ウリエル・ダコスタはユダヤ教から破門される。破門後、孤独に堪えられずに破門撤回を要求する、その際に撤回の儀式があり、公開で半裸で鞭打ちされるという。この屈辱に堪えられずピストル自殺をする。ダコスタはスピノザよりも一世代上とのことだが、実際に身近な人物として良く知っていたはず。ヒルセンベルグという画家が想像で幼いスピノザを膝で抱えているダコスタの油彩画が、本書に掲載されている(59)。なかなかいい。
清水禮子『破門の哲学』で取り上げられている回想録『レンブラントの障害と時代』がなんと後世の作品でるとのこと。なんということ。原文が存在していないという。この回想録ではファン・ローンがスピノザのキズの診察をした際に破門が心にキズを負ったような箇所がある。
スピノザのレンズ磨きについても書いてある。スピノザはどうやって生計をたてていたのか。疑問だが、当時レンズ市場がどれくらい盛り上がっていたのかはまだ確定したことはないようだが、これが解明されるとスピノザの¥がレンズ磨きで得ていた収入のおおよそもわかるのではないかと。
「人間は自分の意志で存在し始めたわけでもないし、自分の意志で存在し続けていられるわけでもありません。嫌でも生れてきて、意のままにならないことだらけのこの世を不承不承に生きていき、そのうち嫌でも死んでいく。これが人間の基本のあり方です。つまり人間の生もも、生の中での人間のさまざまな活動も、人間以外の何かによっていつもすでに条件づけられています。あきれるほどの宏運に恵まれて続けるか、あきれるほど無自覚に靭性を送らない限り、これを著看的に偽呈するのはむすかしいでしょう。そういう条件、つまり人間を含めた万物がいる¥つもすでにそれにしたがって存在し狩る銅している原理のことを、西洋哲学の伝統的用語では「神」と呼びます。……この神からの出発という発送が、『知性改善論』ではかなり薄いままにとまっているようでに思われます。つまり『神・人間及び人間に関する短論文』という名称からも明らかなように、まず人間の存在・活動条件としての「神」の問題をふまえてから「人間」の問題に移り、採取的に「人間の幸福の問題を論じるというという全体の構からすれば、むしろ『短論文」の方が『エチカ』にストレートにつながるのです。」(113-114)
「議会派の支持基盤は、比較的大規模な取引に従事する商人たちでした。彼らは独立戦争の記憶もまだ新しかったこの時代、宗教対立で商売が立ち行かなくなることの恐ろしさを誰よりも通関していたはずです。……結果的に議会派の勢力が総督派をどうにかこうにか抑え込んでいた時代のオランダは、同時代の西欧諸国と比べて、少なくとも表面上は宗教問題に寛容な国となったわけです。スピノザが『神学・政治論』を世に問うたのも、まさにそうした議会派の時代でした。」(138)
そして吉田さんが私的することで重要なのは、総督派は改革派教会主流派と協力関係にあり、そもそも総督派は「主流派」であることだ。そして改革派教会主流派は「公教会」と称されているとおり特権的な宗派でもあった。こうなると議会派も総督派も関係なく「公教会」を正面から批判なんかできなかったと。
『神学・政治論』について、預言者は「並外れた活発な想像力」をもつ人物であると、直接的にではないが、書いていること。「しるし」が必要だが、それは「証拠」ではなくてもいい、預言者本人が神から言葉を授かっているという気持ちが重要と述べていること。この思い込みが確実性であると。ではどうしてこのような人物たちが預言者として信頼を集めたのか。それは彼らが折り目正しい生活を送っていたから。論理構成だとか証拠だとかではないということ。
「決まりには、(a)自然にそう決まっている決まりと、(b)ひとがそう決めた決まりがあります。aは今日の私たちが言うところの自然法則ですから、変わりません……bはaによって決まっている人間の活動範囲の枠内で、さらにその可能性の範囲を絞ろうとするものです。たとえば「赤信号で道路を渡ってはいけません」という決まりは、本来いつでもどこでも道路を渡る能力をもっているはずの人間に、この能力を信号が青の時に限って横断歩道上で行使するよう求めています。逆にaの枠を踏み越えてしまうことを命じるようなbは、いくら作っても有効に機能しないはずだとスピノザは考えています」(179)
そして旧約聖書の律法はbであり、これは特殊な、古代イスラエル人をまとめあげるために決まりであり、神の権威によって、神の法として、国に法とし位置づけられた。しかしこれはすでに失効しているとスピノザは考える。だからそれを後生大事に守り、読み続ける必要はないとなる。つまり聖書は真理を語る書物ではないという結論になる。
「折り目正しい」生活態度、これをスピノザは「ピエタスpietas」というラテン語で読んいる。「敬虔」と訳されることが多いようだが、ある宗教、宗派を信じているかではなく、何を道徳的な命令として実践しているかに左右されるという。宗教性を帯びている「敬虔」では捉えられない射程がある。『神学・政治論』の結論として、神学は道徳的教化であり、哲学は真理の合理的探究であり、ゆえに神学側が哲学を「不敬虔」となじったり、逆に哲学が神学を「不合理」と非難することは、越権行為であるとなる。
ホッブズの社会契約説とスピノザの社会契約説。ホッブズは自然状態にある人が自然にもっている権利を自然権とし、それは声明を維持するためにもっとも適当な手段であると考えられるあらゆることを行う自由」、つまり「何をしてもいい自由」。自然状態には社会はない。しかしそれではまずい。万人が万人に対する闘争状態では安心して生きていけない。だからこの自然権を放棄するのではなく、誰かに譲渡する。誰に。強大な権力機関に。それは万人が譲渡しなければならない。これは法の支配、つまり誰かが決めた規則を受け入れることを意味する。しかしこの論は規範を規範として成り立たせるような条件についての考察を欠いてしまうことにもなる。権力者が決めたという理由だけで、無条件で正当化されていく危険がある。法をつくるのは真理ではなく権威であると。とはいいつつもホッブズの議論では、国は人に死ねという規範を組み込むことは否定される。というのも自然権に反するから。
スピノザの自然権は、「自然の権利や決まりとは、わたしの理解では、個物それぞれに備わった自然の規則に他ならない。あらゆる個物は、こうした規則にしたがって特定の氏からで存在し活動するよう、自然と決められているである。」(205)
スピノザにとって自然権を自然状態から考えていない。つまり自然権を規範命題として扱っていない。生きるためにあらゆることをしてもいいということを言っているのではない。個物そのものに自然に備わった力からみて何ができるのか、という事実命題である。大きい魚が小さい魚を食べるのはこの自然権による。つまりスピノザの自然権はすべてあらゆる個物がもっている。これはた「食べてよい」という規範を述べているのではない。魚にそれ以外の生き方を強制することはできないということを述べている。
この自然権を踏まえない社会規範はいくら立てても向こうであえい、もしそうした規範を無理矢理立てる人がいたら、その人は「無茶苦茶なあほ」であるというのがスピノザの政治哲学の核心となる。(207)
人間の自然権には可塑性がある。無茶な規範にも対応できてしまう。しかしその可塑性がるにもかかわらず、どうしようもなく残る、いくら強制されてもそう簡単に手放したり譲ったり出来ない部分、それは「哲学する自由」となる。哲学しないで生きることは、魚にとっては陸上で暮らすのと同じくらい不可能であると。(208)
スピノザはホッブズとは異なり、自然状態を想定しない。ホッブズは自然状態が自然権より先行しているが、スピノザは自然権が自然状態に先行している。この順序の逆転は、「スピノザの政治哲学に、社会契約説としては致命的と言えるような帰結をもたらします。自然状態を経由せずに規定されたスピノザの自然権は自然状態の解消としての社会契約に、本質的左右されないくなるからです。つまりひとびとは自然状態を解消しようとしまいと、契約を結んで社会的関係に入ろうと入るまいと、ひとびとの自然権は当人の手元に本質的に変わることなく残り続けることになります。」(208)
スピノザにとっては契約は利益をもたらすものでなかれば無効であるとしている。社会契約が結ばれるのでも利益がなかればダメで、たんに服従しろでは、それがいい悪い以前にそういう社会契約は淘汰されるという。このあたりちょっと弱い論理構成。
「社会の支配機構としての国家は「むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒り騙しあいのために争ったり、敵意をつのせあったりしないためにある:とスピノザは主張し、そしてここから「だとすると、国というものは、実は自由のためにあるのである」という有名な結論を導き出します」(219)
「神と世界が「実体とその様態」の関係にある」とは。
実体substantiaをスピノザは「自分自身の内にあって、自分自身を通して考えられるもの」と定義している。猫は黒だろうが白だろうが、歩いていようが、走っていようが、猫は猫。これが実体。様態とはラテン語でモドゥス、尺度の意味。そこからが生してあり方や状態、性質を意味するようになる。服装などのモードも同じ「あり方」程の意味。とは言いつつ。実体というのは先ほどの定義からするように存在を外部に依存しないものである。それは神以外にはどのような実体もない」というスピノザの定義もある。
では猫はなにか。これは様態になる。「それは実体としての何かが猫っぽいあり方をとった状態にほかならず、わたしたちはそういう状態を指して猫と呼んでいることになります」(260)。「猫は神という自体いの様態、もっとは切り言えば、猫モードの神なのです」(260)
「スピノザの神と個物の感銘は、この画家と絵の関係に似ています。画家が絵を描かないわけにはいかないとように、神は個物を存在させないわけにはいきません。それは神が「その本質に存在が含まれている」もの、分かりやすく言いかえれば存在の力を本質としていて、この存在の力は個物を存在させる力として表現されるからでう。しかも神はそもそも外部をもたないので、画家における交通事故やの嘘中のyぽうな、表現の妨げになりうるような外的原因を一切もちません。存在の力としての神は、その力のいわば情維持発動的な表現としての様態を、つまり@「個物モードの神」を生み出さないわけにはいかないのです。表現として個物を生み出さない神はありえず、神なしにその表現としての個物もありえない以上、スピノザの神と個物は、表現を介して事実上、表裏一体の関係にあると言えます。それはどちらのイニシアチブをとることもない、同時発生的で同根的な関係です。だとすると、スピノザにとって世界の存在は「余計なもの」どころではなくなります。世界の中のあらゆる個物的存在者は、ひいてはその総体としての世界は、たしかに「その本質に存在がふくまれている」ものではなりません。にもかかわらず、それらは他のだれかの善意や気まぐれのおかげでたまたま存在してるのではなく、「個物モードの神」としての自分自身の力によって必然的に存在しているのです。」(265)
自由意志のないものも、自由でありうつか。もしありうるとしたら、その「自由」とはどのような意味の自由なのか」
自由意志ではない何かによって行動した。ゆえに責任はない。これは無理がある。責任を問題にするなら、その行為を駆りたてた理由(動機)が合理的に解明されなければならない。動機が不明瞭でなんとなくの行為した人に責任能力を帰するのは困難。しかし『異邦人』の太陽のせいと主張しても、本当の動機が合理的に推定できると見なされれば有罪になる。
「『エチカ』を読み進んでいくとわかるように、スピノザにとっての悪とは、非難や球団の対象ではなく原因究明の対象です。たとえばどんなに原正く、迷惑きわまりないものであっても、悪は必ず原因から生じます。原因から生じるとは、言い直せば、邪悪なだれかの気まぐれ(自由意志!)からたまたま生じるわけではないということです。したがって特定の人に悪の「責任」を押しつけ、彼をまるで外宇宙から突然現れた病原体のように血祭りにあげたとしても、悪に有効に対処したことになりません。原因を救命士、これを人間社会の仕組みから構造的に除かないかぎり、同じ原因がそろえば同じ結果、同じ悪が何度でも生じるからです。だからこそスピノザは人間の尾所内をあまりにも短絡的に「嘆いたり、あざ笑ったり、蔑んだり、一番ありがちなところでは罵ったり」する世間の風潮に警鐘を鳴らし、むしろ「人間たちのしでかすさまざまな過ちや無益な行いを……幾何学的な仕方で取扱い始めることを、つまり「人間のさまざまな活動や衝動を、まるで線分や平面や立体をめぐる問題であるかのように考察していく」ことを宣言するのです」(272)
因果関係と自由意志を切り離す。因果関係を辿らず、誰かの邪悪さのせいにするのは、スピノザは認めない。自由意志で説明することは楽なことなのだ。
スピノザがいう神には自由意志がない。誰かが、神がデザインした世界という決定論は認めらない。何が可能で産出されるかは神にもわからない。ある事象が起きてから遡及的に原因を解明できるだけ。
スピノザの心身並行論。
デカルトの松果体説。デカルトは、精神は松果体に宿り、これが身体を操縦していると感がる。
スピノザはこの松果体説とは異なる解答をだす。「あり方の属性が異なる以上、精神が身体を動かすこともなければ、身体が精神を動かすこともない」。デカルトの概念区分からすればこうなる。精神と身体の関係を因果関係として捉えるのではなく並行関係としてとらえる。「さまざまな肝炎の順序および結びつきは、さまざまなものの順序および結びつきと同じである」(第二分定理七)。
「わたしの精神に生じる何らかの変化(a)jは、わたしの身体に生じる何らかの変化ではなく、同じ変化(A)を二つの側面から表現したものとして、いつも同時並行的な対応関係あります。手足を動かそうと「思って」実際に手足が「動く」のではありません。手足が動くという銅さを意味出した物理的・生理的変化(b')と、この動きに並行して精神のうちに生じた変化(b)が、対応しているだけなのです。アルコールの過剰摂取が原因となって、その結果至高がまとまらなくなるのでもありません。アルコールの過剰摂取が人間身体に生み出す変化(b')と酩酊した精神が生み出す取り止めのない思考活動(b)が、対応しているだけなのです。」(283)
自らの存在に固執しようとする力(コナートゥス)
表面にでてくる感情はもとをただせばたった一つの原感情にいきつく。
「あらゆるものは、それぞれできる限り、自らの存在に固執しようとする」(第三部定理六)
自己同一性を維持しようとする生物のあり方。たとえば新陳代謝。そして自分のあり方に対する意識を伴ったコナートゥスのことをスピノザは「欲望cupiditas」と呼ぶ。『神学・政治論」後半部の政治哲学。「国という者は、じつは自由のためにある」と、自由を踏みにじる国家は自らの存在理由。存立基盤を堀りくずす。哲学する人間の「現に働いている本質」見出す『エチカ』。