第一部 前近代ムスリムの世界像と世界史認識
古典時代(9ー10世紀)のアラビア語地理書
イブン・フッラダービド(825ー911)、マスウーディー(956歿)、ムカダッスィー(945年頃ー1000年頃)の地理書の記述の傾向について。
1 プトレマイオス地理学を踏襲している。
2 前二者については、古代イラン的世界像が残っている。気候による区分。
3 バルヒー学派のムカダッスィーはイスラーム世界という区分を使うが、前二者はこういった区分けはしていない。
4 ヨーロッパに関する記述は少ない。
その後のアラビア語地理書(11-15世紀)
イドリースィー(1100ー1165年)も基本的に古典時代を踏襲している。ただし、シチリアノルマン王国につかえていた関係で、ヨーロッパの記述が詳しい。またイスラームと非イスラームの区別も特にしていない。
イブン・ハルドゥーン(1332ー1405年)の古典時代を踏襲している。古典時代同様、イスラーム世界に限定されない記述。
モストウフィー(1281ー1339年)は、ペルシア語で地理書を書く。イランの地という概念を生み出す。
当時の地理的中心をイラクにおいているのが、全体的な特徴。しかし、一部バルヒー学派のようにイスラーム世界と非イスラーム世界を意図的に分ける場合もあるが、大部分ではこのような区分けはしない。イスラーム対ヨーロッパのような見方もしていない。
近代にみられる「イスラーム」を地理的、理念的なものとしては見なしていなかった。
第二部 近代ヨーロッパと「イスラーム世界」
サイードへの批判。「近代以前の「ヨーロッパ」におけるイスラーム認識を論じる現代の研究者は、自らの頭にある「イスラーム」や「イスラーム世界」という概念を過去に投影し、過去の文献のうちからそれに相当すると思われる部分を「イスラーム」ないし「イスラーム世界」として切りとったりつぎあわせたりして、当時の人々のそれらに対する態度や言説を「イスラーム」ないし「イスラーム世界」認識として語るのである。このように、ある時代にはまだ存在しなかった概念に対する当時の人々の認識の是非を現代の時点から論じることは、果たしてどれだけ学問的に意味があるのだろうか。」108 「イスラームが「アラブ的・オスマン的・北アフリカ的・スペイン的形態」をとりながら、ヨーロッパ・キリスト教を支配したと考えるのは、ほかならぬサイード自身なのである」109
17世紀末時点では、イスラームという語は広まっておらず、「マホメット教」と呼んでいた。「シスラーム」の用語をフランス語で初めて紹介したとされるデルブロ。そのなかで「ビラード・アル=イスラーム」という語がデルボラは使用するが、これはあくまでも一部のムスリムの空間概念として使用されている。さらにはフルティエールのフランス語辞典では、トルコ人のマホメット教とペルシアの宗教が共にイスラム教であることを認識していなかった。そしてムガル帝国も個別に認識されていた。
17世紀後半の旅行家シャルダンもイスラームを単位と見ておらず、当方地域を区分する時、国名ないし民族名を使用していた。シャルダンの知識は当時において最先端のものでシーア派の教義をきちんと説明している。
18世紀後半に出版されているギボンの『ローマ帝国衰亡史』でも、言語、法、信仰の一体性をイスラームの重要なものと見なしているが、「イスラーム世界」という空間概念を明確には持っていない。ギボンのアラブやトルコについての記述は詳細を極めているが、あくまで脇役に位置する。17、18世紀では、「イスラーム世界」という地域概念、空間概念を用いての東方を叙述をしていない。
ルナンのイスラーム批判。ルナンは「「非宗教性」の時代にふさわしいキリスト教のあり方を考究し、セム語の文献学的知識の集大成として、セム対アーリアという対立軸のうえにオリエンタリズムのモデルを構築し、その結果、人種イデオロギーの理論化にも加担して、さらにアーリア的なヨーロッパ文明の普遍性を信じ、民主主義・自由主義・個人主義のフランスをたたえ、そうしたこと全てを、奔流のように力強いフランス語で、ときには攻撃的な雄弁をもって語り続けて」130(工藤庸子から) ルナンは大文字での「イスラーム世界」を語っている。
アフガーニトとルナンとのあいだで論争になる。その際、「イスラーム」という概念が飛び交う。アフガーニーはパン・イスラーム主義者だが、18世紀・19世紀には、ヨーロッパの知識人の世界像が大きく変わっているようだ。どうもナポレオンのエジプト遠征ぐらいからのよう。
このあたりからプラスの「ヨーロッパ」とマイナスの「イスラーム」という図式ができてきている。つまりは進歩のヨーロッパと停滞のイスラームということ。
オリエントという語はアジアをも含むが、ヨーロッパにとってイスラームは身近であり、実際的だった。空間としての「イスラーム世界」認識への転換があった。ただし、ここではまだ「歴史」はない。
またアフガーニーのプラスの「イスラーム」もヨーロッパ思想に深く影響を受けている。「新オスマン人」「イスラームの統一」「パン・イスラミズム」の用語は19世紀半ばぐらいに登場する。アフガーニーの「イスラーム世界」はまさに理念上のウンマ、ムスリム共同体のこと。イスラームという言葉の混乱は、理念上の理念と地域的・空間的な概念が結びついていることにある。
18、19世紀の帝国主義の拡大の中で、アジア研究が盛んになっていたが、彼らは東洋学者で歴史学者ではない。ウォーラーステインは19世紀後半から20世紀前半に諸学問を三つに分類。
1 19世紀以前からすでに存在してた学問……神学、哲学、法学
2 進歩し普遍性を持つヨーロッパ世界を理解するための学問……政治学、経済学、社会学、歴史学
3 不変で特異な非ヨーロッパを理解するための学問……東洋学、人類学、民俗学
つまりはヨーロッパ以外を理解するのに使われる手法は、3であり、歴史ではないということ。
あらにイスラームという枠組みが東洋学では採用されており、そのため古代イラン学はイスラームのカテゴリーから外れることになる。イスラーム学は、日本学、インド学のような「地域」性をもって扱われるようになる。フランスにおける東洋学はルナンの思想を受け継ぐことになる。
イスラーム史の雛形を作ったのがアウグスト・ミュラーの『東洋と西洋のイスラーム』で、ムハンマド誕生直前から書かれている。重要なのは、古代ペルシアは聖書や古代エジプト都の関係上イスラーム史には含まれていない。そして扱われる空間は東インド、中央アジアから西はイベリア半島まで。ここでは住民がムスリムかどうかではなく統治者がムスリムかどうかが条件となる。ここで現代人に馴染み深いイスラーム史が出て来る。
驚くべきは、「イスラーム世界」を単位とした歴史は20世紀に入り、ブロッケルマンの『イスラーム教徒の歴史』という本からで、この本が英訳されるのが終戦直後だ。そしてバーナード・ルイスによりイスラーム世界という図式が出来上がる。それはヨーロッパ対イスラームという二項対立を確立し、ムスリムが統治する地域、信仰、シャリーア、アラビア語という共通性をもつこと。これは現代まで引き継がれることになる。そしてさらにこの考えは逆にムスリム史家にも引き継がれていき、サイイド・クトゥブを代表に「イスラーム世界」と「非イスラーム世界」を想定している。ただしクトゥブの場合は、ヨーロッパが描くマイナスのものではなくプラスではあるが。
ただし、国ごとで歴史教育は異なる。イランではムハンマドと正統カリフを除いてイラン高原が主役で「イスラーム世界」を志向していない。トルコに至っては「トルコ史・テーゼ」なるものがあり、トルコ人とされるシュメール人の優秀さやアナトリアのヒッタイトの先行性が強調されている。そして世俗的国家を標榜していることもあり「イスラーム世界」という枠組みは使用されない。
第三部 日本における「イスラーム世界」概念の受容と展開
江戸時代に新井白石の「采覧異言」(1713)や西川如見「増補華夷通称考」(1708)があるが、当然だが、「イスラーム世界」という概念はない。
明治初期には文部省が観光した教科書『萬國地誌略』(明治7年)では、西アジアの情報が書かれていたが、明治37年の『小学地理』においては除かれてしまい、これ以降、イスラームについての記述がなくなる。
面白いことに、当時のアラビアやトルコの歴史は西洋史として区分されていたりする。古代オリエント、古代ギリシア、古代ローマと深い関係がある西アジアは西洋史である必要がある。ただし付随的なものでしかないようだ。
1909年、パン・イスラーム主義者のタタール系ムスリム、アブデゥルレシト・イブラヒムが日本に訪れ、ヨーロッパの蛮行を訴え、アジア同士協力しようともちかけた。当時の日本人はおそらく彼に共感を覚えた。
日本におけるイスラーム研究の先駆者は大久保幸次(1887-1950)で、欧米経由のイスラーム研究はぷ米人によって歪められているので、直接原典にあたり研究すべきと考えた。彼は「回教圏」をいう用語を使う。これは、まさに理念的な概念と空間的な概念を統合したもの。
回教圏概念は大アジア主義と親和性があり、すんなりと受け入れられる。大川周明も回教研究を個なっているが、彼もイスラームに根底にある統一性を見出そうとしていたようだ。まさにアジア主義の思想が見いだせる。日本の場合、1930年代に回教圏が発見され、政治的な思惑で資金援助もうけるようになる。戦前のイスラーム研究は広範に渡り、決してに中東だけに絞られるものではなく、東南アジアも視野に入れていた。これは日本の政治状況を考えても納得できる。
戦後日本では、中東地域に研究の重点がおかれるようになる。悲しいかな日本でも「回教圏」「イスラーム世界」という枠組みが受容されていく。それは理念的なイスラームと空間的なイスラームの融合なのだが、しかし、多くの点で矛盾する。中央アジアは当時ソ連でイスラーム法は適用されていない。インドネシアも世俗的な権力が政治を司っていた。トルコも然り。にもかかわらず、これらの地域もイスラーム世界となる。
イスラーム誌がアジア史、東洋史の範疇に入っているが、これはアジア主義も名残である。
結論 「イスラーム世界」史と訣別
あたかも「イスラーム世界」的ななにかがあるように錯覚してしまう。たしかにイスラームには共通点はある。しかし、イスラームに見られる特徴の共通性は、キリスト教圏でも仏教圏でもみることができる。たとえば建築や法、絵画など。つまり、論者が議論をする上でどんな統一性を強調したいかで「イスラーム世界」の概念が存在する。現代の我々が「イスラーム」と使う際、地域性、言語の多様性、習慣、歴史を見失い、あたかも統一的なイスラームが存在するかのように、またイスラム教徒が同じ風景を見ているかのように論じている。「イスラーム世界」をアプリオリに前提しているのである。現実において、現代のムスリムが多くいる地域の法律体型はシャリーアに則っているわけでもなく、近代の世俗法が用いられている。
イスラーム教は法だけでなく、政治・経済・社会・文化のすべてに関わっていると規定されていて、特別な信仰形態をしていると思われがちだが、キリスト教でも仏教でも同じことだ。このあたり宗教とは何かが忘れられている。宗教は生活に密着していて、たとえある行動が他宗教からみて宗教的な行動と見られていても、行動する本人は普段通りの生活をしているだけだったりする。
「イスラーム世界」という用語は理念として使用されるならいいが、ムスリムが多数をしめる地域の総称、またはムスリムが支配者として支配している地域に使うべきではない。「イスラーム世界」を空間的な用語で使用することで、多くのものが失われる。