2020/08/29

『夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか』 クリストファー・クラーク/小原淳訳 みすず書房

しかしまあ、第一世界大戦前史というのは複雑怪奇で、昨日の味方が今日の敵だったりで、よくわからない状況。とくにバルカン戦争はもうニュートン力学的な何かではなく、複雑系の様相を呈していて、まったくもって理解不能。
教科書的に出来事を記述することはできても、その背景や権謀術数が複雑に絡み合い、その結果も予想不可能で、まさに政策決定者たちは「夢遊病者」となっていた。とはいっても、政策決定者が万能なわけではないので、夢遊病に罹患せざるを得ないものだ。市民が政府の政策を批判したって、それが正しいのかどうかの判断は未来に託されているだけだ。

第5章 バルカンの混迷
正直、とっても複雑すぎる。ブルガリアがオーストリアの後押しで独立後、ロシアは戦略的には重要なブルガリアとセルビアとのあいだでどちらをとるべきか迷う。
オーストリアからすればオスマン帝国が一定程度の影響力をバルカン半島にあるほうがよかったが、第一次バルカン戦争によってすべてが崩壊する。
アルバニア問題が1912年11月ごろからでてきており、セルビアとモンテネグロはスクータリ(シュコダル)を攻撃。最終的にはセルビアは列強の言い分に折れるかたちで第二次バルカン戦争が終わる。オーストリアが19世紀後半までもっていた、東からの侵略を阻止する要の役目は、20世紀初頭にはすでに失われていた。
ポワンカレ率いるフランスはバルカン問題に対して強硬姿勢をとっていた。イタリアのリア侵攻、そしてオスマン帝国の弱体化によって、
フランスはロシアのバルカン政策を支持しているようでそうでもなくて、ロシアがバルカン半島での勢力を伸ばすことにも懸念していた。しかしロシアのバルカン半島へ深くかかわっていることで、フランスとしてもロシアと手を組まなければならなかった。もしバルカンで戦争が起こった場合、ロシアと共同でドイツを対峙する必要があった。
同盟の意義についておもしろい見解があり、
同盟は憲法と同様、せいぜいのところ政治的現実のおおよその指針でしかなかった。(446)
日本では同盟を神聖なものと捉えがちだが、じつはそれほどでもないことがわかる。日ソ不可侵条約を犯したソ連ををあーだこーだ言ったり、ナチスドイツとソ連との不可侵条約に驚いたりするのは、ヨーロッパの外交がおそらく日本人が思っている以上に流動的で、利己的であるのだろう。信義を重んじるのは、あくまでも儀礼であり、裏では何をやっているのかわからないというのがあるのかな。
でも、それだけでは人間関係は不信感しかなくなるので、このあたり微妙なバランスがあったと思われる。

第6章 最後のチャンス
イギリスとロシアの関係はかなり微妙だったよう。ペルシャ、モンゴル、チベットでは衝突しており、英露協商の継続自体が危うい状態が続いていた。ペルシャ-インド間に鉄道を敷設するロシアの計画はイギリスの不信感を買っていたし、また日露戦争の敗戦によって、軍の改革が成し遂げられ、強力になっていた。
ヴィルヘルム2世の強硬な姿勢は、ベルリンでは受け入れられず、ベートマンが抑えていたし、ヴィルヘルム2世も正気にもどれば、戦争を回避しようとしていた。モルトケの予防戦争という路線もとられることもなく、アガディール危機も騒いだのは、フランスでもドイツでもなくイギリスだったという。ドイツはイギリスとの緊張緩和に努力していた。
よく言われるドイツのオスマン帝国やイスラーム圏への投資が協商国の反ドイツをまねいたという説明は、不十分であり、確かにアンカラバグラードへの鉄道敷設は計画は、フランスとの譲歩やイギリスへの管轄権の譲渡などで1914年6月時点で「平和的」な解決が進められていた。しかもドイツのアナトリア地方、メソポタミア地方への投資額にしろ輸出入にしろ、イギリスほど大きくなく、オーストリアよりも少なかった。
ロシアにとってはドイツのオスマン帝国への関与は恐怖だった。ロシアはボスファラス海峡は長年の懸案だったこともあり、ドイツが海峡の権益に関わることは無視できなかった。

んで、もうまとめるのがかなり面倒になってきたので一括することにする。
サラエボ事件ののち、オーストリアからすればセルビアを叩かないわけにはいかなかった。オーストリアがセルビアに突き付けた最後通牒は、本書の著者はそれほど過酷なものとして評価していない。エドワード・グレイは「最も恐れるべき文書」と評したようだが、著者はNATOがセルビア=ユーゴスラヴィアに提示板最後通牒より穏当なものだという。ただし、オーストリアがこの文章を作成するうえでセルビアが受け入れることはないことを前提にしていたことは間違いないようだ。
かなり込み入った話はおそらく忘れちゃうので、大枠としてはフランスもロシアもエ国家のエゴイズムを全面にだして動いていたことがわかる。そしてフランスもロシアも国内では意見がぶつかり合って、けっして首尾一貫した政策や戦略なんかがあったわけでもない。
イギリスとロシアとの関係ですら危うい状況であった。破綻する前にサラエボ事件が起こったにすぎない。イギリスの参戦自体も既定路線とは言い難かったようだ。
そして当時の政治家は引き起こされた戦争がいかにコストが高く、報酬が見合わなかったこと、そして短気で終わる戦争あると考えていた。確かにモルトケや他の戦略家は長期戦になると予想していたにせよ、よくわからなかったというのが本当のところだろう。
本書の要点は
単独で責任を負う国家を告発したり、あるいはそれぞれが分かち持つ戦争勃発への責任に応じて諸国家を格付けする必要が本当にあるのだろうか。……責任論を中心に据えた説明が問題なのは、ある集団に間違って責任をきするかもしれないという点ではなく、責任問題の周辺に作られた説明が先入観にもとづく推測を伴う点である。(830)

2020/08/21

『ビスマルク――ドイツ帝国を築いた政治外交術』 飯田洋介 中公新書

コンパクトにまとまっていていい。今さら分厚いビスバルクの評伝を読む気力もないので、ちょうどよかった。

ビスマルクとは
1848年のパリ二月革命のインパクトでプロイセン、オーストリアでも革命が起きる。オーストリアではメッテルニヒが失脚する。ベルリンでも自由主義的な内閣が発足するなどが起こる中、ビスマルクは反動ユンカー、反革命の闘士として登場してくる。さらにユンカーであるビスマルクは農場の利益団体である「土地所有利益擁護教会」の代表になり名を馳せ、さらに保守的な機関紙を刊行したりし、「近代的な政治手段」を使うことで政治的に注文くを集めていく。
ビスマルクは保守主義者ではあるが、それを原理原則にしていたわけではなく、

きわめて現実主義的・物質主義的な発想も備えていた。だからこそ革命という非常事態に直面して、彼は議会活動、プレス活動、結社活動という近代的な政治手段を躊躇うことなく利用することができたのである。彼はこのような考えをプロイセンという国家にも適用する。彼は、「至高なる自我」というべきか、その強烈な自意識・自尊心のゆえに、神への奉仕とプロイセン国家への奉仕を同一視し、さらに自分自身をプロイセン国家と重ね合わせている。彼にとって、大国としてのプロイセンの国益を保持・拡大することは、自身の権益を保持・拡大することを意味するため、……実現するためには、正統主義や保守反動的な理念などの原理原則に固執していてはならず、唯一の健全な基盤である「国家エゴイズム」に立脚しなければならない(52)

ビスマルクのなかで「革新」と「伝統」は融合していた。
ウィーン体制によるドイツ連邦の秩序を守るために、ナショナリズムを抑え込む必要がオーストリアという多民族国家にはあった。そしてそのためにもプロイセンの協力が必要であった。しかしビスマルクはあくまでもプロイセンの利益を重んじているため、ときには「ドイツ・ナショナリズム」にも傾き、時には社会主義者ラサールや、プロイセンにとって憎いナポレオンの甥ナポレオン三世にも近づき、反オーストリアの姿勢を見せたりした。
1862年、軍制改革を首相に就任したビスマルクは、当時においては期待されてはいなかったという。色物として見られていたようだ。

三つの戦争
1864年、プロイセンとデンマークとの戦争によって、シュレースヴィヒをプロイセン、ホルンシュタインをオーストリアが管理するとで決まるが、ビスマルクは両地方をプロセインが管理することを目指しており、そんなおりにオーストリアはイタリア統一戦争で失ったロンバルディアを奪還を目指し、プロイセンに支援を求めるがビスマルクはこれを拒絶する。とはいいつつ、ビスマルクはオーストリアとの戦争は望まず、くねくねと対応していた。
普墺戦争のきっかけはシュレースヴィヒ・ホルンシュタインでの反プロイセンの集会をオーストリアが許容したことで、ビスマルクは戦争目標を「北ドイツでのプロイセンの覇権確立」ではなく「小ドイツ主義に基づく国家統合」にし、国内にある同胞オーストリアとの戦争を嫌がる世論をナショナリズムへと誘導した。ビスマルクはイタリア、フランスに戦争に介入しない事を約束させ、戦争を短期間で終わらせる。プロイセンはこの戦争の勝利で、シュレースヴィヒ・ホルンシュタインだけでなく、ハノーファー王国、ヘッセン・カッセル選帝侯国、ナッサウ公国、自由都市フランクフルトを併合する。
スペイン継承問題でナポレオン三世をだしぬき、「エムス電報」によってフランスがプロイセンに不当な要求をしている印象を世論に与え、そして1870年普仏戦争が始まる。
プロイセンは、ナポレオン三世を捕虜とし、勝利する。多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方の割譲を実現させる。まだパリ包囲戦が続いているなかで、ヴェルサイユ宮殿、鏡の間でヴィルヘルム1世はドイツ帝国の皇帝を宣言する。
トリビアで、このときバイエルン王のルートヴィッヒ2世にヴィルヘルム1世が皇帝になることを支持させるために、多額の資金援助を行うが、それを元手にノイシュバンシュタイン城を建てたり、彼の理想が実現していったらしいが、バイロイト祝祭劇場なんかもそうなのかもしれない。

ドイツ帝国誕生と内政
このドイツ帝国はビスマルクの伝統的、保守的なプロイセン主義とは異なったものであり、ビスマルクが嫌った自由主義的で、ナショナリズムの産物だった。
そして、おもしろいのが、ビスマルクはドイツ帝国を中央集権的なシステムに作らなかったことで、神聖ローマ帝国の伝統を引き継ぎ、そしてバイエルン、ヴェルテンベルク、バーデン、ヘッセンの南ドイツ4邦に配慮し帝国の主権者はドイツ皇帝ではなく、22の君主国の君主と3つの都市国家の参事会が保持するかたちをとった。
帝国議会とは普通選挙でえらばれることになっているが、ビスマルクは帝国議会に大きな権限を与えなかった。最終的な立法機関でもなく、外交問題も口を出せなかった。ここで思い浮かぶのが日本の帝国議会で、山県有朋なんかも帝国議会を嫌っていたし、山県もビスマルクと同様に毀誉褒貶が多く、掴みどころがない人物で、日本史上最も人気のない幕末志士あがりの政治家だが、しかし彼が近代日本の統治機構を作り上げたわけで。。。。
ビスマルクは、帝国ナショナリズムを維持するうえで、意識的に無意識にかはわかならいが、国家の敵をつくりだしていく。カトリック、社会主義者など。
ビスマルクが宰相であった時代、ドイツは工業化が急激にすすみ、1879年には保護関税を導入が決まり、ドイツが有していた自由主義的な雰囲気は衰え、保守的になっていく。ユンカーであるビスマルクも農業への保護を実現させていく。
興味深いのが、工業化がもたらした自由主義と社会主義を弾圧してきたビスマルクは、社会保障制度を成立させたことで、疾病保険、労災保険、年金制度など。現在から見れば不十分すぎる内容だったかもしれないが、後世への影響はすごいものだ。
とここで、このような社会保障制度というのは、本書でも書かれているが、当時の連邦制だったドイツでは各邦から中央集権的と批判され、国家社会主義者とまで批判されたという。
おもしろいですね。自由主義を重んじるとは何かが当時の人はわかっていた証拠かもしれない。社会保障制度は国家の強権化を招くという、悲しい現実も知らないとだめですね。コロナの中で給付金をだせだとか、もっと補償金を充実させとだとか、たしかに必要なこともわかるが、それによってもたらされる国家の強大化を無視すべきではないですね。事実、特措法改正賛成の雰囲気が醸成されつつある。

外交戦略
ビスマルクは、ヨーロッパの真ん中に位置するドイツの地政学的弱さを克服するために、周辺国の対独警戒心を緩めていく。領土的野心はないことをアピールし、とくにオーストリア、ロシアとの協力関係を築こうとしていた。対してフランスには強硬的に接したがフランスは戦争の敗北で国内の軍制改革を行い、強化されていった。そのためビスマルクは脅威に感じ圧力をかけるが、これが逆にイギリスとロシアの干渉を呼ぶことになった。
ビスマルクは、イギリスとロシアとのあいだで繰り広げられれているオリエントでの衝突に対して、仲介役たらんとしてようで、露土戦争によってその契機を得る。ロシアはバルカン諸国をオスマン帝国から独立させ、ブルガリアはトルコの自治領としながらもロシアの影響下にしようと画策していた。これにイギリス、オーストリアは反発し、とくにイギリスはマルタにインド軍を派遣し、戦争直前までいったところをビスマルクがベルリンで会議を開き、仲介役を引き受けそれに成功する。ビスマルクはそこで一切の報酬を求めず、逆に各国から警戒もされたようだ。
しかもロシアはこの調停を不満に思い、反ドイツ感情が醸成されていく。そこでビスマルクはオーストリアとイギリスに接近する。これがロシアへの脅威となり逆にロシアからドイツへ協定を打診してきた。そして1881年ドイツ、オーストリア、ロシアの三国協定ができる。ビスマルクはすごいじゃないですか。しかもこれはロシアとオーストリアとの争いも未然に防ぎ、フランスとドイツでの戦争があった場合、オーストリア、ロシアもドイツを支持するようにできている。
さらに1882年、イタリア、オーストリア、ドイツの三国同盟を実現させ、さらにオーストリア、ルーマニア、ドイツの同盟も実現させてしまう。これでドイツの安全保障が完成した。
ビスマルクは一時的に植民地政策に乗り出す。なぜか、という説にはいくつかあるようで、一、内政問題から世論の眼をそらさせるため、二、ヨーロッパの勢力バランスを保たせるためのあえて行った、三、皇位の継承でフリードリヒ・ヴィルヘルム(長男が後のヴィルヘルム二世)の妃はビクトリア女王の長女であり、イギリスとわざと緊張関係をつくり親イギリス勢力の力をそぐため、とある。しかし、なぜビスマルクは植民地政策に乗り出したのかの理由はよくわからないようだ。
そんななか、オーストリアとロシアはバルカン半島で険悪になっていき、そしてフランスも反ドイツに変わっていき、ビスマルクの外交努力が崩壊していく。そして再びビスマルクは急場しのぎの同盟関係を築いていく。それによって出来上がたたの複雑なヨーロッパ情勢とフランスの孤立だった。
そして、第一次世界大戦への道をビスマルクの外交政策が招いたかどうかについては、いろいろと意見があるようで、ビスマルクがロシアとフランスの接近を生み出した元凶であるというのもあるし、当時のヨーロッパ情勢が複雑怪奇ななかでビスマルクがとれる道はこれしかなかったし、それでつかのまの平和をもたらしていたことも事実なのだ、という、まあ意見はさまざまなようです。

ビスマルク引退と評価
ビスマルクは引退してからの方が人気があったようで、まあこれは政治家の常でしょう。ビスマルクの回想録は爆売れし、ナショナリズムの象徴にもなった。ビスマルク自体、権力へ執着激しく、新聞だとかに政府批判をしていたという。大衆はヴィルヘルム二世に疎んじられたビスマルクに同情しちゃうし、これっていつの時代もそうなんだねとしかいいようがない。我々はつい最近のことを忘れていく。その反動ももちろんあって、首尾一貫して批判する人もいる。でも、後者にしたってただの頭でっかちだったりする。
いずれにせよ、ビスマルクは大政治家であったことはたしかであり、第一次世界大戦は彼の引退して24年で起こる。まあ24年という長さはけっこう長い。現代で24年前といえば、1996年で、まだ中国は経済大国ではなかったし、東南アジアだって今のような現代的というよりも古き良き東南アジアの匂いが充満していた時代です。
19世紀末から20世紀初頭は発展途上国だったロシアが一気に強国に上り詰めていった時代だし、もはやオスマン帝国は存在意義をなくし、バルカン半島ではナショナリズム旋風が吹き荒れる時代になっていく。

感想
僕は研究者ではないから下手なこと言えないが、第一次世界大戦への道をビスマルクが敷いたという主張にはあまりに事後説明的すぎると思う。あらゆる歴史事象はあらゆる後世の事象に繋がるように歴史を描くことは出来るが、それはいつだって恣意的なものになる。しかし、歴史は物語であることも踏まえれば、それは致し方がないことなのかもしれない。
こうみてみると、国家における戦略というのは非常に場当たり的であることがわかる。首尾一貫した戦略はなく対症療法でしかない。ただし、それは非難されるべきことではなく、むしろ立派な戦略家であることを示している。
僕らは首尾一貫した戦略や政策を支持しがちだが、国内問題でも国際問題でも、日々変転おり、そのなかで何が最善かはその都度考えることでしかない。首尾一貫していることは、とても楽なことだし、重要なのはどのレベルで首尾一貫しているかなのだろう。
つまりビスマルクはプロイセン主義と国家のエゴイズムであって、それから抽出される行動は首尾一貫している。表面上はめちゃくちゃに見えても、本質ではぶれていないということだろう。常に反オーストリアを貫くだとか、反フランスを貫くといったレベルでは対処はできなかった。
首尾一貫した思想というのは、抽象度を上げれば上げるだけ柔軟性を持たせることができるというものですね。

2020/08/01

映画『新聞記者』について

Netflixで公開されていたので見てしまった。

◾新聞記者なんて大した職業ではありません。
なんとナイーヴな映画なのでしょうか。
新聞記者なる職業は、悪を暴き、正義の鉄槌を下すものだとでも思っているだろうか。
しきりに政府がメディア戦略をしていることを、陰謀めいた感じで描いていますが、つーかよ、政府がメディアを使って情報操作しようとするなんて、あたりまえじゃないか。政府とマスメディアの癒着なんて、今始まったことじゃないだろう。
どんだけ新聞記者とかいう職業にノスタルジックな想いを乗せているのよ。
そもそもジャーナリズムの本質は大衆に情報や主張をどれだけ膾炙させていくか、つまりどうしたって大衆迎合主義であり、ポピュリズムとは切っても切れない関係で、だから各国の政府は歴史を振り返れば、マスメディアやジャーナリズムを使って世論操作をしようとしているわけです。
しかし、だからといって政府が世論をコントロールできるわけではない。大衆とはつねに扇情的でわがままで気まぐれなものだからだ。
太平洋戦争だって、日本政府はそこまでアメリカと戦争はしたくなかった、でも世論を静まらなかったわけで、それを先頭をきって音頭をとったのはマスメディアだ。
もう一度言うが、マスメディアとは本質的にポピュリズムであり、そして日本だけでなくどの国家もマスメディアを使い、そしてマスメディアは意図的に使われ、大衆を扇動してきた。

加計学園問題ってそんななに巨悪なの?
そもそも加計学園のことって、そんなに巨悪な事件なのか。他に追求しなければならない事っていっぱいあるんですけど。まあそれはいい。
加計学園問題の真実なるものは、全く描かれない。ノンフィクションではなくあくまでフィクションの立場でもあるからですが。
映画では大学設置計画を止めたかった神崎は、自殺しちゃんだけど、んでなぜ自殺してしまったのか、なぜ大学計画を阻止しなければならなかったのか、この大学設置企画にどんな巨悪が潜んでいるのか、そう、巨悪がなんと政府は生物兵化学器の研究所を設立するためだったとか何とか。おっひょー。

一つ納得がいかないというか、おそらくはこの映画を見る人たちの多くが知らないことだろうが、レベル4の実験室を日本でつくるのが難しいのは、かなり危険な研究を行うから周辺住民から反対が起こったりする。たしかに僕の近所にこんな研究室ができたら嫌ですが。
この映画でレベル4であることが、なんか生物化学兵器と結びつくように描かれているが、まったくその通りだけれど、その研究自体は否定されるべきものではない。
戦争反対でも、戦争が何であるのかを研究する必要はあるし、生物化学兵器に反対でもそれに応じた研究がなければ、国民の安全も守れないのです。
この手の映画のよくないところは、つまらない正義をかかげすぎるところかな。そして悲しいのは新聞記者というジャーナリズムを推している割には、日本でのレベル4の実験室の設立の難しさ、それによってもたらされている日本の研究の遅れなどは無視され、陰謀論へと流されてしまっている。

この映画の存在論的ダメさ
新聞記者は「真実を追求すること」という前提があるが、この映画自体が「真実」が描かれない。この映画は、あくまで一人の新聞記者が巨悪に一人闘っていく、その姿を描く。
そして悲しいのは、加計学園を匂わせておいて、生物化学兵器と結びつけてしまうという、やっていることは映画にでてくる内調といっしょじゃないですかー。
この映画の存在自体が物語っているのは、メディアが単なる大衆操作の道具であることで、決して「真実を追求する」ことではないということだ。
そういう構造に気付かないダメさ加減よ。

深刻ぶってるバカたち
とはいっても、僕がモデルである望月衣塑子氏に批判的でもあるし、そもそも新聞やテレビ報道も嫌いだし、だから見る前から批判的だったのでフェアな感想ではないけどね。
だけどさー、主人公は何もしないで、情報が入ってきて、一件落着だけど、タイトルに「新聞記者」とあるわりには、取材だとかの描写が貧弱です。
スクープが一面にのることができ校了。新聞が印刷され、各地にはトラックで運ばれ、喫茶店、コンビニ、家庭に届けられていくシーンとなる。「真実」が全国に広まるイメージだね。
ちょっと心を動かされる描写ではあるけど、翻ってみれば、結局は「真実」なんかどうでもよくて、映像によって視聴者を動かそうとしているわけです。
ジャーナリズムとはなんでしょうかね。
また不明なのが最後、杉原が呆然と憔悴しきった感じになってるけど、次は俺の番だ的ななにかでしょうか。意味深で終わる。
はっきり言って、転職すりゃ―いいじゃん。何を思い詰めてんだよ、バーカ。

総論
この程度の内容で、ヤバイ映画扱いされているって、それこそヤバいですね。メディア関係者はこの程度のクソ生ぬるいストーリーですら、政府批判のやばい内容な映画として扱い、よく作れたな―とか言ってるようじゃ、安倍政権云々以前に、お前らダメなやつらじゃん。
そして、この程度の映画が日本アカデミー賞をとってしまう闇の深さよ。
安倍政権反対を叫べば、それが正義であり、ジャーナリズムであるという錯覚。
穿った見方をしますと、日本が世界報道の自由ランキングで低い順位になればあるほど、この日本で一部のジャーナリストが英雄みたいになっていくというこの逆説よ。日本の報道はいろいろと障害あるんですよーと叫べば叫ぶほど望月さん一派は真のジャーナリストになっていくわけです。
言わせてもらえば、日本では報道の自由はかなりある。それを行使していないだけだろう。安倍政権のせいじゃないよ。
最近、「ジャーナリズム信頼回復のための6つの提言」なるものが、黒川テンピン麻雀事件をきっかけに、ジャーナリストや大学関係者(きもいな)が発起人となり、賛同者を集めているようですが、なんだかね、なんか声をあげれば賛同者は集まりますが、発起人の面子をみれば、賛同する輩の質が透けて見えますし、あと腹が立つのが署名を集めれば運動したことになったり、声をあげたことになることです。
この件でのちのち、私はあの時声をあげました的なことだけは言ってほしくない。
いつまでこんなくだらない署名活動をしているのでしょうかね。