2017/08/18

『ファルマゲドン』 デイヴィッド・ヒーリー みすず書房

日本で薬の認可は時間はかかるのが弊害という。アメリカでは逆にあまりに認可基準が甘すぎるという。
かつての医療は、「薬を使用しない場合の経過をみる」ことの重要性を持っていた。
医師が発行する処方箋の害悪について。かつては医師に頼らずとも、アヘン、ブロム剤、胃腸薬などを手に入れることができた。これは、医師にかかること自体が稀なことであったことを意味している。医師にかかる、それは重篤であったりした場合の選択肢だった。
処方箋がなければ薬を買えないということは、ある意味正当なことのように思えるが弊害も多い。というのも医療が根本的に非対称性を有しているからだ。
処方箋というシステムは、消費者と注文者が異なるということだ。注文するものが直接使用するのではない。消費者は患者だ。患者は医師の言いなりににその薬を使う。医療は専門性の高い分野なだけ、非対称性が働いてしまう。医師がこれを飲め、これが効くといえば、信頼しなければならない。ただ実際の使用者は、自身で効果の程を実感できるものだが、たとえ効き目がないと思われても従ってしまう。高血圧やコレステロールを下げる薬というのは、実際、実感が沸かないものだ。効果があろうがなかろうが服用しなければならない、これがこの処方箋薬の害悪の最もなところ。処方箋というシステムは、患者に薬の選択肢を与えないことである。

「薬が効いた」とは一体なにを指しているのか。かつては医者が薬を処方すれば、手に取るようにその効果があったものだった。抗生物質は明らかに効果があったし、アヘンの鎮痛剤は明らかに痛みを和らげていた。ただし薬とはこれほど明確な効果を見られるものばかりではない。そこがつけ入る隙間を与える。似非医者や代替医療などがそうだ。しかし、それは現代において認可されている薬においても同様だ。効果があるかどうかは、治験によるエビデンスをもとにすべきということになる。医療はart(術)ではないと。
エビデンスによる評価は、当初は因果関係を明確にできなかった。1870年代コッホの細菌学の提唱によって病原菌説が医療にインパクトを与えた。ジョン・スノウは19世紀のコレラの流行を水源に求められたことで、コレラの発生を防いだ。疫学の誕生だ。ジョン・スノウの業績は、コッホの細菌学によって立証された。
無作為化比較試験のルーツについて。ロナルド・フィッシャーは、肥料が穀物の収穫量を向上させるかどうか調べていた。ここで使用された2つの概念、無作為化と統計的有意性を導入した。
無制限に巻かれた肥料は、穀物の収穫量を一見すると向上させたように見せる。しかし、土壌、日照、灌漑、気候などの要因が結果に影響している。ここで「判明している未知の要素known unknown」と「判明していない未知の要素unknown unknown」をコントロールすることが必要となる。無作為の割付はこの2つを同時に処理してくれる。
フィッシャーのアプローチは、基本的に新たな肥料には効果がないことを前提としている。これを帰無仮説という。20回のうち19回で収穫量が、他の区画より高かった場合、初めて偶然性を排除し、新たな肥料が何らかの理由で効果があったと譲歩できるとするのである。これの意味するところは、肥料を施された畑の収量が多かった理由が偶然の結果であった可能性が低いといったことを意味するにすぎない。しかし、このことが薬剤とプラセボに応用されると、無意味な差異が偶然生じた可能性は低いという意味となり、有意であると見なされる。ここで統計的有意性は、実験設計で変化する。つまりは条件がさまざま状態で何度も実験を繰り返し、類似の結果を導くことができるのかどうかだ。すなわち有意であるといえるのは、実験を行う方法がわかって初めて意味をなす。この統計という方法は、フィッシャー自身はそう思っていないが、数字が伴いあたかも科学的と見えてしまうのだ。有意である数字がでた、つまり科学的に証明されたと。
内実では、50%がプラセボ以上の効果が発揮されていなくても、有意があると判定される。有意であることは、フィッシャーにとっては偶然の結果を意味するかもしれないので、効果があったと言えないのだが、有意であることが薬においては、それを認可するにあたって十分な条件となる。有意であることは、偶然性ではないということになってしまったのだ。
そして、この単なる有意であることが、大きな力をもってくる。無作為化比較試験の有利なところは、大規模な被験者を募ることがなく、少人数でその結果を導くことにある。しかし、参加者が大きければ大きいほど有意な実験結果を導くことができるからだ。
つまりエビデンスとは統計的有意な差があることを指すことになってしまったのだ。そしてこのことが、副作用や薬害などのリスクを統計的有意が生じないように操作できるようにしてしまっている。「効く」有意な差はベネフィットとなり、副作用の有意な差はないことにされる。

かつての製薬会社は石油会社のように、油田をさがすように薬を開発していた。それは大学の研究室のように、偶然性が支配していた。しかしそれが変化して、効くか効かないかわからい薬や悪影響がある薬を、はたまた特許の切れた薬の分子構造を少し変えて、新たに特許をとったり、他の病気に転用したりする仕事に変わってきた。ここで幅をきかせるのがマーケティングだ。製薬会社の働きかけは、医療の現場のガイドラインの作成に影響を及ぼす。このガイドラインになになにの薬を処方するようにと書かれていれば、医者はそのガイドラインにそった治療をしなければならなくなる。ガイドライン自体は強制的なものではないが、従わないと病院を追い出される、もしくは似非医者のレッテルを張られることになるのだ。

製薬会社は、薬を大量に消費させるために、新たに病気を発明することも辞さない。いや、実際にその病気は存在するかもしれないが、解釈を拡大させたりする。躁鬱病、喘息、PTSD、などなど、これらの病気の深刻さを宣伝し、いつのまにか世間を賑わすトピックになっているのだ。

→病気とはなにか。
→予防医療とはなにか。

1870年代、体重計の発明により、体重を測ることが奨励され、そして診療に世界的に使われるようになった。これは体重計は標準体重という概念を生み出す。それまで健康であることの指標であった見た目の「ふくよかさ」が、いつのまにか潜在的な病を有する不健康な状態へと変化した。そして体重の維持が美を保たせる一つの基準となり、ひいては欧米では三分の一の女性がかかったとされる摂食障害の要因のひとつなっているかもしれないのだ。


なんとも恐ろしきかな。

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