2023/04/21

『悪について』 中島義道 岩波新書

 もっと早くに読んでおけばよかった。カント倫理学がようやくわかった。嘘論文を含めて、なぜカントが厳格な倫理をたてたのか、ようやくわかった。
そして本書では扱っていないが、この倫理学から公共性の議論に発展させることができる。

「カント倫理学の「善」をめぐる議論のすべては、まっすぐにこうした善人たちの批判に向かっている。「道徳的善さとは何か?」というカントの問いは、善人たちが日々実践している外形的に善い行為=適法的行為における「適法性(Legalität)」がそのまま道徳性(Moralotät)ではない、という一点に絞られている。カントの倫理学ははじめから非適法的行為(illegale Handlung)を排除して適法的行為から出発し、あらゆる適法的行為のうちでさらに「道徳性」を充たすものは何か、というかたちで進んでいるのである」(8)

まず、ここがすごくいい。殺人、強姦、強盗などの悪はほぼ扱わない。対象となるのは善人面したやつらだというのだ。
そして

「カントによれば、道徳的善さは、われわれが理性的であるかぎり「知っている」はずである。」(9)

うむ。そうなのだ。僕らは何か行為をする上で、それが善であるかどうかを知っている。ここはかなり重要な指摘だ。知っているからこそ葛藤がおこる。葛藤しない場合でも、みんながそうしているからだとか決まりだからでスルーしたりする。僕らは善が何かを知っている。

「道徳的センスとは、常に善いことをしようと身構えているセンスではない。自己批判に余念がなく、たえず自分の行為を点検し後悔するセンスでもない。そうではないのだ。それは、善とは何か、悪とは何かという問いを割り切ろうとしないセンスである。」(10)

んーそうなのか。てっきりカントは善とは何かを確立したのかと勘違いしていた。明確な倫理が存在し、そのように行為せよというのではない。

善意志
善意志は心理的にタームではない。意志とは行為を「引き起こす」原因であって、願望や渇望ではない。だから目の前でおぼれている子供を助けたいと思う気持ちが強くてもそれは意志ではい。実際に「助ける」行為を引き起こしえなければ意志ではない。
ここで二つの疑問がでる。
1 われわれの行為はたいてい悪である。では、悪い行為を引き起こすのは善意志ではない何かだが、何なのか。
2 善意志は現実的に善い行為を常に引き起こせないのか。もしくは引き起こしているのか。

カントにおける「義務」
社会的な義務ではなく、「理性的存在者である人間としての義務」
さらに
義務にかなった行為で、さらに善意志に基づいた道徳法則に対する尊敬という動機。
「義務に適った行為」というのは「義務からの行為」と並列にならない。「義務からの行為」は「義務に適った行為」の部分である。
カントはここで義務に反した行為(非適法行為)は除外して、「義務に適った行為」のなかから、「義務からの行為=道徳的に善い行為」をえぐりだしていく。
なぜカントは厳格主義は、善い行為(適法的行為)の基準を厳格にしているからではない。

「カントは、いわゆる品行方正な人を一瞬たりとも尊敬してはいない。むしろ、外形的に品行方正な行為にしがみついている人こそ、その動機は濁りきっているのではないか、という疑いのまなざしを、彼らに向けつづける。道徳的な良さは高位の外形にではなくひとえに動機にある。」(16)

んー、なかなか。心をえぐるえぐる。見よ、巷の人間どもを!
義務を四つに分ける。
1 自分自身に対する完全義務(自殺すべきではない)
2 他人に対する完全義務(偽りの約束をすべきではない)
3 自分自身に対する不完全義務(より完全になるべきである)
4 他人に対する不完全義務(他人に親切にすべきである)
ここで重要なのは、1と2は実行しても誰も称賛してくれないのだ。さらに実行しなければ非難される。
しかし3と4は、実行すると称賛され、実行しなくても特に何も言われない。
カントは素晴らしい考察をしているな。

定言命法と仮言命法
仮言命法は道徳的に善い行為を命じることはできない。命法はもし「Xなら、Yせよ」は、「Xでないならば、Yしなくてもよい」ということを含み、Yという行為が普遍性を帯びることがないからだ。
だから定言命法となる。「Yをすべきだから、Yをせよ」と。

格律(Maxime)とは各人の主観的な規則、すなわち(どんな曖昧なものでも)誰もがもっている生活するうえでの信条と言っていい。これは、道徳的に善いとは限らず、適法的すらないかもしれない。ある人は、なるべく人をだまして生きることを信条にしていrかもしれない。」(20)

そうなのか、格律は主観的なものなのか。だから『実践理性批判』のつぎの文章となる。

「きみの意志の格律が、常に同時に普遍的律法の原理としてだとうしうるように、行為せよ」

そうなのだ。カントの倫理学は、「いかにも意志行為の倫理学のような外観をとっているが、じつはさまざま「性格」を有する人間の倫理学」(23)で、だからこそ、公共性の議論にも使える。

「「命法」は、絶対的に意志を規定する。だが、たとえそれがいかに命法として普遍的であり絶対であっても――物体としての人の身体を崖から突き落とせば必然的に落下するように――道徳的に善い行為を必然的にひき起こすのではない。定言命法は、カントの言葉を使えば、意志を「規定する」段階に留まるのある。」(25)

うーむ、行為は結果であり、成果なのだが、命法は規定する根拠であると。つまりは、実行するとは限らない意志に対して命ずるものであり、その段階に留まっている。
定言命法に従わない意志は、悪い行為(非適法的行為)、もしくは適法的行為ではあるが道徳的に悪い行為をおこす。
つまりこういうことだ、約束を守るべきだが、破る。これは非適法的行為だ。しかし、問題は次だ。「約束を守るべきだから守る」ではなく、自分の信頼、信用を落とすとまずいから約束を守る、という動機に基づく場合だ。これは「自己愛」に基づく行為であり、悪と見なされる。
苦しいのは次。

「世間には「私は(いつか)自殺することにしている」という格律、「私は(なるべく)怠けることにしている」という格律、「私は他人を(なるべく)助けないことにしている」という格律、「私は約束を(なるべく)守らないことにしている」という格律を、道徳法則として普遍化できないことを知っておりながら、なおもそれに執着しているものがいる。彼(女)は、いかなる社会においても、エゴイスティックな、付き合うのが厄介な、信用におけない……人間と見なされることであろう。カントの倫理学的考察の対象として、主にこういう人間を問題にしたのではない。彼らは、カントが矛先を向けるほど害悪を及ぼす人間ではないのだ。カントがもっぱら矛先を向けたのは、外形的に適法的行為=義務に適った行為を完全になし遂げながら、同時に自己愛という動機に支配されている人間である。彼らは、社会的に「賢い」からこそ、より危険なのであり、社会的に報われているからこそ、より悪いのである。」(34)

なんとも耳が痛いではないか。カントの悪のモデルは、悪徳弁護士、悪徳政治家、放火犯、強姦常習者ではなく、善良な市民だということだ。「「自己偏愛」とは、誰もが幼児のころからもつ自己に対する自然な愛着である。」(40)ゆえに克服が難しい。いやできない。不可能だということだ。
うぬぼれかぁ。

「「計算し尽されたうぬぼれ」であり、「技巧の果てのうぬぼれ」でることを銘記しなければならない。これは、道徳法則の仮面をかぶった自己愛」(41)

「共同体の利益を賢く考量し、自他の幸福に対するこまごまとした配慮があり、しかも同時にみずからの名誉欲をも満足させるような態度、りっぱな市民の心情」(41)

つらいな。心をえぐってくる。
社会との戦いの刃ての理想社会が自分の理想と重なるかぎりで、自己愛からは逃れられないと。

「功績があるという偏愛的想像によって義務の思想を排除しないためには、その人が人類に対して何らかの点で担っている負い目が、〔探せば〕常に見つけられるだろうということ(市民社会体制における人間の不平等によって、自分は利益を享受しているが、しかしそのためにほかの者たちは、ますます窮乏せねばならないという負い目であってもよい)を、ちょっと思案するだけでよい」(『実践理性批判』/52)

功績がその人の自負になる、社会に役立つことをしている、日本人の名誉になっているとか。でも功績の裏には負がある。ビジネスであれば、新しい商品を世に出しヒットすれば、古い製品を製造していた会社は窮地に追い込まれたり、廃業したりする。その負い目を自覚しろという。
これはなかなかいい。ぼくがスポーツとかで、勝者がガッツポーズしたり、勝利に喜んだりする姿に、昔から道徳的な悪を感じていたのはここだ。相撲はその点いい。
人間は「賢さの原理」に従って生きている。

「道徳性と自己愛との境界はきわめて明瞭にかつ正確に引かれるので、ごく普通の人の眼にすら、あることが一方に属するのか他方に属するのかの区別において、見誤ることはまったくありえない。」(『実践理性批判』/55)

「……何が義務であるかは、何人にとってもおのずからわかることである。……道徳法則にしたがえば、何がなされねばならないかを判定するのは、それほど難しいことではないから、ごく普通の、十分に訓練されていない悟性でさえ、たとえ世才に長けていなくても、うまくできるだろう。」(『実践理性批判』)/56)

うん。そうなのだ。だがそれを知らないふりをして生きているのが人間だ。そして、適法的行為を逸脱しないように最大限の自己利益を追求することは、難しい。
自己愛を覆い隠し、賢さを磨く必要がある。幾重にも自己愛を賢さで纏い、現実世界で最大限の利益を得ようとする。
この努力は他人から称賛される。うまくいけば最大の利益、つまり名誉、地位、名声、そして富が得られる。
こういった賢さは道徳的善とは全く異なるものなのだ。賢さとは常にずる賢さなのだ。
んーつらい。身も蓋もない。
ある個人の成功を無条件に称賛するほどわれわれは善良ではない。かならず嫉妬される。だからずる賢くなる。そうだからこそ、いかなる政治活動も宗教活動もボランティアでさえも究極的には「他人の信頼」を必要とするがゆえに、厳密には道徳的に善くありえない。
とはいっても賢さが十分でない人間も道徳的に善いわけでもない。ただ適法的行為にしがみついているだけの存在でしかない。「適法性にむかおうとする人間の意志そのもののうちに、悪の源が隠されている」(65)のだ。

幸福について
人間は幸福を追求する。それは理性的存在者のもつ自然な心理だ。幸福とはすべてが意のままになる状態と規定される。「幸福を求めよ」というのは命法ではない。命じられなくても追及してしまうものだからだ。
しかし、カントは幸福を獲得することを義務と見なす。平凡な人間がわざわざ幸福を捨て、道徳に生きようとすることはあまりに試練だ。不幸はおうおうにして道徳的な悪を招くため、不幸は避けた方がいい。無理に不幸になる必要はない。だが幸福のみを追求することは、道徳的善さの実現が前提である。幸福を維持したまま道徳的善さを追求する。幸福を全面にだせば、自己愛が全面に押し出され、道徳的善さに背くことになる。
くはー。どうすればいいだ。

では、幸福を求めない生き方は、悪をなさないので、道徳的に善いといえるのか。
カントは、たとえ過酷な修行によっても幸福を求めることを破棄することはできないとする。「清貧の思想」なんというものは、カントの倫理学から遠いと。

「幸福は、ごく自然に道徳的善さと融合するという思想、ただ高まる欲望を押さえ、みずからの至らなさを反省し、与えられたものを謙虚になって感謝しさえすれば、だれでもただちに静かで澄み切った心の状態に達することができる、という思想ほどカントをいらだたせるものはない」(74)

というのも幸福追求と道徳的善さの和解は、そんなところでは和解されない。「清貧の思想」によって実現された行為は適法的行為でもそれは外形的に善いとしかいえない。皮をむけば自己愛にまみれた汚濁物である。
他者にたいする親切もしかり。他者のおもいやりや親切がいかに自己愛にまみれているか日常生活で感じ取られるだろう。露骨な称賛や感謝を求められれば、われわれは反感を覚える。だから自己愛は身を潜めている。
他人の幸福が実現することで、われわれは喜ぶかもしれないが、それはやはり自己愛だ。人間はこの自己愛から逃れられない。

「その外形が適法的で(いわゆる)人道的であるからこそ、その背後のセンチメンタルな自己満足(自己愛)が透けて見え、臭気は強烈で思わず花をつまみたくなるのだ。」(78)


嘘について、カントの有名な話があるので、見逃せない部分だ。

「道徳法則=真実性の原則とは、生命脅かされてもけっして真実を曲げないという崇高な態度から、日常性狩るで他人を傷つけまいとして、自分が居心地の悪い思いをしたくないゆえに、つい「とくに害のないような嘘」をついてその場をそのごうとするとき、「それは真実ではない!」とはっと気づかせることまでも含むような広範囲なもの」(92)

ということで如才なく賢くふるまっている人の言動は真実=誠実ではないことになる。

「ここに至って、真実性=誠実性の原則はニュートラルな心理状態を意味するのではなく、一定の価値を含みもつことに気づく。すなわち、真実性=誠実性は、はじめから自己愛と両立しないものとみなされている。「私は信用を失いたくないから約束を守る」という場合のように、自己愛を誠実に表明することはありえない。たとえ実現される行為が「約束を守る」というような適法的行為であろうとも、その動機が自己愛に基くかぎり、真実性=誠実性の原則に対立するものなのである。」(93)

いわゆる「嘘論文」について。カントに対する批判は簡単だ。中島氏も虚しいという。「彼はいない」という嘘をついてはならない、なぜカントはこの結論に固執したのか。
まず重要なのは、カントの視線は「人類愛から」嘘をつくことに注がれている。

「相手を意図的に害し、エコイムズを満足されるための嘘ではないのだ。まさに愛や友情、憐憫や同情という美名から出た嘘だからこそ、われわれはその手に乗りやすいのであり、騙されやすいのであり、その悪性が見えにくいのであり、だから徹底的に警戒しなければならないのだ。」(97)

そう、嘘をつくことを積極的に、「善意の嘘」は言い訳する。そして真実を語ることが非難される。
われわれはおびただしい嘘をつく。しかしそれで世の中うまくまわっていることも真実だ。しかしそれは自己愛を満足させるためになされているにすぎないことを認めよう。
他者に配慮すればするほど嘘をつく。この難題をいかにするか。

「人間に対する愛は、たしかに可能であるが、命令されえない。なぜなら、命令のままに誰かを愛するということは、人間の能力のうちにはないからである。すると、すべての法則のいかなる核心部分においても理解されるのは、実践的愛(praktische Liebe)だけである。(『実践理性批判』/101)

これはキリスト教のアガペーに似ているが、全く異なる。キリスト教は愛を優先する。カントは道徳法則に対する尊敬を最優先する。両者の行きつく行為の結果は異なってくる。おぼれているわが子を助けるか否か、友人の命を助けるために嘘をつくべきか否か。
われわれは嘘をつかざるを得ない。しかしそれは道徳法則に背く。
だからこそ、悩み、後悔していく。
嘘をついてもいい、ということが道徳法則として普遍性を持った場合、この悩み、葛藤し、後悔することがなくなっていくのだ。

「彼の問いは、「適法的行為とは何か?」ではなかった(「なぜ嘘をついてはならないのか?」ではなく、「なぜ人を殺してはならないのか?」ではなかった)。彼の問いは「適法的行為のうちで道徳的に善い行為とは何か?」であった。カントは適法的行為の普遍妥当性を確信していたのではない。疑っていたのでもない。彼はおよそ適法的行為の普遍妥当性に対して、興味を示さないのだ。彼が、確信していたのが、「道徳的に善い行為」の普遍妥当性だけである。」(107)

というのも、何が親切かといった適法的行為というのは、時代や社会で異なる。それに、実社会のこまごまとした内容を含んだ適法的行為の境界線や限界をつけることはできない。

「定言命法から適法的行為を導く」には限界があるのである。……・それに対して、理性的であるかぎり、すべての人間は、道徳的に善い行為とは何かに関して、一致しているとカントは考える。すなわり、真実性=誠実性の動機に基づく行為を「道徳的に善い行為」とし、自己愛や自己栄駅の動機に基づく行為「道徳的に悪い行為」とする点では、どんな極悪人でも、どんな(いわゆる)善人でも、10歳の子供でも、無学なものでも……みな共通の判断をください。「約束を守る」という行為の実現携帯が同じでも、それは真実性=誠実性に基いてい売る場合と、その陰に自己愛や自己利益の臭いがする場合を、何人も的確に見分けることができるのだ。すなわり――誤解されることが多いが――定言命法は、よい行為(適法的な行為)を導くための方式ではなく、道徳的に善い行為を導くための方式なのである。ということは、カント倫理学には、じつは「何が適法的行為であるのか?」という問いはないのだ。カントはこの問いを発しないまま、適法的行為を漠然と前提して、「適法的行為のうちで道徳的に善い行為とは何か?」という問いを掲げて突き進んでいく。……たしかに道徳的に善い行為をけっているすることは、間接的に非適法的行為を決定することである。道徳的に善い行為は適法的行為の「うち」にあるのだから、ある行為が非適法的行為あるとみなされてしまえば、論理必然的にその行為の動機は自己愛に基いたものとされる。だが、先に検討したように、定言命法はじめカント倫理学の武器だけから、ある行為(例えば自殺)を非適法行為であると断定することは無理がある。このことを裏返していえば、理性的存在者としての人g年は、何が道徳的に善い行為であるかに関しては一点の疑いももたないが、何が適法的行為であるか、何が非適法的行為であるかにおいて、悩み続けるということである。悩み続けるべきであるということである。真実性=誠実性の原則をここに援用すれば、まさにわれわれは「何が善い行為か?」「何が悪い行為か?」という問いに誠実に向き合うべきであって、ごまかしてはならないということである。」

ここで、カントの公共性についての考え方がでてきているように思われる。
完全義務と不完全義務との衝突が道徳問題をおこす。殺すべきではないが、殺さざるを得ない状況やなんやら、極端でもなくてもわれわれはこの衝突に悩まされるわけだ。
もし嘘をつかず、友人を殺してしまった場合、道徳的であると言えるのか。言えないだろう。かといって嘘をついて友人を助けても、それは自分は傷つきたくないという自己愛からのものであって悪なのだ。人間は自己愛からは逃れられないのだから。

「適法性にお基準はどこかに十戒や刑法のように、書き記されているわけはない。そうではなく、各自が求めつつ、確認していくほかなにのだ。実際、迫害されている者たちは、生身の切実な体験から「何が適法的なのか? 何が非適法的なのか?」と真剣にといかけるからこそ、この問いへの回答が安直に得られるものではないことをしっているのであろう。不条理で納得できないかたちでこの世の罪を問われているものは、時代や社会制度に依存した相対論にも、時代を超えた超越論にも、自分が求める回答は得られないことにかんづいているであろう。この両者から袂をわかって歩みだすここから、道徳への問いがはじまることをかんじているであろう。こうして、逆説的なことに、おうおうにしてわれわれは、社会の掟に抵触するとき道徳的になるのである。その時代に社会から迫害を受けているものは、理性的であり道徳的であるかぎり、自分の信念を貫くことがまわりの人びとに禍を及ぼすという残酷な構造に自分が投げ込まれていることに苦悩するはずである。「いったい、どうしたらいいのだ?」とといつづけるはずである。道徳的人間とは、常に善い行為をする人間のことではない。自分の信念を貫くことが他人を不幸にするという構造ただ中で信念をたやすく捨てることもできず、とはいえ自分の信念ゆえに、他人を不幸のうちに見捨てることもできず、迷いつづけ、揺らぎつづける者のことである。」(118-119)

われわれは何をなすべきを知っている、しかし、意志の他律を前提すると「何をなすべきか」を知るのは困難になる。意志とは選択することだが他律はその選択を自動化させる。自己愛に基けば、信用を落とすから自動的に約束を守るし、信用を遅さないような場合は約束を守らない。他者に対する親切もしかりだ。「最大の利益を得る行為」という答えがあるがため、われわれは他律、自己愛に従っていく。
善良な市民は「思惟する自動人形」となす。しかも残念なことに善良な市民は自分がゼンマイ仕掛けの自動人形であることを自覚していない。「自分固有の深淵や感受性の大部分が社会の「あるべき信念や感受性」と重なっており、それに疑問を感じない」(138)
さらにカントは自己愛に基く動機以外、つまり道徳感情も他律側におく。

「カントによれば、「道徳感情論」は半分正しい。道徳的価値を判定する基準として道徳感情をもちだすのは誤りであるが、道徳的に善い行為を実現したとき、われわれが爽やかな気分になることは承認できる。つまり、道徳感情は、道徳的に善い行為の反的純ではなく、単に道徳的に善い行為が引き起こす結果にすぎないのである。」(140)

「ストア派の賢人をめざあして修行している者やキリストに倣った生活を実践しているものは、まさに絶対的な命法を受けとめそれをそのまま実践しているものではないか。大多数の善良な市民も、社会慣習を絶対的に信頼し、全身全霊でそれに従っているのではないか。彼らの心情は、定言命法を受けとめてそれを実践しようとする人の心情と違わないように見える。だが、カントによれば、完全性や神の意志に従って行為するのは意志の他律であり、定言命法に従って行為するのは意志の自立なのだ。両者の違いはどこにあるのか。違いは、適法的行為がはじめから決まっているか否かにあるのだ。前者の場合、まず「従うべき善い行為」が定まっている。それを(理性の検討を経ずに)そのまま実践することが要求される。これが他律である。だが後者の場合、さしあたり何が善い行為かはまったく決まっていない。われわれはみずから問うことによって、それを(定言命法を武器に)見出さねばならないのだ。カント倫理学において、低法的行為がはじめから定まっていないことは、偶然の産物でもカント惰性でもなく、まさに必要なことだったのである。カントがわれわれ理性的存在者に要求すしていることは、道徳的に善い行為を通じてそのつど何が善い行為(適法行為)かを決定せよということである。」(141-142)

そして、素晴らしいのは、善い行為、悪い行為という決定は道徳法則に先立ってはならないということだ。まず道徳法則(真実性=誠実性の法則)がたてられ、それによって何が道徳的に善い行為かが決まり、そして次に何が善い行為(適法的行為)かが決まる。それは適法的行為が常に揺れ動くことを意味している。
だからこそ公共性の理論的基礎付けとして、カントの倫理学が有用になっていく。

文化の悪徳
学問、芸術の進歩は風俗を堕落させるというのは、まあいたって常に聞かれる話だ。ルソーも同じように考えていたが、カントは否定的な態度でもない。かといって善であるわけでもない。「文化の悪徳」を築き上げ、そこから道徳的善さへの跳躍を試みるほかないとする。(175)

「ところが、また人間は〔社交的性質と並んで〕自分一人になろうとする(孤立化しようとする)強い性癖も具えている。なぜなら、同時に彼は自分のうちにすべてを自分の意のままに処理しようとする非社交的性質をも見いだすからである。それ自体としては好ましくない先ほどの非社交的社恒星という性癖から、各人がその利己的な傲慢さを押しとおすことから必然的にしょうじざるをえない抵抗が発現するのである。とはいえ、こうした非社交性がなかったなら、完全な和合、つつましさ、相互の愛がじつげんされたアルカディアのような牧羊生活において人間のすべての才能は芽の中に隠されたままに留まるだろう。そして、人間は彼らが放牧する羊のような全量であるにせよ、自分たちの存在にmこの家畜がもつ価値以上のものをほとんど与えないであろう。よってわれわれは人間のあいだの不和合、互いに妬み合いながら競争する虚栄心、飽くことなく知らぬ所有欲や支配欲について、自然に感謝してよい。こういした自然的動機、すなわり非社交性といたるところに見られる抵抗という源泉は、そこから多くの害悪が湧きだすが、人間の諸力の新たな緊張へと、したがってまた自然的素質の多様な発展へと駆り立てるものである。」(176-177)

くはー、すごくいいこといっているではないか。共産主義が屑のようだ。

根本悪
格律を自由に選択してしまう性癖こそが、根本悪である。
第一に、人間の欲望にうちには人間心情の悪性はない。
第二に、この欲望を実現する上で、自己愛を隠し、賢く幸福を追求するつ動機にあるのでもない。
第三、道徳法則より自己愛を優先することのうちにあるのでもない。
どこに悪性はあるのか。

「われわれ人間が、自己愛に基く動機を道徳法則に対する尊敬に基く同期よりゆうせんするような格律を自由に選択するような性癖をもつことにあるのだ」(189)

ここは、十分に理解すべきところだろう。
悪への性癖が完全に決定してしますと、われわれは悪しかなしえない。
善意志も自律も道徳法則もなんも関係なくなる。
また完全に非決定だとすれば、根本悪の議論自体が無意味になる。
そこででてくる概念が「選択意志」と「性癖」だ。
性癖によって、生得的でるが経験的でもある。
A われわれは、悪性の格律を自由に選択している。
B われわれは、悪性の格律を選択する性癖を有している。

「カントはAをBに重ね合わせて、次の関係を導き出す。格律を自由に選べる者(理性的存在者)とは、じつは悪性の格律を選択する性癖のある者にほかならない。さしあたり、この「方程式」を解こうとするなら、具体的な行為実行の場面で、個々の人間は、自分では自由に格律を選んでいると思い込んでいるが、じつはその選択自体が悪性の格律(ウィ「選ぶ自然本性的性癖という「場」のもとにある、と解するほかない。」(191)

いわゆる人格形成論のバリエーションだと。
ただし人格形成論は、例外的な極悪人の責任を問うには有用であるが、人間心情の悪性は、善良な市民の、適法的行為を守り通している人々の犯す悪の理論だ。
社会のルールのなかで、自己を最大限に実現しようとする善良な市民。
全身全霊で自己愛は非適法的行為kら抜け出し、を適法的行為にあわせて、この場のうちで社会を善くしようとしていく。このこと全てはが道徳的善さに背く者へと形成していく。「文化の悪徳」の典型としての「人間心情の悪性」がかたちづくる悪、すなわち根本悪。(193)
おおー、まさに公共性論につながっていく。
適法的行為を実現しようとするところに人間心情の悪性は湧き出す。適法的行為を実現しようと努力する。だが定言命法は聴こえてくるが、努力しても道徳的に善い行為を実現できない。

「こうして、性癖のうち、根本悪を生み出す「人間心情の悪性」は獣的悪性ではなく、文化の悪性に直結するのである。社会や文化や規範こそが、人間心情の悪性という磁場を形成するのだ。われわれはその性癖の中んで自由に格律を採用するしかない。つまり外形的に適法的な行為を実現するしかないのである。しかし、まさにそのことが、われわれに道徳的に善い行為を控えさせている。」(199)

すなわち、道徳的に善い行為をせよと定言命法が命じても、われわれには出口がない。
んー、みごとなカント論であり、公共性論へと直結できるものだ。
公共性とは、法、掟、慣習、ルールに従って形成されるものであるという、薄っぺらい考えが蔓延っているが、カント先生の倫理学から導き出される公共性がいかに動的であるか。適法的行為がなんであるのかあいまいであること、そしてしかし人間はその適法的行為のなかで道徳的善さを実現できないながらも失言していくしかない。その中で公共性が育まれる。公共性のダイナミズムがここにある。

2022/11/06

自由主義社会について

 三浦瑠麗の統一教会問題についての発言。競馬ですったようなもの、というが結構反響があるようで。
いちおう現時点での僕の考えを忘れないあいだに書いておこう。
三浦さんはやはり自由主義者であると見直した。統一教会に被害にあったからといって、国家がその賠償をするのは筋違い。
僕が思うに、カルトの被害というのも千差万別。カルトにはまってもそれで救われたならそれでいいじゃんと思う。多額の献金で被害にあったと家族は言うだろうが、極論いえば愛が足らないのだ。所詮は金なのだから、家族の誰かが多額の献金をしてしまっても、それで悩みが解消されるならいいではないか。
テレビで妻が統一教会に入信し、離婚した被害者面した奴が登場するが、こいつも愛がたらない。世間体とか気にしているからダメなんだ。妻が、家族が悩み、統一教会に入信したなら、寄り添ってやればいい。なんなら一緒に入信してあげたっていい。世間体をきにするから、妻を、家族を脱退させようと、マインドコントロールを解こうといった行動を起こす。
共に苦悩してあげられないで、何が家族がバラバラにさせられただ。一緒に入信してやれよと思う。
そして、入信して、多額の献金をして、そして心が救われたのち、過去を振り返って、あの多額の献金を取り戻したいと考える人もいるだろう。
国家はそれも賠償するのか。
あのとき、自分の選択は間違っていた、といってもそれは自らの選択だ。認知科学や哲学の話で、自由意志なんてないという立場もあるが、それをいうと責任がなくなってしまうから、とりあえずは自由主義社会では自己責任は絶対存在しなければならない。
カルト問題で重要なのは、それが反社会的な活動であるかどうかだ。統一教会が反社会的勢力かは疑問だ。多額の献金を要求する、これ自体は別に反社会的とは言えない。財産全てを寄付しても、それは個人の問題でしかない。もし統一教会がテロやを企てていたり、巨大な麻薬カルテルを形成していたりしたら問題だけど。
この国は、何か問題があればすぐに政府の責任のようにいうが、それはよくないことだ。
コロナでも、コロナの流行が政府の責任というようにいう輩がいるが、そんなの政府の責任でもなんでもない。単なる自然現象だろう。
政府、行政ができることは限られれている。そして、限定的な権力であることが望ましいというのが自由主義社会の思想だろう。にもかかわらず、自由主義を投げす捨てて、政府の責任を大声で叫ぶ奴らは、自由主義をなんと心得ているのか。

2022/11/04

『なりすまし――正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』 スザンナ・キャラハン/宮﨑真紀約 亜紀書房

とりあえず精神病患者の扱われ方が、かつて酷かった。少しづつであるが、それも改善されてきた。日進月歩といった感じ。精神病に対する考え方も変わってきたり。
フロイトやレイン、フーコーといった狂気を扱ってきた者たたちにより、社会逸脱者の定義があいまいになり、狂気と正気の境界線がなくなっていく。これは逆説的でもある。フーコーらは狂気の定義が時代で異なることを示している。フロイトも狂気を非常に大きな域で考えているっぽい。そのためある意味あらゆる人間が狂気をもっている、精神病者であるといえ、だからみんなあんまり精神病を蔑むなという主張になるのだが、この無定義が精神病や精神疾患を無尽蔵に産出していくことにもなっている。
精神医学の歴史で、フロイトのような精神分析が席巻した時代があり、しかしそれはあまりにも恣意的、だからもっと解剖学的、生理学的な原因を求めていく。そりゃそうだろう。
しかし、知らなかった、このローゼンハン実験の影響で精神分析傾向の強いDSM-IIの改訂になった。それを主導したのがロバート・スピッツァー。ローゼンハン実験が広く認知されることで、精神医学の診断基準というものを統一行かざるを得ない状況なってきたという。診断基準が出来上がった。同じ患者を違う医師が診ても同じ診断をくだせるように標準化した。これがアメリカでできたというのも興味深い。DSM-IIIのような統計的手法でもって標準化されるというのはアメリカ的であってヨーロッパ的でないのかもしれない。
DSM-5への批判。正常な人に精神障害ありと診断かも。自閉症、ADD、双極性障害など。そして精神障害の診断を受けたものは、無用な薬の常習者になっていく。こう批判したのDSM-IVの責任者アレン・フランセスというのもいい。ADHDの診断数も年々増えていったそうだし。
SCIDというDSMのための選択式臨床面接を著者が受けるところがなんとも。(283)。結局、この面接によって診断された統合失調感情障害、もしくは東郷失調様障害という診断は間違っている。精神医学が混乱しているのはたしかなようだ。事実、薬がきかない症例はけっこうあるという。であれば、そのような症状は著者と同じ神経系の病気だったのかも。
ローゼンハン実験のデータは正確なものではなかった。というか捏造されたものであった。残念なのが、結局著者はローゼンハン実験の全貌を解明にいたることができなかったこと。というか捏造されているのだから、無理もないか。
そういえば最近内向的な人をHSP(Highly sensitive person)とかいうカテゴリーが爆誕していた。なんでもありだなと思った次第。

2022/11/03

『動物たちのナビゲーションの謎を解く――なぜ迷わずに道を見つけられるのか』 デイビッド・バリー/熊谷玲美訳

はじめの方で、関東圏のJR路線図と粘菌がつくるネットワークが似ているという研究が紹介されている。イグ・ノーベル賞をとったやつ。
と、とりあえず、おもしろかった。まずアリの話が紹介されていたのだけど、そもそも僕はアリが巣に帰る際に使っているのは、お尻から分泌される匂いを辿ってだとばかり思っていたら、どうも蟻たちはランドマークやらをみながら巣に帰っているということで、つまり目が見えているのだ。そんな、ぼくは昆虫の生態については全くの無知なのだけど、たしか小学生の頃に読んだウイルソンの研究とかで、蟻は目が見えないとか書いてあったような、、、それを信じて30年以上生きてしまったようだ。
光子一個のレベルを検知する光需要細胞をもつコハナバチ。真っ暗なジャングルでも迷わない。
偏光とe-ベクトル。これなんか、驚きでもあるが、さもありなんといったかんじ。でもたしかに人間の見る世界というのは、あくまで人間の眼の構造によるもので、眼の構造が違えば、見え方も違うのは当たり前だわな。これは太陽コンパスとか太陽が見えないときでも活用できる能力だ。
鳥たちは、星の運行をみながら空を飛んでいるようだ。北極星だけでははなく、もしかしたら天の川なんかも使いながら飛んでいたりする。とすると光害は鳥たちに深刻なものになるのかもしれない。とくにフンコロガシ。天の川をみながら糞を転がす、しかも球体にしながら。感動的。
ラジカル対を鍵とする光化学磁気コンパス仮説。クリプトクロムは多くの植物m動物がもつ分子で体内時計や成長を制御しているらしい。このクリプトクロムが光によって刺激されると、内部で電子の「ラジカル(遊離基)対」が生成される。そして、このクリプトクロムが地球磁場に対してどの向きになるかでラジカル対の挙動が異なる。その結果原子より小さいスケールで「シグナル伝達カスケード」という現象が起きる。これが神経シグナルの発火を誘発する。こうして動物が磁場を認識する。このクリプトクロムは非常に少ない光でも働くと。そしてこのラジカル対の解明は量子コンピューターの開発に重要かもしれないとなんとか。
「一個の電子のスピンから自由に飛ぶ鳥まで、あらゆるレベルのことを理解する必要があります。」(316)
んー、素粒子物理学がこんなところでも。
なかなかユーモアがある内容でもあった。蜂の尻ふりダンスを提案した研究にたいして、アメリカ人研究者は難解な統計学で批判したとか、んで最近の研究では昆虫の足の数は6本ではなくて、5.9本±0.2本とかなんとかいう統計学的な答えが正しいとされているとか、なかなかユーモアがあっていい。
インフラサウンド、磁気感覚、波を読むウミガメ。いろいろ興味深い。

2022/11/02

『スピノザ――人間の自由の哲学』 吉田量彦 講談社現代新書

ウリエル・ダコスタはユダヤ教から破門される。破門後、孤独に堪えられずに破門撤回を要求する、その際に撤回の儀式があり、公開で半裸で鞭打ちされるという。この屈辱に堪えられずピストル自殺をする。ダコスタはスピノザよりも一世代上とのことだが、実際に身近な人物として良く知っていたはず。ヒルセンベルグという画家が想像で幼いスピノザを膝で抱えているダコスタの油彩画が、本書に掲載されている(59)。なかなかいい。

清水禮子『破門の哲学』で取り上げられている回想録『レンブラントの障害と時代』がなんと後世の作品でるとのこと。なんということ。原文が存在していないという。この回想録ではファン・ローンがスピノザのキズの診察をした際に破門が心にキズを負ったような箇所がある。

スピノザのレンズ磨きについても書いてある。スピノザはどうやって生計をたてていたのか。疑問だが、当時レンズ市場がどれくらい盛り上がっていたのかはまだ確定したことはないようだが、これが解明されるとスピノザの¥がレンズ磨きで得ていた収入のおおよそもわかるのではないかと。

「人間は自分の意志で存在し始めたわけでもないし、自分の意志で存在し続けていられるわけでもありません。嫌でも生れてきて、意のままにならないことだらけのこの世を不承不承に生きていき、そのうち嫌でも死んでいく。これが人間の基本のあり方です。つまり人間の生もも、生の中での人間のさまざまな活動も、人間以外の何かによっていつもすでに条件づけられています。あきれるほどの宏運に恵まれて続けるか、あきれるほど無自覚に靭性を送らない限り、これを著看的に偽呈するのはむすかしいでしょう。そういう条件、つまり人間を含めた万物がいる¥つもすでにそれにしたがって存在し狩る銅している原理のことを、西洋哲学の伝統的用語では「神」と呼びます。……この神からの出発という発送が、『知性改善論』ではかなり薄いままにとまっているようでに思われます。つまり『神・人間及び人間に関する短論文』という名称からも明らかなように、まず人間の存在・活動条件としての「神」の問題をふまえてから「人間」の問題に移り、採取的に「人間の幸福の問題を論じるというという全体の構からすれば、むしろ『短論文」の方が『エチカ』にストレートにつながるのです。」(113-114)

「議会派の支持基盤は、比較的大規模な取引に従事する商人たちでした。彼らは独立戦争の記憶もまだ新しかったこの時代、宗教対立で商売が立ち行かなくなることの恐ろしさを誰よりも通関していたはずです。……結果的に議会派の勢力が総督派をどうにかこうにか抑え込んでいた時代のオランダは、同時代の西欧諸国と比べて、少なくとも表面上は宗教問題に寛容な国となったわけです。スピノザが『神学・政治論』を世に問うたのも、まさにそうした議会派の時代でした。」(138)

そして吉田さんが私的することで重要なのは、総督派は改革派教会主流派と協力関係にあり、そもそも総督派は「主流派」であることだ。そして改革派教会主流派は「公教会」と称されているとおり特権的な宗派でもあった。こうなると議会派も総督派も関係なく「公教会」を正面から批判なんかできなかったと。

『神学・政治論』について、預言者は「並外れた活発な想像力」をもつ人物であると、直接的にではないが、書いていること。「しるし」が必要だが、それは「証拠」ではなくてもいい、預言者本人が神から言葉を授かっているという気持ちが重要と述べていること。この思い込みが確実性であると。ではどうしてこのような人物たちが預言者として信頼を集めたのか。それは彼らが折り目正しい生活を送っていたから。論理構成だとか証拠だとかではないということ。

「決まりには、(a)自然にそう決まっている決まりと、(b)ひとがそう決めた決まりがあります。aは今日の私たちが言うところの自然法則ですから、変わりません……bはaによって決まっている人間の活動範囲の枠内で、さらにその可能性の範囲を絞ろうとするものです。たとえば「赤信号で道路を渡ってはいけません」という決まりは、本来いつでもどこでも道路を渡る能力をもっているはずの人間に、この能力を信号が青の時に限って横断歩道上で行使するよう求めています。逆にaの枠を踏み越えてしまうことを命じるようなbは、いくら作っても有効に機能しないはずだとスピノザは考えています」(179)

そして旧約聖書の律法はbであり、これは特殊な、古代イスラエル人をまとめあげるために決まりであり、神の権威によって、神の法として、国に法とし位置づけられた。しかしこれはすでに失効しているとスピノザは考える。だからそれを後生大事に守り、読み続ける必要はないとなる。つまり聖書は真理を語る書物ではないという結論になる。

「折り目正しい」生活態度、これをスピノザは「ピエタスpietas」というラテン語で読んいる。「敬虔」と訳されることが多いようだが、ある宗教、宗派を信じているかではなく、何を道徳的な命令として実践しているかに左右されるという。宗教性を帯びている「敬虔」では捉えられない射程がある。『神学・政治論』の結論として、神学は道徳的教化であり、哲学は真理の合理的探究であり、ゆえに神学側が哲学を「不敬虔」となじったり、逆に哲学が神学を「不合理」と非難することは、越権行為であるとなる。

ホッブズの社会契約説とスピノザの社会契約説。ホッブズは自然状態にある人が自然にもっている権利を自然権とし、それは声明を維持するためにもっとも適当な手段であると考えられるあらゆることを行う自由」、つまり「何をしてもいい自由」。自然状態には社会はない。しかしそれではまずい。万人が万人に対する闘争状態では安心して生きていけない。だからこの自然権を放棄するのではなく、誰かに譲渡する。誰に。強大な権力機関に。それは万人が譲渡しなければならない。これは法の支配、つまり誰かが決めた規則を受け入れることを意味する。しかしこの論は規範を規範として成り立たせるような条件についての考察を欠いてしまうことにもなる。権力者が決めたという理由だけで、無条件で正当化されていく危険がある。法をつくるのは真理ではなく権威であると。とはいいつつもホッブズの議論では、国は人に死ねという規範を組み込むことは否定される。というのも自然権に反するから。

スピノザの自然権は、「自然の権利や決まりとは、わたしの理解では、個物それぞれに備わった自然の規則に他ならない。あらゆる個物は、こうした規則にしたがって特定の氏からで存在し活動するよう、自然と決められているである。」(205)

スピノザにとって自然権を自然状態から考えていない。つまり自然権を規範命題として扱っていない。生きるためにあらゆることをしてもいいということを言っているのではない。個物そのものに自然に備わった力からみて何ができるのか、という事実命題である。大きい魚が小さい魚を食べるのはこの自然権による。つまりスピノザの自然権はすべてあらゆる個物がもっている。これはた「食べてよい」という規範を述べているのではない。魚にそれ以外の生き方を強制することはできないということを述べている。

この自然権を踏まえない社会規範はいくら立てても向こうであえい、もしそうした規範を無理矢理立てる人がいたら、その人は「無茶苦茶なあほ」であるというのがスピノザの政治哲学の核心となる。(207)
人間の自然権には可塑性がある。無茶な規範にも対応できてしまう。しかしその可塑性がるにもかかわらず、どうしようもなく残る、いくら強制されてもそう簡単に手放したり譲ったり出来ない部分、それは「哲学する自由」となる。哲学しないで生きることは、魚にとっては陸上で暮らすのと同じくらい不可能であると。(208)

スピノザはホッブズとは異なり、自然状態を想定しない。ホッブズは自然状態が自然権より先行しているが、スピノザは自然権が自然状態に先行している。この順序の逆転は、「スピノザの政治哲学に、社会契約説としては致命的と言えるような帰結をもたらします。自然状態を経由せずに規定されたスピノザの自然権は自然状態の解消としての社会契約に、本質的左右されないくなるからです。つまりひとびとは自然状態を解消しようとしまいと、契約を結んで社会的関係に入ろうと入るまいと、ひとびとの自然権は当人の手元に本質的に変わることなく残り続けることになります。」(208)

スピノザにとっては契約は利益をもたらすものでなかれば無効であるとしている。社会契約が結ばれるのでも利益がなかればダメで、たんに服従しろでは、それがいい悪い以前にそういう社会契約は淘汰されるという。このあたりちょっと弱い論理構成。

「社会の支配機構としての国家は「むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒り騙しあいのために争ったり、敵意をつのせあったりしないためにある:とスピノザは主張し、そしてここから「だとすると、国というものは、実は自由のためにあるのである」という有名な結論を導き出します」(219)

「神と世界が「実体とその様態」の関係にある」とは。
実体substantiaをスピノザは「自分自身の内にあって、自分自身を通して考えられるもの」と定義している。猫は黒だろうが白だろうが、歩いていようが、走っていようが、猫は猫。これが実体。様態とはラテン語でモドゥス、尺度の意味。そこからが生してあり方や状態、性質を意味するようになる。服装などのモードも同じ「あり方」程の意味。とは言いつつ。実体というのは先ほどの定義からするように存在を外部に依存しないものである。それは神以外にはどのような実体もない」というスピノザの定義もある。
では猫はなにか。これは様態になる。「それは実体としての何かが猫っぽいあり方をとった状態にほかならず、わたしたちはそういう状態を指して猫と呼んでいることになります」(260)。「猫は神という自体いの様態、もっとは切り言えば、猫モードの神なのです」(260)

「スピノザの神と個物の感銘は、この画家と絵の関係に似ています。画家が絵を描かないわけにはいかないとように、神は個物を存在させないわけにはいきません。それは神が「その本質に存在が含まれている」もの、分かりやすく言いかえれば存在の力を本質としていて、この存在の力は個物を存在させる力として表現されるからでう。しかも神はそもそも外部をもたないので、画家における交通事故やの嘘中のyぽうな、表現の妨げになりうるような外的原因を一切もちません。存在の力としての神は、その力のいわば情維持発動的な表現としての様態を、つまり@「個物モードの神」を生み出さないわけにはいかないのです。表現として個物を生み出さない神はありえず、神なしにその表現としての個物もありえない以上、スピノザの神と個物は、表現を介して事実上、表裏一体の関係にあると言えます。それはどちらのイニシアチブをとることもない、同時発生的で同根的な関係です。だとすると、スピノザにとって世界の存在は「余計なもの」どころではなくなります。世界の中のあらゆる個物的存在者は、ひいてはその総体としての世界は、たしかに「その本質に存在がふくまれている」ものではなりません。にもかかわらず、それらは他のだれかの善意や気まぐれのおかげでたまたま存在してるのではなく、「個物モードの神」としての自分自身の力によって必然的に存在しているのです。」(265)

自由意志のないものも、自由でありうつか。もしありうるとしたら、その「自由」とはどのような意味の自由なのか」
自由意志ではない何かによって行動した。ゆえに責任はない。これは無理がある。責任を問題にするなら、その行為を駆りたてた理由(動機)が合理的に解明されなければならない。動機が不明瞭でなんとなくの行為した人に責任能力を帰するのは困難。しかし『異邦人』の太陽のせいと主張しても、本当の動機が合理的に推定できると見なされれば有罪になる。

「『エチカ』を読み進んでいくとわかるように、スピノザにとっての悪とは、非難や球団の対象ではなく原因究明の対象です。たとえばどんなに原正く、迷惑きわまりないものであっても、悪は必ず原因から生じます。原因から生じるとは、言い直せば、邪悪なだれかの気まぐれ(自由意志!)からたまたま生じるわけではないということです。したがって特定の人に悪の「責任」を押しつけ、彼をまるで外宇宙から突然現れた病原体のように血祭りにあげたとしても、悪に有効に対処したことになりません。原因を救命士、これを人間社会の仕組みから構造的に除かないかぎり、同じ原因がそろえば同じ結果、同じ悪が何度でも生じるからです。だからこそスピノザは人間の尾所内をあまりにも短絡的に「嘆いたり、あざ笑ったり、蔑んだり、一番ありがちなところでは罵ったり」する世間の風潮に警鐘を鳴らし、むしろ「人間たちのしでかすさまざまな過ちや無益な行いを……幾何学的な仕方で取扱い始めることを、つまり「人間のさまざまな活動や衝動を、まるで線分や平面や立体をめぐる問題であるかのように考察していく」ことを宣言するのです」(272)

因果関係と自由意志を切り離す。因果関係を辿らず、誰かの邪悪さのせいにするのは、スピノザは認めない。自由意志で説明することは楽なことなのだ。
スピノザがいう神には自由意志がない。誰かが、神がデザインした世界という決定論は認めらない。何が可能で産出されるかは神にもわからない。ある事象が起きてから遡及的に原因を解明できるだけ。

スピノザの心身並行論。
デカルトの松果体説。デカルトは、精神は松果体に宿り、これが身体を操縦していると感がる。
スピノザはこの松果体説とは異なる解答をだす。「あり方の属性が異なる以上、精神が身体を動かすこともなければ、身体が精神を動かすこともない」。デカルトの概念区分からすればこうなる。精神と身体の関係を因果関係として捉えるのではなく並行関係としてとらえる。「さまざまな肝炎の順序および結びつきは、さまざまなものの順序および結びつきと同じである」(第二分定理七)。

「わたしの精神に生じる何らかの変化(a)jは、わたしの身体に生じる何らかの変化ではなく、同じ変化(A)を二つの側面から表現したものとして、いつも同時並行的な対応関係あります。手足を動かそうと「思って」実際に手足が「動く」のではありません。手足が動くという銅さを意味出した物理的・生理的変化(b')と、この動きに並行して精神のうちに生じた変化(b)が、対応しているだけなのです。アルコールの過剰摂取が原因となって、その結果至高がまとまらなくなるのでもありません。アルコールの過剰摂取が人間身体に生み出す変化(b')と酩酊した精神が生み出す取り止めのない思考活動(b)が、対応しているだけなのです。」(283)

自らの存在に固執しようとする力(コナートゥス)
表面にでてくる感情はもとをただせばたった一つの原感情にいきつく。
「あらゆるものは、それぞれできる限り、自らの存在に固執しようとする」(第三部定理六)
自己同一性を維持しようとする生物のあり方。たとえば新陳代謝。そして自分のあり方に対する意識を伴ったコナートゥスのことをスピノザは「欲望cupiditas」と呼ぶ。『神学・政治論」後半部の政治哲学。「国という者は、じつは自由のためにある」と、自由を踏みにじる国家は自らの存在理由。存立基盤を堀りくずす。哲学する人間の「現に働いている本質」見出す『エチカ』。

2022/09/30

『うんち学入門――生き物にとって「排泄物」とは何か』 増田隆一 講談社ブルーバックス

正直がっかりな本。なぜうんこが臭いのか、それは化学物質がそうさせるから、という答えなんだけど、そんなことはわかってんだよ。なんで「臭い」と認識してしまうかが問題なのだ。おいしそうな匂いだと食べちゃって危険で、臭いと認識する人間が自然淘汰で生き残ったという感じのことが書かれているとよかったな。


2022/06/16

『戦争と平和』 6 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

ようやく最終巻。しかし長かったぜ。ドーロホフやデニーソフはゲリラとしてフランス軍と戦っていた。そこにペーチャあらわる。ペーチャは血気盛な時期にあり、ドーロホフを英雄のように尊敬していってしまう。そして死ぬ。ペーチャの死はロフトフ家にとって、特に母にとって悲痛すぎる出来事となる。
プラトンも死ぬ。ピエールはただプラトンを好きだったが、病で衰弱していくにしたがい、避けるようになっていた。このあたりがピエールに皇道のよくわからなさだ。どういうことだ。なぜ親身になって看病とかしてやらないのか。ここは一つの謎だが、ピエールの思想を読み解くうえでも大切な所かと思う。死を厭うにちかいものかな。アンドレイは死を待ち焦がれていたが、ピエールは逆に死を遠ざけていく。

「生命がすべてだ。生命が神である。すべては移ろい、動いていくが、その運動こそが神である・。生命があるかぎり、神の力を自覚する喜びがある。生命を愛し、神を愛すべし。何よりも困難でかつ何よりも幸いなことは、苦しみの中にあっても、罪なき苦しみの中にあっても、己の生命を愛することである。」(98)

そしてピエールは悟る。プラトンだと。
この単純で明快なことこそが真理となる。

「昔スイスで塵を教えてくれた物静かな老教師の姿が生き生きと浮かび上がってきた。『待ちなさい』と老教師は言った。そうして彼はピエールに、一つの地球儀を示した。その地球儀は、生きていぶるぶると震えうごめく球体で、大きさも決まっていなかった。球体の表面はすべて、びっしりと寄り集まった滴でできていた。その滴のすべては動き移ろい、何粒かが溶け合って一つになったかと思えば、一粒がたくさんに分かれたりしている。それぞれの滴があふれ広がって最大限の空間を占めようとするが、同じ狙いを持った他の滴たりが圧迫して、時にはそれを潰してしまい、時にはそれと一つに溶け合うのだった。「これが生きるということなのだ」老教師が言った……「中心に神がいて、一つ一つの滴は何とか広がって、できるだけ大きく神を映し出そうとしている。それで大きくなり、溶け合い、押し合い、表面でつぶれて深く沈んでいったかと思うと、再び浮かび上がってくるのだ。ほら、これがあのプラトンだ、あふれ広がって、消えただろう。」(98)

これは興味深い描写だ。この滴のかたまりのメタファーはどこからきたのだろうか。
トルストイの「偉大さ」については、なかなかひねくれている。人はナポレオンやらアレクサンドルやらを偉大だといっているが、なぜ下民が「偉大さ」を理解できるんか、下民が理解できる「偉大さ」は下民なりの観念でしかなく、「偉大さ」のイデアとは違うとなる。トルストイはここでクトゥーゾフをもってくる。
クトゥーゾフへの大衆の憎しみや軽蔑は、まさに偉大さの証明かもしれないとなる。逆説的なかたちでトルストイクトゥーゾフの行動が失敗だったと非難されることについて書く、

「これこそ、ロシアの知性が認めようとしない、偉大ならざる者、非・偉人たちの運命である。すなわち、いったん神意を把握すると、それに自らの個人的意志を委ねてしまうような、ごくまれな、常に孤独な人間の運命なのだ。そういう者たちは、至高の法を洞察したがゆえに、大衆の憎しみや軽蔑という罰を受けるのだ。」(146)

ニコーレンカのピエールへの眼差し。そしてニコーレンカの将来の運命はいかに。ブカレストの乱につながるらしい。
生命が次の世代へと受け渡されていく。
これは大きな物語なのだ。