当な使い方をされることは、使用者の安全にはまったくしない。一度だけも科学に則った、うまくいくことが証明されている介入をためすべきでしょう。


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Scientific American11月号からの記事。
有名人の薬物使用の報道なんかみていると嫌な感じだ。報道のリンチが毎日繰り広げられることになる。薬物使用は日本の法を犯しているにすぎず、道徳的・倫理的に悪かどうかなんて答えられない。なぜなら、薬物を使ってはいけない理由は、その人の人生を狂わせるからにすぎず、または暴力団等へ資金が流れるからというにすぎない。
世の中には薬物の乱用で苦しんでいる人がいるかもしれない。そういう人たちへの社会の不寛容はすさまじい。この「社会」とかは、何を意味しているのか。メディアなのか、実体のある人間やコミュニティを指しているのか。本当に不寛容なのは誰なのか。
僕はメディアだと思う。メディアが騒ぐだけだ。メディアが社会を代弁していると錯覚しているのか、便宜上言っているのかわからないが、薬物に苦しんでいる人がいるなら、その人を非難するのではなく手を差し伸べるものなんだが、メディアはそうしない。

ハーム・リダクション(harm reduction)という考えがある。この記事でも紹介されているように薬物を撲滅できない以上、使用者の安全を考えて、安全な薬物の使用を促したり、中毒者は急にはやめられないので、徐々に使用量を減らしていったりさせる。
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2017/12/06

『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』 デヴィッド エドモンズ ジョン エーディナウ/二木 麻里 訳 ちくま学芸文庫

ウィトゲンシュタインとポパーの火かき棒事件を中心にしたノンフィクション。このケンブリッジ大学での起こった事件を焦点に合わせて、友人知人、家族、学生などの証言や、ウィーンの文化的特質、ユダヤ人、戦争などを織り交ぜながら書かれている。
ウィトゲンシュタインとポパーの哲学における相違はあまり言及がなく、単なる群像劇になってしまっている。一つ一つのエピソードは面白い。ウィトゲンシュタインは探偵小説が好きだったとか、ウィーンを故郷にもつポパーは妻の死後社交的になったとか、両者ともに短気だったとか。
面白いところもあるが、結局、火かき棒事件自体が大した事件でもなんでもないのに、ウィトゲンシュタインとポパーの諍いが収斂した場と描かれていて、んーそんなもんかなーと首をかしげる。第一、火かき棒事件の時に話された内容自体がそれほど多くないようだ。哲学の問題はもはやないと主張するウィトゲンシュタインに、そんなわけあるか、政治的なコミットメントなど重大なことがあるじゃないかというポパーとの中途半端な議論があっただけ。だからなんだというところで別段「エニグマ」でも「パズル」でもないだろう。
哲学の議論がほとんどないため物足りない。
ただウィトゲンシュタインとポパーがどんな時代を生きていたのかがわかる。でもウィーンのコスモポリタンあふれる雰囲気の中で彼等の思想にどんな影響があったのかは中途半端。せっかくウィーンやユダヤ人の問題を詳細に書いているのだから、それと関連して彼等の哲学にどんな影響を及ぼしてきたのかをもっと書くべきだ。この本ではウィトゲンシュタインやポパーの哲学に関する記述は少ない。故になぜ彼等の思想の対立が重要なのか、後世の哲学者にどんな影響を及ぼしたのかがあいまいなまま。
果たしてウィトゲンシュタインやポパーに興味がない人に、この内容は面白いのか。興味がある人にとって物足りない、興味ない人には不親切な内容だ。
正直に言って、BBCのドキュメンタリーの方を見るだけで十分で、本で読む必要はないと思う。


まあ実りがなかったわけではない。本書を読んで、今一度学生以来遠ざかっていた論理学をもう一度勉強しなおしてみようと思った。そしてレモンの『論理学初歩』と金子先生の『記号論理学入門』を買ってしまった。10年以上ぶりの復習となる。