2018/11/18

ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文藝春秋 村井章子訳

これはタイトルに偽りありだと言われてもしょうがない。帳簿についての歴史的変遷、技術革新などについて、例えば減価償却や現存会計などについて書かれているのかと思っていたら、複式簿記を使用していた商人や政治家、王などについて書かれていて、それはそれで面白いけど、肩透かしだったぜ。まあ原題は"The Reckoning; Financial accountability and the Rise and Fall of nations"で、日本の出版社側の落ち度でしょう。英語の副題は「財政責任と国家の興亡」となっているから、「帳簿の世界史」とは違うだろうよ。
とはいっても、ヨーロッパに限定した記述しかないが、面白い内容ではあった。公認会計士が鉄道会社を監督するためであったり、中世における簿記をする人物の描かれ方と現代の違い。文学に登場する簿記などなど。
帳簿の透明性を保つこと、帳簿を厳格につけることなど、これは難しいことだとは思う。
ただし、この本ではあまりに帳簿を付けることを重要視しすぎていて、あたかも帳簿を付けてたから成功者になれるといった感じがある。たとえばルイ14世がコルベールを失った後に、フランスは没落し革命に至ると言うが、ルイ14が死んでから70年も経ってから起こった。言ってしまえば、帳簿しなくても70年は王権を保つことができたともいえる。これはメディチ家のところでもそうで、新プラトン主義が盛んになるにしたがって実務が軽んじられ、コジモをついだロレンツォは帳簿を知らず、その息子の代で没落していくと書かれているが、まあ一理あるとは思う。ただし、これは帳簿つけなくなっかたらというよりも、メディチ家そのものが商人から脱却して政治家に変貌したからで、だから帳簿もつけなくなった。
全体的に帳簿、会計という観点から国家の興亡を描いているところでは面白いのだけれど、ちょっと強引なところもなくはない。

全体的に面白いことは確かで、多くの経営者や政治家、王族は自分たちの帳簿を見せたくないという心理もそのとおりで、上場企業なら決算書は公開が義務だけど、中小企業などの非上場で家族経営だったり、オーナー企業だったりすれば、決算書が従業員の目にするところに置いてあること自体がまれだろうやっぱり他人に懐事情を知られたくないというのは、万人に共通する心理のようだ。
僕自身、中小企業、いや零細といってもいいくらいの会社で働いていてい、自分の会社の決算書を手に入れるのが大変だ。それで、決算書を見て思うのは、別にこんなの従業員に見せてもかまわないと思う内容で、別に社長が私腹を肥やしている形跡はないし、いたってまっとうなのに。見せればその分従業員は危機意識も沸いて、経営上非常に良いと思うのだけれども。

2018/11/17

奥州平泉 高橋克彦『炎立つ』と斉藤利男『平泉--北方王国の夢』

高橋克彦『炎立つ』NHK出版
平安後期の陸奥から奥州平泉までを描く歴史小説だが、やはり読んでいるとどうもつまらない。司馬遼太郎と比較してしまうが、司馬がもし安倍一族、奥州藤原一族を描く際は、もっと緻密に歴史、文化、習俗といった外堀を埋めながら描くはずだ。しかしこの小説はこれらがほとんど描かれていないため、大和と陸奥との対比がほとんどなく話は進んでいく。たしかに大和の政治組織のあり方との違いやアラハバキといった東国ならではの要素はあるのだけれども。
蝦夷といったところで、蝦夷とは何かがこの小説では問題になっていない。あくまで大和とは違うといった話ししかない。また物部一族にしてもその歴史は謎が多いのだが、ほとんど説明もない。
この小説は、奥州が大和とは一線を画した文化と政治が営まれていた領域であり、朝廷に属さない独立政権であったことが主題となっているところがある。僕もその通りだと思うし、天皇が現在の日本の伝統だなんて微塵も考えていない。しかし、この小説では、大和と陸奥の対比がうまくいっていない。
あとはアラハバキ自体もこの小説では蝦夷たち、古代大和から追放された神であり、鉄を司る神として登場するが、まあ小説だから許されるけども、この説明自体「東日流外三郡史」をもとにしているもので、ロマンはあるけども読んでいて白けてしまった部分もある。義経が宋に渡るとかも、まあまあまあといった感じ。高橋克彦の小説は、この手のロマンがあって、それが魅力でもあるのだけれど、もっと真実味をだせるともっと面白いのだけれど。僕も超古代文明的な話は好きだし、日猶同祖論的なものも好きだが、ちょっと記述が不十分かなとは思う。あと高橋氏は、実際どこまでこの手の話を信じているのかがよくわからない。なんてったて南山宏やゲリー・ボーネルと対談までしている。ここまでくると単なる超古代文明愛好者の域を越えている。
ただし、この義経の死というのは確かに変な感じで、この小説でも最後の第五巻はへんてこりんな内容になっている。
奥州平泉の滅亡は非常にあっさりしている。大軍を擁しながら決戦もせずに、平泉を撤退してしまっている。さらに義経の死も不審で、首は焼けただれていたし、死後40日以上もたってから鎌倉に運ばれている。だれも義経かどうかを確認できない状況だ。
この小説の第五巻では泰衡の英断によって、朝廷とは戦わず、蝦夷の精神を後世に残すため、平泉を戦場にせず、すべて頼朝に明け渡したという風に描かれているのだが、ちと無理矢理すぎるような。この小説の失敗を言えば、第五巻で泰衡がなぜ頼朝と闘わなかったのかの理由があまりに弱い。そして史実として決戦が行われていないため、小説としての盛り上がりが欠けてしまう。それをどう補おうかと、高橋氏の苦心はよくわかるのだが、やはりちょっと白けてしまう。
豊臣秀吉の天下統一まで、日本は統一されたことがないにもかかわらず、あたまかも古代から「日本」があったかのように語られる今日において、この小説に類するものがもっと出版されれば解毒剤にもなるかと思う。

そこでついでながら、斉藤利男氏の『平泉--北方王国の夢』(講談社メチエ)も一緒に読む。まあ小説と歴史学の違いもわかる。下記、その違いについてざっと箇条書き。
*安倍氏は純粋に蝦夷ではなく、もともとは中央貴族で安倍比高の末裔との指摘がある。これは清原氏にも同じことが言える。しかし、これら北奥の豪族は蝦夷としての性格が強かった。
*前九年合戦は、小説で書かれているような経緯ではなく、そもそも坂東奥羽の不安定さを危惧する朝廷の無策から。
*小説では、まるで経清と平永衡のみが安部側についてように書かれているが、多くの在庁官人が安倍側となって戦っている。それは小説のように朝廷対蝦夷といった感じではない。
*蝦夷地平定の延久合戦が小説では書かれていない。この合戦は蝦夷地を平定呈するために清原の力を借り行われたもの。
*仏教王国なのであって、アラハバキではない!! ここ、高橋氏はよくわからないアラハバキではなくて当時の民俗宗教をもとに小説を書くべきだった。アラハバキは興ざめだろう。

なかなか面白い指摘をしていたのが、平泉が仏教王国、よくに天台宗、を目指していたという点で、11世紀から12世紀にかけて神仏習合(本地垂迹)と神統譜の整理による中世天皇神話が浸透し始めてきたときとのことで、このローカルな動きを横目に仏教というインドで生まれた世界宗教をもとに国づくりをしたというのだ。あらゆるものが天皇との関係で語られてしまう危険性を当時からあったのだろう。地方の神々が天皇の系譜に組み込まれていくことへの危惧があり、奥州を支配していた蝦夷の人々は、中央から俘囚と蔑まれながら、中央と同じ宗教に属することは我慢ならなかったのかもしれない。そしてこの平泉仏教文化は普遍性への志向だけでなく、土着的なカミさまを祭っていて、これもまた中央からは異質の世界を作り上げていた。ゆえ春日大社などの分社が北奥に立つことは、鎌倉時代をまつまでなかった。この平泉仏教は、密教系の中央のものとは異なり、法華経が目指す普遍的な平等の理念を目指したものだったという。

さて、この小説と斉藤氏の著書で、小説と多くの異なるとこがでているが、一番は、なぜ平泉政権は、源平合戦に参戦しなかったのか、という点で、高橋氏は平和を守るための消極的な理由に落ち着いていてつまらない解釈であったが、斉藤しが提示するのは平泉は独立政権として大和朝廷の内政に関与することはなかった。奥州は京都からすれば外国であり、奥州の人々も自らは京都人とは違うことは自明であったに違いない。平泉からすれば京都の内紛に口をださないのは当然といったところなのだろう。

日本は明治から徐々に統一された「日本」像を作り上げてきている。現代ではかなりそれは成功しており、すでに地方は僕らのかには存在しないかもしれない。なんとまあつまらない国になったことだろう。